Unbreakable - 3

 派手な赤のドレスが今シーズンの流行らしく、応接間や舞踏室のあちらこちらで真紅の布が炎のように揺らめいている。

 今夜の招待客には若い連中が多く、特に華やかな集まりになりそうだった。エドモンドはまだ主催者であるヒューバートを見ていなかったが、奴のことだ、今にポマードで塗り固めたテカテカの頭で降りてきて、偉そうだが内容のない薄っぺらい演説をはじめることだろう。

 応接間はすでに人で溢れていた。

 ──男が多すぎることに、エドモンドは苛立ちを隠しきれない。


 ここで、オリヴィアについて説明しよう。

 彼女のドレスは大きく襟ぐりが開かれており、わきの下辺りでかろうじて両袖とくっついている形だった。首から肩にかけての曲線が大胆に露出していて、豊かに張り出した胸の上に首飾りが乗ってきらきらと輝いている。ほっそりとした腰周りはボディスできゅっと強調され、背中には小さな真珠のボタンが並んでいた……この面倒なボタンを外す権利を、エドモンドは主張したくてたまらない。

 この、魅惑的な水色の瞳をした小さな生き物は現在、エドモンドの腕の中でその細い腰をくねりながら、怒ったような顔をして彼を見上げている。彼女は、引き返すことのできない道に迷い込んでしまったことを理解していないようだった。

 めずらしく癇癪のようなものを起こし、夫に抵抗しようとしている。

 まったくもって愚かな選択だった。

 なぜなら、適量の香辛料が料理の旨味を引き立てるように、こうした可愛らしい抵抗はエドモンドの情熱を余計にかき立てるだけだったからだ。否、エドモンドの情熱だけならまだいいとしよう。しかしこの舞踏会には少なく見積もって百人の男どもがおり、どれも紳士とは名ばかりの好色な野獣ばかりなのだ。

 エドモンドはオリヴィアを抱く腕にさらに力を込めて、水色の瞳をじっと見つめた。

 今まで彼の人生で、決心が揺らいだことなど、一度もなかった。

 それがこの瞳を見つめていると、その剛鉄の心にひびが入ってきて、どうしても崩れ落ちそうになる。このまま喧騒にまぎれて彼女を連れて、どこか知らない世界へ行ってしまいたかった。他の男も、領地も、バレット家の呪いも存在しないどこかへ──。


 楽団の演奏する音楽が踊りのための軽快な調子に変わってくると、人々は遠慮を捨ててどんどん饒舌に、そして大胆になっていくようだった。それにしたがって、エドモンドとオリヴィアは二人の世界に浸っているわけにはいかなくなってきた。

 数人の知人たちに声を掛けられて、エドモンドは妻を紹介しなければならなくなった。

 オリヴィアはエドモンドより愛想のいい挨拶が得意のようで、エドモンドの力強い腕から開放されると、ドレスの裾を慌てて手で撫で付けながら挨拶を返して回った。

「あなたは幸せ者だな、ノースウッド伯爵。なんと美しい奥方だ」

 ランデス卿と名乗る背の高い男性が近づいてきて、うやうやしくオリヴィアの前に頭を下げた。「どうか私と一曲踊っていただけませんかな、マイ・レイディ? ワルツはお好きですか? 一曲だけですぐにお放しいたしますよ」

 それが最初の申し出だった。

 あとに長々と続く踊りの相手の申し出の、はじまりだった。

 オリヴィアが遠慮がちにエドモンドを見上げると、彼はむっつりと唇を一文字に引いて不快感を露わにしているように見えた……が、次の瞬間には、

「もちろんだ。楽しんできなさい、マダム」

 と言って、オリヴィアをランデス卿の前に押しだした。


 ワルツが軽快に奏でられ、沢山の紳士淑女が応接間から舞踏室に移っていく。その人の波に混じって、ランデス卿はオリヴィアの手を引いた。二人は舞踏室の中央で向き合うと手に手を取ってステップを踏みだした。ランデス卿は茶色の巻き毛と同色の瞳を持った社交的な人物で、踊りが上手かった。

