The Tipping Point - 2

 ──火が、ついた。そう思えるくらい熱かった。


 オリヴィアが顔を上げると、エドモンドの男性的な輪郭が視界に飛び込んできた。

 しっかりと横一文字に結ばれたエドモンドの唇は、彼の意志の強さを表しているようにも思えるし、目元から額にかけての彫りの深い顔立ちは、彼の厳しい人生観を象徴しているようにも見える。

 でも……オリヴィアの二の腕を掴んだ彼の手は、熱くてたまらない。

(こんな……)

 エドモンドが、こんなふうに熱くなれる男だとは、一度も思わなかった。

(ううん……一度だけ)

 そうだ、一度だけ、結婚式の誓いのキスで、こんな情熱を感じた。

 しかしそれ以来、エドモンドの熱は冷水を浴びせかけられたかのように消えてなくなっていた。もしくは、あれはオリヴィアの緊張が作り出した夢だったのかもしれないと、そう思い始めていた。

 今のエドモンドは違う。

 まるで全身が炎に包まれているように、熱い。


「『妻』と言ったな」

 老執事──ピートの声が後ろから聞こえてきて、オリヴィアははっと現実に意識を戻した。

 そうだ、なにを呆けていたのだろう!

 自分は実家に帰る準備をしているはずだった。それが、どういう訳か老執事に阻まれて、今はエドモンドに行く手を遮られている。

 少しばかり、力強い腕に触れられたからといって、ぼうっとしている場合ではなかった。

 オリヴィアは慌ててエドモンドの手を振りほどこうと身をよじった。──しかし、ビクともしない。

 昔、庭でいたずらしていたところを屈強の門番に捕まって、父の元へ連れて行かれたときも、こんな固い力で腕を掴まれたことがある。しかしエドモンドのそれは、意地悪な門番よりもずっと性質が悪かった。

 彼には、どうやら、オリヴィアの腕を強く握っているという意識がないようなのだ。

 ピートは言った。

「その『妻』とやらは、実家へ帰ると騒いでおったぞ。お前に侮辱されたと叫びながら、ヒステリーを起こした老婆のように暴れておったわい」

「な……っ! あ、暴れてなんかいません!」

 根性なし発言に続き、老婆呼ばわりされ、オリヴィアは真っ赤になった。

 しかしエドモンドはそれを軽く無視し、静かな声で答えた。

「だとしても、やはり、あなたにどうこう言う資格はないでしょう。ピート」

「そんな資格がある者はこの世に誰もおらん。死者の中にもな。わしはわしの思ったことを言っているだけだ。わし自身の経験に基づいて──な」

 オリヴィアは湧き上がる羞恥心に癇癪を起こしかけていたが、男たち二人の声色が急に冷えだしてきたのを感じて、今度は疑問に混乱しはじめた。


 ──どうなっているの?

 ピートは、ただの執事ではないの?

 どうしてエドモンドはそんな畏かしこまった喋り方をするの──。

 一体ピートは何が言いたいの──。


 慣れない早起きに、恐ろしいスープ、嘔吐、生まれて初めての料理、一晩も床を共にしていない夫からの離縁宣言と、オリヴィアはもう気を失って倒れてしまいたい気分になった。しかし……オリヴィアを支えるエドモンドの腕が、それをさせない。

 いっそ泣きたくなってくる。

 そうだ。ついでに彼ら二人を引っ叩けたら、どれだけすっきりするだろう……。

 でも、


「後悔から何かを学ぶこともあるだろう……。しかし、臆病になりすぎては意味がない」


 そんな、ピートの声が聞こえた。

(え……)

 オリヴィアの身体はエドモンドの方を向いたまま動けないので、老人の表情までは見えない。しかし、今までにない苦い響きを感じた……。痛みや、苦しみ、そういったものを。

 気が付くとエドモンドの手の力が緩まっていて、オリヴィアはついに老執事を振り返ることが出来た。

 ──皺だらけの顔から読み取れるものは多くない。

 しかし、さっきまでオリヴィアを相手していた気難しそうな表情は消えていて──かわりに、憂いを帯びた一老人の顔があった。


「ピート……起きると分かっている悲劇を繰り返す必要はない」


 エドモンドの声が頭上から聞こえる。

 オリヴィアは二人の男を交互に見つめた……。そして、稲妻に打たれたような衝撃的な驚きと共に、一つの事実を理解した。

(この二人、似てる……)

 そういえば最初にピートを見たとき、エドモンドの祖父か親戚だろうと思ったではないか……。

 彼の偉そうな態度からそういう結論に達していたのだが──あながち間違いではなかったのかもしれない。似ている。エドモンドほどの背の高さはないが、ピートにも、年齢に不釣合いなほどの立派な骨格があった。

