The Stolen Truth - 2

 オリヴィアは思わず目をしばたたかせた。

 目の前にいる皺だらけの老人は、真っ白な髪を四方に散らばせていて、実際の身長よりずっと大きく見える。それでなくとも強烈な個性で迫力には事欠ことかかない人物だったから、オリヴィアは大変な勇気をふりしぼらなけれ彼と対峙することができなかった。

 深い瞳は加齢により少し濁っているが、それでも元は活力に溢れた緑だったのが隠せていない。

「あなたが……」

 オリヴィアが呟くと、興奮したままのマギーが大きく頭を振った。

「公然の秘密なんだよ、マダム。テラブって苗字も、本当はただバレットを逆さにしただけなんだ。ノースウッド伯爵の継承権をうるさく言われたくなくてね、表向きには隠してるけど、この辺じゃ皆知ってるよ」

「それは……でも、どうして……」

「それはこの偏屈じじいが説明してくれるだろうね。さあ、ジョー、こっちに来な! マダム、この男が何か悪さをしようとしたら呼ぶんだよ。もっとももう、死んだ魚も相手にできないくらいの老いぼれだけどね!」

 辛辣にそう言ったマギーは、戸惑うジョーを強引に引きずりながら食堂を出て行った。


 まだ誰も手を付けていない朝食が、テーブルの上に空しく並んだままでいる。

 オリヴィアは何かを話さなければならないと思って、落ち着きなくドレスの裾をいじった。失踪したまま行方不明になったか、亡くなったかしたと思っていたエドモンドとローナンの祖父が、目の前にいるのだ。

 一見化石のように見える皺だらけの容貌にもかかわらず、杖もつかずに綽々しゃくしゃくと屋敷を徘徊し、あちこちで毒舌を振りかざしているバレット家の不思議な老執事……。それがエドモンドの祖父だったなんて。

 彼は一月のうちほとんどを屋敷から留守にしていて、オリヴィアと顔を合わせる回数は多くなかった。いても、朝寝坊の上に、昼間はサロンでふんぞりがえって使用人やオリヴィアに色々と文句を言うくらいで、特別なことは何もしていない。オリヴィアはオリヴィアで忙しく、仕事を覚えるためにマギーに付きっきりのことが多かったから、この気難しい老人は極力避けてきたのだ。


「ご存知だと思いますが、私はこれでも伯爵夫人なのです、ピート」

 オリヴィアの心は重かったが、できるだけの威厳をもって顔を上げて尋ねた。「あと五日だけですけど……でも今はまだ、ノースウッド伯爵の妻です。真実を知る権利があるわ。マギーの言ったことは本当なのですか?」

 するとピートは微笑のようなものを見せた。

「死んだ魚がどうとかいうくだりを除けばな。わしはあの阿呆なお前の夫より役に立つだろう」

「彼を侮辱しないでください!」

「わしは正直なだけだ。ちなみにもう一度言うが、もし誰かがお前のちんけな泣き顔を綺麗だと言ったら、それは嘘だぞ」

「な……っ」

 反発を感じながらも、オリヴィアは自分の頬に手を伸ばして涙の跡を荒っぽく拭いた。この老人にはちくりと刺されてばかりだ。それもなまじか嘘ばかりではないから、いつも反論できなくなる。これがエドモンドやローナンと血の繋がった祖父らしいのだから、血統とは怖いものだ。

 いまや、オリヴィアは破れかぶれな気持ちで一杯だった──。

 夫からは五日後の舞踏会のあとに実家へ帰れと言い渡され、その悲しみに泣き沈んでいれば、泣き顔が不細工だからやめろと執事から文句を言われる。

 不条理にだんだんと腹が立ってきて、今ならこの老執事に無謀な反撃を加えられそうな気分になった。窮鼠猫を噛むという。じっさい、ネズミは中々賢い生き物なのだ。

「あなたは……ノースウッド伯爵のお父さまが幼かった頃に、領地から失踪されたのでしょう。いつ戻っていらしたのか知りませんけど、あなたが阿呆と呼ぶ私の夫は、どこへも逃げずにずっとノースウッドを守ってきました」

「今はまだな。しかし、そう遠くないうちにわしと同じか、そうでなければもっと性質が悪くなるぞ」

「いいえ!」

 オリヴィアは憤然と声を上げた。「彼は逃げないわ。絶対に。私には分かります」

「奴はすでにお前さんから逃げようとしている。違うか?」

「それとこれとは話が違います。私たちは約束をしました……これは公正な結果なんです。私の努力が至らなかっただけなのよ」

「違う。もっともお前さんの小さい頭では分からなくて仕方ないだろうがな。よく考えてみたらどうだ」

 オリヴィアはむっとして口を引き結んだ。

 考えるも何も、エドモンドは心を決めたのだ。それについてじっくり考えたくはなかった。みじめな気持ちになるだけだ。

 バレット家の呪いがある限り、彼は考えを変えないだろう。

 オリヴィアはそんな彼の頑なな心を溶かしたいと願い、そのために努力したつもりだったが、結果は実らなかった。これ以上それについて考え、傷口に塩を塗るような真似をする必要はないではないか!

