第六話 暗闇と星空

 ――――小さくて脆弱なものを背負い、畦道を歩く。

 声も出さずに震えていて、細い足は夜露やら何やらで濡れていて、鉄錆の匂いが鼻先を掠める。首筋に掛かる吐息は弱々しく、汚れた学ランの袖を握り締めている手は小さい。懐中電灯は壊れてしまったので、ポケットに突っ込んである。用水路と田んぼを隔てた先では、民家の窓明かりが眩しく輝いている。

「あれはなぁ、ドラゴン・スープレックスっつう技でよ」

 少しでも気を紛らわしてやろうと、話し掛けてやった。

「超日本プロレスって団体がこの町に来たことがあってな、そん時に試合を見たんだ。それがもう、たまんねくってよ」

 底知れぬ闇の中で瞬く無数の星々を見上げながら、夢を語る。

「だから、俺はあのリングに上りてぇんだ。そのために、高校出たら上京して入門すんだ。何年掛かるか解らねぇけど、俺はいつか必ずリングに上って、ベルト取って、それから」

 それから。

 十七歳の自分が何を言おうとしたのか、思い出せなかった。



《残酷上等》

 暴走族の特攻服に似せたデザインの黒いガウンの背中には、その四文字が大きく刻まれている。右の袖には《悪逆非道》、左の袖には《問答無用》とあり、いずれも金糸の刺繍だ。我ながらセンスが古い、とは思うが、入場時に着る衣装はインパクトが大事なので、こうなった。

 Twitterで『#SJPW 残忍』と検索して超日本プロレスファンの感想を見てみると、残忍の衣装はダサすぎて笑える、一周して格好いいかもしれないけどやっぱりダサい、昭和のヤンキー、などとボロクソに言われていた。否定はしない。

 その悪趣味なガウンは、自宅のベランダではためいていた。地方巡業でパンツァーと対戦した際に強烈なラリアットを喰らった影響が未だに残っていて、喉が痛い。その後の試合で赤木と対戦したが、首4の字固めで痛む喉をこれでもかと締め上げられたので、ラリアットを喰らった部分どころか首全体が痛い。超日本プロレス専属のスポーツドクターによれば、しばらくすれば収まる、とのことだった。だから、ハードコア・マニアックスには例年通り出場出来るはずだ。その日を思い描くだけで、体の底が疼いてくる。

「うひふへへへへへへへへへ」

 一人きりなのをいいことに奇声を発した忍は、ハードコア・マニアックスのために新調したマスクを取り出して掲げた。黒地に銀のドクロ、左右の文字は蛍光パープル。リング映えすること間違いなしの派手なマスクだ。

「んひふへへはははははははは」

 ハードコア・マッチ。その言葉を口にするだけで興奮してきて、居てもたってもいられなくなる。気持ちが急いて仕方ないので、忍はいそいそと身支度を整えて道場に向かった。いつもよりも一時間以上早いので、道場の掃除や練習器具の手入れに勤しんでいた練習生達からは驚かれた。更衣室で着替えていると、メモ用紙がはらりと落ちてきた。練習着のTシャツの間に隠してあったらしい。

【おはようございます、忍さん。今日も練習頑張って下さい。御夕飯は何がいいですか? 注文があればメールして下さい。 夕子】

『普通にカレーでいいや』

 夕子にメールを送ってから、忍は練習用のマスクを被り、残忍となった。マスクの上から顔を叩いて気合を入れ直してから、肩を回しつつ道場に向かった。

 妻の顔を一度も見ないまま始まった結婚生活は、三ヶ月が過ぎようとしていた。メモ用紙とメールで意思の疎通を行っているが、それ以外の接触は皆無だ。異常な状態ではあるが、なんだか慣れてしまった。夕子が本当に幽霊だったとしても構わない、とすら思うようになりつつあった。家事や雑事を全てこなしてくれるのが便利だから、というのもあるが、プロレスを最優先した人生を送っている残忍の生活に口を挟んでこないのが楽なのだ。