「あなたはまるで雪の中に咲いた一輪の花だ。ノースウッド伯爵は幸運ですな……長く待つものは最後に得をすると東洋の諺にあるそうだが、あれは本当だったらしい」

 ランデス卿はオリヴィアの耳元に呟いた。

 エドモンドが晩婚に近かったのを指して言っているらしい。オリヴィアはその東洋の賢者の言葉に感銘をうけて、小さく唸った。ランデス卿はそれをなにか別の意味に取ったようで、急にステップを早め、ぐっと腰に手を回してきた。

「ああ、ノースウッド伯爵が羨ましい。しかし私も、今夜は二階の客間に泊まっておりますよ」

 一曲目のワルツは比較的早く終わった。

 オリヴィアはほっとしてランデス卿に礼を言うと、次の曲が始まるまでに夫を見つけなければならないと考え、あちこちを見回した。しかし、普段ならよく目立つ背の高いダーク・ブロンドの影は、どこにも見当たらない。慌てたオリヴィアは不安になり、早足で応接間へ移動しようとした。──ランデス卿は人当たりがよく踊りの上手い紳士であったが、彼の視線は不自然なほどぴったりとオリヴィアの胸の上に張り付いていて、二曲目はありえない。

 すると、沢山の人並みにもまれて移動に苦労しているオリヴィアの手を、誰かが急に握った。

 顔だけで後ろを振り返ると、そこには見たことのある気取った顔があった。

「サウスウッド伯爵!」

 オリヴィアは声を上げたが、それは楽団の音楽にかき消された。

「レディ・ノースウッド、今夜はお目にかかれて嬉しい。そして今夜は特に美しいあなただ」

 砂糖の甘ったるい香りがしてきそうなくらい、たっぷりのポマードで金髪を後ろに撫で付けたヒューバートがいて、オリヴィアを身体ごと振り向かせると手の甲に素早く口付けをした。「もちろん、一曲踊っていただけますね?」

 オリヴィアは断る口実を探そうとしたが、まったく思い当たらなかった。おまけに、主催者に踊りを申し込まれるのは一種の名誉でもある。理由もなく断るわけにはいかず、オリヴィアは遠慮がちに答えた。

「え、ええ……一曲くらいなら……」

「では」

 ヒューバートの強引な手に引かれ、再び舞踏室の中央に戻ったオリヴィアは、始まる音楽に合わせてなんとか形だけのステップを踏み始めた。しかし、オリヴィアがダンスの相手に集中していないのを理解したヒューバートは、ぐっと手を握ることで彼女の注意を躍起しようとした。

 強く手を握られたオリヴィアは、眉をしかめてヒューバートを見上げる。

「楽しんでいただけていますか、オリヴィア? 今夜は屋敷中に最高のものを用意したつもりですよ。食事も酒も音楽も……」

 冷ややかなのか穏やかなのか判断のつきにくい微笑を見せたヒューバートは、巧みにオリヴィアをリードしていた。

「え、ええ、素晴らしい集まりですわ」

「では、堅苦しいことは忘れて楽しんでください。どうも、あなたのご主人も、別にお楽しみを見つけたようだからね」

「え……」

 ヒューバートは踊りのリズムを上手く利用して、オリヴィアの顔を舞踏室の端に向けさせた。──探るまでもなかった。群集から頭一つ背の高い彼は、すぐにオリヴィアの目に飛び込んできた。

 エドモンドの隣には美しい金髪の女性がいて、親しげに彼の腕に手をからませている。

 大胆で美しい緑のドレスは、エドモンドの瞳の色によく映えていて、まるで彼の隣に立つために仕立て上げられたようでさえあった。彼女はオリヴィアに比べると背が高く、並んでいる二人は高貴な獅子のつがいのようだ。オリヴィアの胸にチクリと嫉妬の針が刺さった。

 オリヴィアが自由だということは、当然、エドモンドも自由なのだと──。

 そういうことなのだろうか?

 それを、受け入れなければならないのだろうか?