 反抗するようなオリヴィアの視線を受けると、ピートはゆっくりと彼女に近づいてきた。年のせいか足を引きずって歩くので、床をこする音が不吉に響いてくる。恐怖にオリヴィアのうなじの産毛が逆立った。

「わしがノースウッドに帰ってきたのは、エドモンドが爵位を継いでしばらくした頃だ……」

 地の底から聞こえてくるような声に、オリヴィアは思わず一歩後ずさった。

「わしは長い間地獄をさまよっていた……そして、帰ってきてみれば、息子を失ったあとだった。エドはまだ若く立場が不安定で、わしはまだ領主の地位を取り返してもいいほどの若さだった。結果、わしは二度とバレットを名乗ることはしまいと誓った。地元の者は皆気付いたがな、中央に嘘を通せればそれでよかった」

「そ、それと……どんな関係が……」

「真実を知っているのはわしだけだ」

「何の真実です?」

「『バレット家の呪い』の真実を」

 老執事に鼻先までつめ寄られて、オリヴィアは狼狽した。噛み付く相手を間違えてしまったのかもしれない。この猫は老猫でも、もっとも危険な野生の山猫だ。

「わしは、エドモンドの心を変えられるかもしれない唯一の人間だ。知りたくはないか? 呪いなど本当は存在しない理由を」

「え──」

「呪いは存在しない。まぁ、多分、な」

 オリヴィアは両目を大きく開いて目の前の老人をまじまじと見た。皺に覆われた口元が得意げな曲線を描いているように見えて、オリヴィアは好奇心と恐怖心の両方を誘われた。

「呪いは存在しない……?」

 老人の言葉を繰り返したオリヴィアは、信じられないというように小さく首を振った。「でも、だったら、どうしてそれを隠していたりするんです? ノースウッド伯爵は信じているわ……それで苦しんでいるのよ」

「お前には関係ないわ。さあ、知りたいのか知りたくないのか?」

「もちろん知りたいに決まっています!」

「じゃあ、何かして見せろ」

「は?」

「何か、わしを楽しませて見せろと言ったのだ。お前、泣き顔は見られたものではないが、他はなかなか悪くない見栄えだ。特にこの辺りがいい」

 と、言ってピートは、胸の前を両手で掴む仕草をした。

 オリヴィアは一瞬なにを言われたのか分からなくて、眉をひそめた。するとピートは胸の前に置いた両手をふにゃふにゃと揉むような仕草を繰り返した──オリヴィアは頭からつま先まで真っ赤になった。

「こ……っ、これはノースウッド伯爵のものです!」

 両腕を回して胸元を隠すと、オリヴィアは叫んだ。

「あの阿呆はそう思っておらんようだ。なに、ものの数分くらいで許してやろう。減るもんじゃあるまいし……」

 ピートがオリヴィアに向けて手を伸ばそうとした。その目は好色そうに歪んでいる……。


 次の瞬間、空気をつんざくようなオリヴィアの悲鳴と共に、乾いた平手打ちが老人の頬に炸裂した。







 それから数日が過ぎて、オリヴィアは後悔が何たるものかを深く学ぶことになった。

(も、もう、いっそのこと……)

 あの好色な老人の願いを叶えてやればよかったのかもしれないとさえ、考え始めていた。ピートはたいてい屋敷にいたが、部屋に引っ込んでいることの方が多く、食事もそこに運ばせている。彼が気まぐれに屋敷内を徘徊する貴重なときを狙って、オリヴィアは彼に接近してみたが、例の毒舌でのらりくらりとかわされてしまうのだった。

 彼の言う「呪いの存在しない理由」が分かれば、エドモンドもきっと心を変えてくれるだろう。オリヴィアは必死だったが、ピートはついに口を割らなかった。その上、こんな時に最も頼りになりそうなローナンが、用事があるとかで数日かけて留守にしている。

 そして肝心のエドモンドは器用にオリヴィアを避けていた。


(舞踏会まであと二日……)

 楽しい時間は早く過ぎ、苦労している時間はゆっくりと過ぎるというのは、絶対の真実だったわけではないらしい。時間が過ぎるのが早かった。オリヴィアは焦ったが、時は刻々と刻まれていって、ついに舞踏会は目前となった。注文のドレスがマーガレットの仕立て屋から届き、その見事な出来栄えにオリヴィアは感心した。──ただ、スケッチにあったよりも胸が開かれているように見えるのが、少し気になったが。



 舞踏会のワルツが聞こえてくるようだ──。

 狂乱の舞台が幕を開き、運命の狂想曲が高らかに奏でられようとしていた。

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