 これまでに何人かの女性と付き合ったことがあったが、プロレスラーという職業柄、地方巡業に出掛けてばかりなので、いつのまにか連絡を取らなくなり、自然消滅してしまった。仕事と練習を犠牲にして付き合え、と強要してくる女性もいた。だから、いつしか女性と付き合うのが面倒臭くなってしまって、ここ数年はデリヘルを始めとした風俗店で性欲を処理していた。

 プロレスラーとて人間である。どれほど体を鍛え上げていようとも、女と酒に溺れて身を持ち崩す者もいる。ストイックに己を律していたレスラーも、いざデビューして人気が出てくると抑圧されていた反動で豪遊し、あっという間に心身が緩んでしまった者もいる。筋肉という目に見えた力を得たことで理性が綻び、交際相手や周囲の人間に暴力を振るってしまう者もいる。格闘技業界とは縁を切っても切れない裏社会の輩と関わりを持ってしまい、ギャンブルに溺れて借金まみれになる者もいる。同性さえもため息が出るほど見事な筋肉が付いていた体が、あれよあれよという間に悪趣味なタトゥーまみれになっていく様を見たのは一度や二度ではない。

 どれほど辛くても目先の快楽に逃げるな、その辛さを筋肉に変えろ、と述べたのは武藏原厳生である。それはその通りだと思うし、武藏原の言葉のおかげでここまでやってこられた。だが、これからはそれだけではダメだ。

「ッシャアオラアアアッ!」

 今一度気合を入れ直し、道場に入った。

「っはよーございまあすっ!」

「おはよう、シノブちゃん。なんでぇ、そのテンション」

 起き抜けのファルコは、マスクの下の目が開き切っていなかった。昨日までメキシコの団体に出張していて、昨夜帰ってきたばかりなのに、今夜は都内で試合があるので宿舎に泊まっていたのだ。

「アギラとちったぁ仲良くなれたか?」

「いやー、それがよく解らないんスよ」

 ファルコのストレッチを手伝ってやりつつ、残忍は苦笑する。あの夜、ファルコはいなかったのだが、アギラと派手なケンカをしたことは団体の皆に知れ渡っている。

「なんか、ふっつーに接してくるんスよ、アギラさん」

「あー、あいつぁ突っかかってくるタイプじゃねぇしなぁ」

「ッスよねー。ケンカしてから一週間ぐらい気まずくて、俺はちょっとアギラさんと関わらないようにしようって思っていたんスけど、アギラさんはなんにもなかったみたいに話しかけてきて。ホンット、なんなんスかね、あの人」

「態度を変えると余計にこじれるとでも思ってんだろ、あいつぁよぉ。それが正解って時もあるし、そうじゃねぇ時もあるけどよ」

 今度は、ファルコが残忍のストレッチを手伝ってくれた。筋をきちんと伸ばしておかないと、練習中に切れてしまうかもしれないからだ。自慢ではないが、体は柔らかいので苦痛ではない。

「おはよう、やってるな?」

 道場を覗いてきたのは、社長の小倉だった。

「っはよーッス」

「おはようごぜぇやす」

「武藏原さんのところに行ってくるから、いつも通りにな」

 そう言って、小倉はすぐに出ていった。先月の地方巡業中に腰を負傷した武藏原厳生は、騙し騙し使っていた腰にメスを入れることになった。リハビリの期間も含めて、最低でも半年は欠場することになった。腰だけでなく、膝にも肩にもダメージが溜まっていたので、良い骨休めになるだろう。

「今はもう退院しているんだっけか」

「そうッスよ。半月入院して手術して、それからはずっと自宅療養なんスよ。んで、その間も自叙伝だのなんだのって仕事があるんスから、別に休みじゃないッスねぇ」

「まあいいじゃねぇか。嫁さんと仲良く出来るんだからよ」

「あー、武藏原さんの嫁さんってあれッスよね、十七歳年下の」

「シノブちゃん、会ったことあんだろ?」

「そりゃまあ、武藏原さんの付き人してたッスからね。背が高くてすらっとしていて、女っ気の薄いタイプだったッスね。嫁さんの小夜里さん。メシは旨かったッスけど」

「なんでか知らねぇがベッタベタに惚れていやがるんだよなぁ、あの拳豪が。俺だったらもっとこう、どばーんとした感じの女を選ぶんだがよぉ」

「趣味が合うからッスよ。ほら、武藏原さんって特オタじゃないッスか。ニチアサとか大好きで、全部録画しておかないとぶん殴られたんスから。んで、小夜里さんもそれ系で、後楽園で試合する前に、えーとなんつったかな、あーあれだ、Gロッソだとかいう劇場で会ったのが切っ掛けだそうで」

