Barret's Secret - 1

 どん、と勢いのいい音と共に、オリヴィアの前に灰色の液体の入ったボールが差し出された。

「これは本当に滋養がつくよ! さぁ、たんと召し上がれ!」

 マギーは満点の笑顔を浮かべながら丸い背を反らせて、まるでボールの中身がキラキラ輝く宝石の集まりであるかのように、誇らしげに言った。

 オリヴィアはつられて、にこりと微笑み返す。

 しかし、目の前に置かれた、この灰色のような茶色のような、奇妙な色をしたどろどろのスープからは、嗅いだことのない生臭い香りが漂っていて──せっかくの微笑も、少し引きつったが。


 食堂ではなく、調理場のこじんまりとした椅子と机に座らされていたオリヴィアは、すでに生まれてこのかた見たこともない様々な調理用品を目撃して、充分なショックを受けていた。

 崩れかけた大きな煉瓦のかまど、さびた銅製の鍋、土がこびり付いたままの野菜の山。

 特にオリヴィアを驚かせたのは、壁際に吊るされていたウサギだった。足首を縄で巻かれて逆さ吊りにされた茶色と白のまだら模様のウサギは、うつろに濁った目をして垂れ下がっている。

 もう死んでいるのは分かったが、オリヴィアはこんな風に生々しく保管される獲物を見たことがなかったから、突然ウサギがカッと目を見開いて縄を噛み切り、襲ってくるのではないかという恐怖がして仕方なかった。


「これは……」オリヴィアは遠慮がちにたずねた。「とても興味深いスープですね。よかったら、何が入っているのか教えてくださらないかしら」

「このスープの中身かい?」

「ええ、まぁ」

 オリヴィアは銀のスプーンをいじりながらマギーを見つめた。

 マギーは一瞬、驚いたような表情でオリヴィアを見返した。まさか聞かれるとは思っていなかったようだ。

「これはバレット家秘伝のスープなんだよ。でも、そうだね。あんたもエド旦那の心をしっかり繋ぎとめておきたかったら、作り方を覚えておくといい。知ってるかい? 夫の手綱を握るには、まず胃袋からさ」

「そうなのですか」

「で、このスープだけどね、ベースは鶏レバーのペーストさ。それに鱗を取った魚をまるごと。ニンニクをたっぷり。魚の骨が溶けるくらいまでじっくり煮込むのがコツだよ」

「まあ……」

 オリヴィアはその野生的なスープをもう一度じっくり見つめた。

 朝からレバーを食べるとは聞いたこともない。

 しかし、じっくり煮込むというからには、たった今オリヴィアの為だけに作られた訳ではなさそうだ。この地方の常食なのだろうか……。オリヴィアはスプーンを持つ手が微かに震えるのを感じた。

「さぁお食べ!」

 マギーの瞳には、一種の期待に輝いており、断るのは良心が痛んだ。

 それに、もしかしたら美味しいのかもしれない。もしかしたら、だが。

 ごくりと息を呑み覚悟を決めたオリヴィアは、震え続ける手を自分で叱咤し、恐るおそる僅かな量のスープを口に運んだ。





 エドモンドは厩舎で馬の世話をしていた。

 バレット邸には現在、8頭の馬がいる。そのうち2頭はまだ子馬で、2頭は年老いすぎており、実際に馬車や乗馬に使えるのは残りの4頭だけだ。

 飼育係の少年が一人いるが、彼だけでは手の回らないことも多く、特に朝方、エドモンドは厩舎まで足を伸ばして世話をした。

 水をやったり干草を補充したり、毛にブラシを掛けたり、だ。

 これが馬との信頼関係を築くのにも役立っていたから、エドモンドはこの毎朝の仕事を欠かさなかった。

 馬たちもそんな主人を気に入っているらしい。毛を漉かれながら上機嫌に鼻を鳴らし、エドモンドに大きな身体をすり寄せる。エドモンドは馬のたてがみを撫でつけつつ、大人しくしていろと呟いた。

 しかし、いつもは爽やかなこの朝の仕事も、今朝ばかりは悶々とするものだった。


 ノースウッドの領地は貧しい北の荒地だ。

 特に十一月頃から三月にかけては、誰も寄り付けない、外に出ることも出来ない、陸の孤島となる。短い春と夏の季節になると、動けるものはそれこそ老人も子供も、伯爵本人さえも総出で、長く厳しい冬に備えて働く。

 バレット家の歴史は長く、すでに五代以上に及びこの地の領主として栄えてきていた。

(──いや)

 『栄えて』は、いない。

 バレット家には呪いがあるのだ。この呪いがある限り、バレット家は栄えることも、子供たちの笑い声に溢れた賑やかな家庭になることもない。

 だから。

 だから、エドモンドはどうでもいい女を妻に迎えたかった。

 それなのにあのオリヴィアのきたら──何だ。宝石のような水色の瞳に、天使のような顔、鈴の音を思わせる声。柔らかそうで豊かな胸は、これでもかとエドモンドを誘っているように見えた。

(駄目だ……私は彼女に触れない)


 そう、バレットの『種』は、もう断ち切るべきなのだ……。



「エドの旦那、エドモンドの旦那、やっと見つけた、ここだね!」

 厩舎の入り口に、朝日を背にした小さな人影が映り、エドモンドは顔を上げた。

 マギーだった。

 もともと赤らんだ顔をますます紅潮させて、走って来たのか肩で息をしている。しかし彼女は、黄ばんだエプロンで手を拭いながら、休む間もなく喋り始めた。

「一体どうしてそんな怖い顔で馬の世話をしてるんだい? それに、そんなに力を入れてたら馬に傷がついちまうよ。まぁ、その前に蹴っ飛ばされなければの話だけどね」

「マギー」

「まぁいい、とにかく、そんな事より大事な話だ。どうして言ってくれなかったんだい。私がこの屋敷で唯一の経験のある女だって、分かってるだろ?」

 何を言われているのか理解できず、エドモンドは不可解な顔をした。

 マギーはますます早口でまくし立てる。

「あの小さな奥さんのことだよ! 私はあんたやローナンの乳母として頑張ってきたつもりだけど、こんなふしだらな男に育て上げたつもりはないね。まったく、女と墓石の見分けもつかないような堅物だと思ってたら、何て事をなさったんだい!」

「申し訳ないが、マギー、何について話しているのか見当もつかない」

 エドモンドは馬用のブラシを柵の上に置いて、憮然とマギーを見下ろした。

 今年五十五歳になるマギーは、確かに、エドモンドやその腹違いの弟ローナンの乳母として、また女中頭として、バレット家の全てを守ってきてくれた女性だった。エドモンドは彼女に深い敬意を払っているし、彼女もそれを知っていて、それに満足しているようだった。

 しかし──今のマギーが何を喚いているのか、エドモンドには皆目見当もつかなかった。

 まさか、ボケてしまうには早すぎる気がする。特にマギーのような女性は、どんなに年老いても若者より明晰なままなのが常だ。

「私がボケたんじゃないのかって顔をしてるね──」マギーは唸るように言った。

「いや、そんな事はない。本当にわからないんだ」

「これだから男って奴は! やることをやっちまったら、できるものができちまうんだよ! まぁ、結婚したんだからいいとしようが……それにしても……」

「は?」

 マギーは何やら口の中でぶつぶつと聞こえない文句を言っていた。

 そして、顔を上げる。


「私は思うんだけどね」

 マギーの声は高揚していた。「マダムは妊娠していると思うんだよ……あんたの子だろう?」

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