過去

 僕の背後には先輩キューピッドのシェルが立っていた。相変わらず幸せそうな笑顔を浮かべている。僕は一瞬びっくりして目を見開いたが、すぐに怒りが込み上げてきた。

「今まで、どこに行ってたんですか!こっちは大変だったんですよ!」

 先輩は様子を見ようと言ったきり、どこかに行ってしまった。最近では平井美紗のことで頭がいっぱいで、先輩の存在を忘れていたほどだ。まさか新人の僕にこれほど仕事を押し付けるとは思っていなかった。

「こっちは大変なんですから。先輩なら何とかしてくださいよ。」

「ん~?大変なんだぁ。難しい事例じゃないとか言ってたくせに。ピート君もまだまだ甘いねぇ。」

 相も変らぬ、ふざけた笑顔に、僕の怒りは頂点に達した。

「は?仕事をさぼってたのは、どこのどいつですか?こっちは必死で……」

 僕は大声を張り上げる。先輩は胸の前で両手を広げ、感情を押さえるようにと促す。

「まぁまぁ、ピート君。押さえて、押さえて。ボクもたださぼってたわけじゃないんだよぉ。」

 僕は、何とか荒れる感情を静めた。しかし、冷ややかな目線を先輩に送り続けることはやめなかった。今まで高みの見物を決め込んでいた奴にどんな言い訳が存在するというのか。よほどのことでない限り、僕は先輩を許さないつもりだった。

「で?さぼってたわけじゃないというのは?」

「おお、おお、怖いねぇ。ピート君、もっと笑って。」

 僕は冷たい目線を変えない。先輩は肩をすくめて見せた。

「まじめなのはいいことだけどねぇ。ピート君。キミはもっと肩の力を抜いた方がいいなぁ。真正面しか見ないから、周りがみえなくなる。柔軟な発想が生まれなくなる。」

「どういうことですか?」

 先輩は僕の問いに答える代わりに、A4サイズで数十枚ほどある資料を渡してきた。僕は怪訝な表情で先輩を見た。先輩は大きく、ゆっくりとうなずいて見せた。「読め」ということだろう。僕は資料に目を落とした。平井美紗の過去に関するデータだった。



 ギターの音が部屋に響いている。ゆっくりとしたリズム。優しい音色。部屋には一組のカップル。ギターを弾いているのは男の方で、名は上原優一。やがて男は言葉を紡ぐ。歌詞はなく、「ラララ……」と、音を取るだけだった。エネルギーに満ちた歌声。少しかすれたような声色。女は目を閉じ、それを聞いていた。女の名は平井美紗。