「あの方……彼女は誰です? 夫の隣にいる、緑のドレスの方です」

 当惑がステップに現れ、オリヴィアはもう少しでヒューバートの足を踏んづけてしまうところだった。ヒューバートはなんとかそれをかわして、優雅な踊りを続けた。

「ガブリエラ・ファレルといって、私の妹です。昔からあなたの夫に執心でしてね、どうやら、彼の方もまんざらではないようだな。そう思いませんか?」

 オリヴィアは驚いてヒューバートを見た。

 夫が、他の女に関心があるようだと言われて喜ぶ女がいるとでも思っているのだろうか。しかも妹だという。仕組まれた誘惑の匂いがするようではないか……。

「いいえ、サウスウッド伯爵……私は彼を信じています」

「そうかな? まあいい、真実は今に分かりますよ」

 ローナンに引き続き、今夜二人目が『真実』について言及したのを聞いて、オリヴィアはきゅっと唇を合わせた。今度の曲は最初のものよりもかなり長く、オリヴィアは踊り疲れるくらいまでヒューバートに付き合わされるはめになった。その間ずっと巧みに踊りの局面を利用したヒューバートに肌をこすり合わされ、オリヴィアはだんだん落ち着きのない気持ちにさせられた。

 時々、エドモンドの方をちらりと振り返って見てみる。

 彼はいつもじっとこちらを見ていた。

 しかし、その腕にはヒューバートの妹とやらが意味ありげにしな垂れかかっている。

 オリヴィアはどうしていいのか分からなくなってきた。怒っていいのか、悲しんでいいのか、それともいっそのこと、彼らから目を離して陽気な音楽や踊りを楽しんでしまうべきなのか。

「あなたはあなたで楽しんでいいんですよ、オリヴィア」

 彼女の気持ちを見透かしたように、ヒューバートは言った。

 やっと曲が終わり、ヒューバートの物欲しそうな手から離れることができるとオリヴィアは思っていたが、相手はそう謙虚ではなかった。

 首の周りに大げさな飾りが施されたシャツを着たヒューバートは、自分がもっとも優雅だと思えっている腰のかがめ方をして、オリヴィアを二曲目に誘った。「どうか、次の曲もご一緒いただけないかな」

「お誘いはうれしいのですけれど、私、とても疲れてしまいました。少し休んで、飲み物をいただいてこようと思います」

 いつもの微笑みを浮かべて、オリヴィアはこの誘いから逃げ出そうとした。

 しかし、ヒューバートはこの答えに別の機会チャンスを見いだして、ますます強引に彼女の手を引いた。「では、私が飲み物を持ってきてあげましょう。こちらにいらしてください、いいですね」

 さすがに自分の屋敷だけあって、ヒューバートは器用にオリヴィアを舞踏室の脇に案内した。豪華な壁紙の張られた壁と、外の庭に続く大きな窓があって、エドモンドたちが立っている端からもっとも遠い場所だった。

「ここにいてください。ああ、そうそう、他の殿方の誘いを受けては駄目ですよ」

 オリヴィアの答えを待たずに、ヒューバートは早足で離れていった。


 飲み物を待っているあいだ、数人の男性に声を掛けられたが、オリヴィアはどの誘いも丁重に断り続けた。──ヒューバートの言葉を守っている訳ではなく、対岸にいるエドモンドの視線が怖かったからだ。

 彼は手に飲み物のグラスを持っていたが、持っているだけで一度も口には運んでいない。

 彼の隣では、ヒューバートの妹が、大胆なドレスに包まれた身体を押し付けるように彼の周りをくねくね回っている。許しがたい光景だったが、オリヴィアは遠くから悶々とすることしかできなかった。

(ピートはどこに行ったのかしら……)

 エドモンドとオリヴィアは、舞踏室の華やかな人々と踊りを挟んで、遠くから見つめ合っていた。

(呪いの存在しない理由を聞き出せれば……ノースウッド伯爵の決心を変えられるかも知れないのに……)


 屋敷の中は舞踏会の喧騒で明るく沸き立っていたが、窓の外からは雷鳴が轟いていた。

 ふんだんに振舞われるカクテルの影響がだんだんと現れ始め、舞踏会の熱気はさらに大胆なものへと変わってゆくところらしかった。

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