「あー……そういうことかい」

 若干呆れ顔のファルコに、残忍は笑う。

「んで、アレなんスよ。小夜里さん、スポーツにはてんで疎いもんだから、武藏原さんと結婚するまではプロレスラーってことを知らなかったんスよ。普通、どっかで気付きそうなもんスけどねぇ。あの体なんスから」

「わっかんねぇなぁ、男と女の縁ってのはよぉ」

「ッスねー」

 などと雑談している間に、レスラー達が出揃った。挨拶を交わしてから、合同練習を開始した。筋トレは一人でも出来ないことはないが、技の練習ともなればそうもいかない。技を掛けられ、技を掛けることは、レスラー同士で信頼関係を築くためにも不可欠だ。残忍が得意とする空中殺法を始めとした見栄えのいい大技は、対戦相手がきちんと受けてくれる、という信頼がなければ成立しないからだ。

 何十回と宙を舞い、何十回とマットに叩き付けられた。



 練習を終え、残忍は帰路を辿った。

 自宅の最寄り駅の構内に、ハードコア・マニアックスの広告が貼り出されていた。有刺鉄線をモチーフにしたロゴは攻撃的で、出場するレスラー達はそれぞれのキャラを最大限にアピールしたポーズを取り、睨みを効かせている。例年であれば中心に配置されるのは武藏原なのだが、今年は欠場しているので牛島が真ん中に立っている。

 俺はどこにいたんだっけ、と残忍は自分の姿を探した。右側がブレン・テン、左側が悪の秘密結社という配置になっていたのだが、ドクロのマスクを被った男は一番後ろにいた。これもまた、例年通りだ。広告に載れるだけ、まだマシだと思うべきなのだが。

 背後では大勢の人間が行き交っているが、残忍には気付いていない。常に覆面を被っていても、声を掛けられたことはほとんどない。サインを求められたことはあったような、なかったような。いや違う、そんなものを得るためにリングに上っているわけじゃない、と自制しようとするも、腹の底に黒い淀みが溜まっていく。

 気晴らしにデリヘルでも呼ぶか、それとも。



 安酒の入ったレジ袋をぶら下げ、自室の鍵を開けた。

 玄関の明かりを付け、廊下、リビング、台所と明かりを付けて回っていると、ベランダに干しっぱなしにしていたガウンが取り込まれていた。きちんとアイロンも掛けられていて、パイプハンガーに吊り下げてある。夕子の仕業だ。

 冷蔵庫にはカレーの入った鍋があり、炊飯器には白飯が炊かれている。カレーを温め直して白飯に掛け、サラダと共に食べていたが、猛烈に物足りなくなった。三杯目のカレーライスを食べてもまだ満たされず、買い込んできた発泡酒を三本空けても酔いが回らない。足りない、足りない、足りない足りない足りない。

「ッダラアアアッ!」

 何が足りない。足りないのは練習だ、勝ち星だ。だが、もっと足りないものがある。

「おい、夕子! いるんだろ、その辺に!」

 幽霊でないのなら、なぜ姿を見せてくれないのか。

「俺を追いかけてきたくせに、俺が帰ってくると出てこねぇのかよ! んだよそりゃあ! 俺と結婚したってのに、何がそんなに嫌なんだよ! 横断幕まで作ったくせによぉ!」

 すぐ傍にいるのに、いるはずなのに。

「出てこい、出てきやがれ、夕子!」

 マスクを脱いで素顔を曝した忍は、3LDKの部屋のドアを次々に開け放っていった。風呂場もトイレもクローゼットも開けるが、やはり誰もいない。夕子が存在しているという痕跡すら見当たらない。結婚して間もなく届いた夕子の荷物はあるが、きちんと整理されていて、動かされた形跡はない。