 上原優一はギターを弾く手を止めた。平井美紗はゆっくりと目を開ける。

「どうだ?」

「うん。いい歌だね。」

 上原優一は両方の頬をふくらませた。

「いつも言ってるだろ?そんなんじゃなくて……」

「はいはい。具体的な評価ね。分かってるって。」

 平井美紗は、駄々っ子をなだめる保母さんのような表情を見せた。それから軽く眉にしわを寄せ、考える。

「そうだね。静かでいい歌だと思うけど……途中から少しテンポが速くなって、明るい調子になるよね。何で?」

「そこは意図的に変えてるんだけどな。変か?」

「うーん。ちょっと不自然かも。もっと自然に調子を変えるか、もしくは一気に速くしてもおもしろいかも。」

「なるほど。それもありだな。ふむふむ。」

「いずれにせよ……」

 平井美紗は言葉を切った。腕を組んで考え込んでいた上原優一は、顔を上げ、平井美紗の目を見つめた。二人の目が合った。

「早く歌詞が聞きたいな。」

 上原優一は満面の笑みを浮かべた。

「まかせとけ。」

 平井美紗も微笑んだ。そして、また明日ね、と言いながら立ち上がった。

「まかせとけ。」

 上原優一は声にならないくらい小さな声で呟いた。平井美紗は気付いていない。平井美紗は、バイバイ、と手を振って、部屋を出た。部屋には上原優一、一人が残った。

「あーあ。今日も言えなかったな。」

 上原優一は仰向けになって天井をみた。先程までにはなかった、悲しげな表情があった。



 待ち合わせはいつもの公園で。平井美紗はブランコの前に立っている上原優一を見つけた。少し首をかしげる。

「珍しいな。いつもギリギリに来るくせに。」

 平井美紗は呟いた。約束の時間より、まだ十分も前である。

 平井美紗はボーイフレンドに気付かれないように、背後から近づいた。だから彼女は、彼が思いつめた表情をしていることに気付かなかった。

「わ。」

「わあああぁぁぁ!」

 上原優一は、滑稽なほどに驚いた。予想よりもはるかに驚かれたので、平井美紗も一瞬体を固くした。

「び、びっくりしたぁ。そんなに驚くことないでしょ。」

 上原優一はすまなさそうな表情を見せた。ちょっと考え事をしてたから……と、言葉を濁す。そして、行こうか、と言って先に歩き出した。平井美紗は彼の後に続いた。

「どうしたの?今日は早かったじゃん。」

「うん。まぁ、何となくね。」

 平井美紗は、彼の様子がいつもと違うことに気が付いた。

「どうした?元気なくない?」

 上原優一はパッと顔を上げた。平井美紗に向き直り、笑顔を見せる。

「そんなことないよ。元気、元気。」

「そう。」

 無理して明るく振舞っているな。平井美紗はそう思ったが、口に出さなかった。言いたくないようなこともあるだろう。もしも言うべきことなら、自分から言い出すに違いない。

 代わりに平井美紗は彼の手をぎゅっと握った。上原優一は、驚いたのか、ピクリと手を動かしたが、拒みはしなかった。大きくて暖かい手。たこができて硬くなった指先。平井美紗はこの手が大好きだった。



「何?話って。」

 平井美紗は目の前の男に問い掛けた。男は黙って下を向いたままだった。

「優一?」

 平井美紗が促すと、ようやく男は言葉を発した。

「ごめんな。」

「え?」

「ごめん。」

「何?何がごめんなの?」

「ごめん……」

 喫茶店の中は、平井美紗と上原優一の二人だけだった。他の客はいない。ガランとした店内で、二人の会話はよく響いた。聞く者は誰一人いないけれど。

 店内に流れていたラブソングがピタリとやんだ。

 上原優一は顔を上げた。不思議そうに首をかしげている平井美紗の顔があった。

「俺、東京に行くよ。」

「え?何?」

「俺、東京に行く。」

「………」

「だから、終わりにしよう。」



 もう九時を回った。室内を照らすのは、窓から射し込む街灯の光のみ。薄暗い部屋の中、上原優一はベッドのふちに座り、床を見つめていた。

「これでよかったんだよな。」

 自分でも聞き取れないほどの声。上原優一は目を閉じた。夕方の出来事がありありと思い浮かぶ。

「は?どういうこと?」

「だから……」

「あたしを置いて行っちゃうってこと?」

「………」

「ひどい。」

 上原優一は、胸に痛みを覚えて、手を当てた。痛みは少しも和らぐことはなかった。ゆっくりと目を開く。床にはマンガ本や音楽雑誌が散らかっていた。

「そんなの、あたし納得できないから。あたし、納得できないからね。」

 上原優一は、怒って喫茶店を出て行った平井美紗の姿を思い出していた。怒るのは無理も無い。あまりに突然だ。上原優一は視界がぼやけていくことに気がついた。冷たい感触が頬を伝う。