 そして、鼻筋、額の広がり方、頭の形……そういった、歳でも隠せないものが、不思議なほどよく似ている。

 オリヴィアはすでに怒りを忘れ、二人の男の間になかば呆然と立ちつくしていた。

 すると、急にエドモンドの手が再び伸びてきて、オリヴィアに触れる。

 今度は背中だった。

 背中の中央──自分では手の届かないあたりに、エドモンドの手が添えられている。オリヴィアは背筋を伸ばした。そうしないと、驚きに悲鳴を上げてしまいそうだった。

「そして……私たちは、話し合う必要がありそうだ」

 エドモンドはオリヴィアを見下ろしながらそう言った。

 緑の瞳に見つめられて、オリヴィアの体温は確実に上がる。

 聞きたいことが山ほどあった。引っ叩きたいとさえ思っていた。でも、そんなことは皆どうでもよくなっていた……。

「はい」

 いつの間にか、オリヴィアはエドモンドの言葉にうなづいていた。





 連れて行かれたのは、屋敷を裏から出た小道だった。

 どうも、この小道はそのまま厩舎へ続くらしい。

 白い砂が敷かれていて、周囲には牧草が広がっている。長く緩いS字を描きながら、小道はゆるやかに伸びていた。

 オリヴィアにははじめて通る道でも、エドモンドには慣れた道だろう。きっと、暗闇の中で目をつぶっていても踏み外さないに違いない。

 少しうつむき加減で前を歩くエドモンドから少し離れて、オリヴィアは彼のあとを追っていた。

 きっと、屋敷の窓から、使用人たちが興味津々に二人の姿を覗き見しているに違いない。

 オリヴィアは黙っていた。

 そして、特別目新しいことではないが、エドモンドもまた黙っていた。


 嗚呼──この人は、どういう人なんだろう。

 目の前を歩く男は、少なくとも法的にはまだオリヴィアの夫だ。例えそれが、本来の夫婦関係のまだない「白い結婚」だったとしても。

(私は、本当に何も知らないんだわ……)

 ただの田舎の伯爵ではない。エドモンドには、きっと知られざる秘密がいくつもあるのだ。それもなにか悲しい秘密が。

 知らなければ、一つずつ教えてもらえばいいと思っていた……。

 しかし、どうもそんな単純なことではないらしい。

 夫は寡黙だし、思ったよりもずっと根が深い問題がある。

「ノースウッド伯爵」

 オリヴィアは静かに切り出した。

 エドモンドは答えなかったが、大きな肩がぴくりと張ったのが見えたので、聞こえているらしいことだけは理解できた。オリヴィアは続ける。

「……私はやはり、帰るべきなのでしょうか。理由は……教えていただけないのですか?」

 すると、エドモンドの歩が止まった。

 まるでオリヴィアが先に切り出すのを待っていたかのように、感情に溢れた顔で振り返る。オリヴィアもその場で立ち止まって、息を呑んだ。

「理由は、あなたが分かっているはずだ」

 と、エドモンドは言った。

 オリヴィアは首を横に振る。

「分かりません。確かに、今はまだ刺繍以外の仕事はできませんけど……これから覚えていくことはできます。一日の猶予も下さらないなんて、ひどいわ」

「私があなたを追い出したいのは、仕事が出来ないからではない」

「では……?」

「それは、あなたの過去に関係のあることだ」

「私の過去……」

 オリヴィアは繰り返した。

 ──オリヴィアの過去?

 確かに、オリヴィアは悪戯っ子だった過去がある。

 幼い頃のほんの数年の期間だが、あまり良家の子女として褒められないことをしていた。首謀者は大抵オリヴィアよりも姉のシェリーだったが、父の寝室の隅々にチーズの欠片を置いてネズミの大軍を呼び寄せたり、庭に隠し穴を掘って庭師を怪我させたことがあった。

 しかし……それ以後は……クリスタルのように透明で潔白に生きてきたつもりだった。

 少なくとも、妻として夫に責められる類のことは、一切していないと聖ピーターに誓えるだろう。

「……ノースウッド伯爵」

 オリヴィアは厳かに言った。「私は、あなたの寝室にチーズを置いたりはしません」

「は?」

「違うのですか? これが原因では?」

「何が言いたいのかよく分からないが、少なくともチーズは関係ないはずだ」

「庭に穴を掘ったりもしないと誓います」

「…………」

 エドモンドは緑色の目を見開き、穴が開きそうになるほどオリヴィアを見つめた。

 オリヴィアの胸は高鳴った。無視できないほどに。

 今度は、オリヴィアが黙っていると、エドモンドが口を開く番となった。だんだんとお馴染みになってきた低く落ち着きのある声で、ゆっくりと紡がれる言葉は……。


「私が知りたいのは……あなたを愛した男が、私の前にいたかどうかだ」


 風が吹いて、オリヴィアのスカートの裾を軽やかに揺らした。

 鮮やかな緑の牧草が、果てなく広がっていた。

 ノースウッドは厳しくも広大で美しい自然を誇っているように思えた――まるで、この地の領主と同じように。エドモンドも、ちょうどそんな風に美しい男だ。


「いいえ」オリヴィアは答えた。「一度も」


 それからエドモンドは、しばらく何も言わずにオリヴィアを見つめ続けていた。

 上から、下へ。

 まるで何かを確認したくて仕方がないように動かされる視線は、どこか切なさに満ちていて、オリヴィアは身体を動かすことが出来なかった。


 ──火が、ついた。彼が火をつけたんだ。


 オリヴィアは目の前に堂々と立っている背の高い夫に対し、心の奥で、なにか新しい感情が芽生えたのを感じた。

 この人を知りたい。

 この人に触れたい。

 この人と一緒にいたい……。


「一月、くれませんか。一月だけでいいんです」

 オリヴィアの口は、いつのまにか懇願をしていた。

 無意識に出てしまった言葉だったが、後悔や焦りはまったくない。とても、自然な願いだった。


「あなたに相応しい妻になれるように頑張ります。一月が過ぎて、まだ私を追い出したかったら、そうしてくださってかまわないから……一度だけ、私に機会をください」

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