「夕子……」

 出てこい、出てきてくれ。そして、もっと俺を見てくれ。お前しかいないんだ、俺を見てくれるのは。興奮したせいで急に酔いが回ってきてしまい、忍はリビングのソファーに倒れ込んだ。悔しいやら空しいやら情けないやらで、泣けてきそうだった。

 姿が見えない女が、気になってどうしようもない。窓を開け放したベランダから夜空を見上げるが、星は見えなかった。都会は街の明かりが眩しすぎるから、一等星でさえも霞んでしまう。

 俺は六等星にすらなれないのか、と自嘲する。



 ――――闇の中、湿った夜気を吸う。

 父親に殴られた頬が燃えるように熱く、顎が軋む。歯は折れていないが、口の中を盛大に切ったのか、血の味がする。

「ごめんなさい」

 物置の扉越しに謝られ、忍は答えた。

「気にすんな。お前は悪くねぇ」

 立て付けの悪い引き戸の隙間からは、自宅の窓明かりの切れ端と両親と親戚の話し声が流れ込んでくる。弟はもう寝ただろうか。

「顔、大丈夫か」

「いたい」

「傷が残っちまうから、さっさと病院に連れていってもらえいや」

「だめ」

「どうしてだ」

「ほんけのひと、だったから」

「はあ?」

「わたしは、ほんけのひとのおよめさんになるから、だから」

「んだよ、どうでもいいだろ。二十一世紀に何を言いやがる」

「あのひと、ほんけのひと、だったから。だから」

「だから、なんだってんだ」

「いまのうちにおとなにするっていって、つれていかれた」

「……嫌だろ?」

「…………いや。こわい」

「だったら、逃げろ。それが出来なかったら、戦え」

「むり」

「出来るさ。ドラゴン・スクリューでも使えばいい」

「すくりゅう」

「そうだ。相手の片足を両手で掴んでから、足首を脇腹に引き付けて、そのままぐるっと体を捻ってクラッチする。すげぇ技だぞ」

「すげぇ」

「すっげぇんだ」

 覚えておいて損はねぇよ、と付け加えてから、ふと気付いた。そういえば、忍はまだ彼女の名前を知らない。年頃は七歳前後で、黒のワンピースを着せられていて、栗色の髪を真っ直ぐ切り揃えられていて、赤いボンボンが付いたヘアゴムを付けていた。だが、先程背負った時にはそのボンボンは外れていたので、大方、草むらに埋もれているのだろう。

 法事の席で、喪服のネクタイもまともに締めていない本家の男がいきなり彼女を連れ出していった。だが、誰も咎めようとしなかった。それがあまりにも奇妙で、不気味で、忍はいてもたってもいられなくなり、懐中電灯を手にして追いかけていった。そこで目にしたのが、本家の男が幼い彼女を草むらに押し倒している光景だった。何をしようとしているのか理解した途端に頭に血が昇り、ドラゴン・スープレックスを仕掛けた。受け身の取り方も知らない相手に使うには過激な技だったが、無我夢中だった。

 それから、彼女を連れて自宅に戻り、事の次第を父親に説明するとその場でぶん殴られて物置に閉じ込められた。引き戸を閉める際、すまん、と父親は心苦しげに呟いていたので、親戚の手前、ああするしかなかったのだろうと察した。須賀家は分家の一つに過ぎず、本家筋の人間に手を出したとあってはただでは済まないからだ。だから、本家筋の人間が忍に目を付ける前に、父親が手を下してきたのだ。頭の回転が速い。

 一夜明けて物置の外に出ると、父親が待っていた。お前、上京したがっていたな、と言うや否や車に連れ込んだ。高校を卒業した後に上京して超日本プロレスに入門したい、とは常々言っていたが、いくらなんでも急すぎる。忍が困惑していると、忍の私物と現金を詰め込んだ荷物を押し付けながら、父親は苦々しげにぼやいた。こうでもしないと本家の連中がうるさいんだ、と。

 鈍行の電車に乗り、新幹線に乗り、憧れて止まなかった東京へと向かいながら、忍はぼんやりと考えた。あの娘はどうなったのだろう、というかそもそも入門出来るのかよ、いやするんだ、しなきゃダメだ、退路は断たれたんだから、と決意と煩悶を繰り返した。

 実家を出てから六時間弱で東京駅に辿り着いた忍は、超日本プロレスの住所を確かめるべく、愛読しているプロレス雑誌を広げた。すると、“テクニカル・メカニック”小倉定利がドラゴン・スクリューを繰り出しているページに一枚のメモ用紙が挟まっていた。女児向けの漫画雑誌の付録と思しき、ピンク色で少女漫画のイラストが付いた薄っぺらい紙には、幼い文字が書かれていた。

【しのぶおにいさんえ わたし これおおぼえます ゆうこ】



【今日は横浜で大会だから遅くなる。つか、帰ってこられないかもしれねーから、そのつもりでいてくれ。どうせ見るなら、リングサイド席で見てくれねーかな。俺を見てくれよ、夕子。】

 人差し指の上でサインペンを一回転させてから、忍は心中を書き綴った。便箋なんて洒落たものはないから、広告の裏紙だ。

【追伸 夕子。俺に義理立てしなくてもいい。お前がどこの誰なのか、やあっと思い出した。どうにも頭が悪くて、思い出すまでえらく時間が掛かっちまった。

 俺の実家の法事で会っていたんだな、俺と夕子は。

 あの時、俺がお前を助けたのは気まぐれみたいなもんで、大したことじゃねー。高三のガキが粋がって素人相手にドラスー掛けちまっただけだ。あれから、夕子の身に何が起きていたのかは考えたくもねぇし、言ってくれなくてもいい。俺も知りたくはない。

 心の底から俺に惚れているわけじゃないんだろう? 俺に依存していなきゃ耐えられない、そんな人生だったんだろう? だから、二つ返事で結婚して、あの町から逃げるために上京してきたんだろう? だったら、お前はもう自由なんだ。なんだったら、籍を抜いたっていいんだ。やりたいように生きていけばいい。

 俺もそうだった。上京した切っ掛けはあの出来事だったかもしれねーけど、実家を出て超日に入門してから、世界はこんなにも広いのかってイヤってほど思い知らされたし、打ちのめされたし、生き方なんて自分次第でどうにでもなるんだってことも解った。

 だから、夕子。

 お前は、目の前の安直な逃げ場に留まるな。

 俺はお前のヒーローじゃないんだ。世界中のどこにでもいる、試合が下手くそでキャラ立てもイマイチでブレイクする気配もないクソッ垂れなプロレスラーだ。ジョバーだ。でもって、自分でもうんざりするほど心が弱い男だ。

 このままだと、俺はお前を便利な道具にしちまいそうで怖い。姿を見せてくれないのをいいことに、最低なこともやらかすかもしれない。(デリヘルが好きなんだよごめん)

 金は必要な分だけ持っていってくれ。書類は書いておいた。後は俺がどうにかするから、安心してどこにでも行ってくれ。

 ありがとう、夕子。


 追伸の追伸 横断幕、最高にシビれた! 感動した!


 追伸の追伸の追伸 ハードコア・マニアックス、今年こそハードコア王座を勝ち取ってやらぁ! 残酷上等!


 追伸の追伸の追伸の追伸 この前の地方巡業の時、俺が抱いたのって夕子なんだよな? だとしたら、ごめん。本当にごめん。】

 これだけ書けば、言いたいことは伝わるだろう。忍はウサギのぬいぐるみを置いて紙を押さえ、封筒を添えた。その中には有り金を全部詰め込んであり、記入済みの離婚届も入っている。それから、自腹で買ったハードコア・マニアックスのリングサイド席のチケットも入れた。胸の奥に鈍い痛みが走ったが、それを振り払うためにマスクを被った。

「……残酷上等」

 顔を隠せば、人ならざるものと成れる。

「ッシャアアアアアオラァアダアラッシャアアアアア!」

 そうやって叫んでいれば、強くなれる。自分は強い人間なのだと、リングの上では誰よりも輝けるのだと信じられるようになる。革ジャンを羽織り、衣装一式を詰め込んだスポーツバッグを担ぎ、残忍はハードコア・マニアックスの試合会場に向かった。

 “ハードコア・ジャンキー”の本領発揮だ。

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