「だって、だってさ。」

 上原優一はベッドに横になった。灰色の天井が彼を見つめ返した。

「向こうに行ったら、俺、きっと音楽一色になる。そしたら、美紗のこと、かまってやれなくなる。だから……だから……」

 上原優一の震える声が、静かな部屋の片隅で響いた。



「もしもし、優一?」

 電話はつながっているのに、返事がない。平井美紗は心配になって、もう一度呼びかけた。

「優一?聞いてる?」

「ああ、聞いてるよ。」

 いつもの優一の声だ。平井美紗は安心した。

「今日はごめんね。勝手に帰っちゃって。」

「そんな……」

「あのね、あたし考えたんだけど……考えたんだけどね。やっぱり優一は東京に行きなよ。音楽でメジャーになるの、夢だったもんね。」

「でも……」

「あたしもさ、遠距離恋愛とか自信ないし。それで……優一は東京に行くから。だから。だからさ、今日で別れよ。まぁ、そこそこ楽しかったよ。今までありがと。」

「でも……」

「ああ。でもでも、うるさい!男なら、自分が思った道は突き進め!いらないことで惑わされるな。」

 平井美紗は強い口調で言い放った。「電話でよかった。」平井美紗は心の中で思った。「あたしがどんな顔をしてるのか、見られなくてすむ。」

「美紗……」

「何?」

「サンキュ。」

「何が『サンキュ』よ。あたしは何もしてないんだから。お前なんか、さっさと東京に行っちゃえ。」

「美紗。」

「何?」

「サンキュな。」

「………」

 しばらく無言が続いた。何も喋れない。何を喋ったらいい?平井美紗には分からなかった。

「じゃあ、言いたいのはそれだけだから。」

 ようやく口に出したのは、別れの言葉だった。

「じゃあね。」

「ああ。」

 電話を切る。最後の方は、声の震えを抑えるのに精一杯だった。平井美紗は、ペタンと座り込んだ。涙が止まらない。

「いいんだよね、これで。」

 もう、声の震えを抑える必要はない。無理やり作っていた明るい表情もいらない。平井美紗は、顔をクシャクシャにして泣き崩れた。

「いいんだ。あたしなんかがいたら、じゃまだから。優一のお荷物になるから。いいんだ。」

 平井美紗の嗚咽が部屋中に染み渡った。



 上原優一は東を見据えた。これから行こうとする場所。東京。その表情に迷いはない。

「よし。」

 両方の手で、パンパンと頬を叩き、気合を入れる。上原優一はプラットホームへ向かった。

 平日の深夜。新幹線に乗る人は少ない。プラットホームには人気がなく、静かだった。一人、二人見えるスーツ姿の男性は、出張帰りのサラリーマンだろうか。

 アナウンスが流れる。どうやら新幹線が通過するようだ。ちっぽけな人間をあざ笑うかのようなスピードで新幹線がやって来る。上原優一は、無性に叫びたくなった。

「わああああああぁぁぁぁぁぁーーーー。」

 新幹線に向かって、思い切り叫ぶ。誰も彼の叫びには気付かなかった。新幹線の轟音が彼の声を掻き消したからだ。新幹線は上原優一の叫びと共に通り過ぎていった。上原優一は新幹線の後ろ姿を見送った。あっと言う間に見えなくなった。

「ふう。」

 上原優一は満足げに息を吐いた。何か、心のモヤモヤが晴れたような気分だった。

「バッカじゃない?」

 聞きなれた少女の声がして、上原優一は振り返った。見慣れた少女がいた。

「なにガキみたいなことしてんの。」



 平井美紗は走っていた。まったく、この大事な時に寝過ごすなんて信じられない。この時を逃せば、二度と会えなくなるかもしれないというのに。

 駅の階段を駆け上がり、駅員に入場券を見せる。駅の中に入ると、新幹線のプラットホームへと向かった。

「えーっと。何分の新幹線だったかな。」

 電光掲示板に目をやる。気持ちが焦って、うまく見られない。なんとか東京行きの表示を見つけると、再び平井美紗は走り始めた。エスカレーターもあったが、はやる気持ちが階段を選ばせた。階段を一気に駆け上がると、さすがに息が苦しくなって立ち止まった。ゼエゼエと肩で息をする。

 その時、アナウンスがプラットホームに流れた。「もう来てしまったのか」と思い、一瞬ビクッとしたが、どうやら新幹線が通過するだけらしい。平井美紗はひとまず安心した。

 通過する新幹線が近づいてくる。平井美紗はウロウロと上原優一を探していた。

 新幹線に近づいていく人影が見えた。「止まるわけじゃないのに」不思議に思い、よくその人物を見つめていると、平井美紗が探している人物であることに気がついた。上原優一は、新幹線に向かって何かを叫んでいるようだった。新幹線が通り過ぎる。上原優一は満足げな表情を見せた。平井美紗はクスッっと笑った。

「バッカじゃない?」

 上原優一がこちらを向いた。

「なにガキみたいなことしてんの。」

 平井美紗はゆっくりと上原優一の元へ向かった。本当は走って行きたかったが、それはなぜかみっともないような気がした。「あたしは付き合いで来ただけで、来たかったわけじゃないんだから。」そんな意地が彼女にはあった。

 しかし、上原優一には彼女の心境など理解できないようで、ニコッと笑うと走って彼女の元へ近寄った。

「来てくれたんだ。もう会えないかと思ってた。」

 上原優一は、まるで主人が帰ってきた子犬のようだった。しっぽを振って平井美紗を見つめている。平井美紗は、そんな彼を複雑な心境で見返した。

「まぁね。長年の付き合いってやつだよ。」

 ――嘘つき。本当は会いたくて仕方が無かった。

「だって、見送りもしないで別れたら、なんか後味悪いじゃん。」

 ――だって、あまりにつらいから。会っちゃいけないって思ったけど、我慢できなかった。

「二度と帰ってこれないように、追い出してやろうと思ってさ。」

 ――お願い。行かないで。

 上原優一は彼女の気持ちを知ってか知らずか、優しい微笑みで見守っていた。

「ありがとう。」

 短い彼の言葉が、平井美紗の心の奥深くに突き刺さった。今にも泣き崩れそうだった。「行かないで。ここにいて。」とすがりたい、そんな思いを必死にこらえていた。

「東京ってさ。あたし行ったことないんだよね。」

 なんとか普段の会話をしよう。平井美紗は笑顔を作った。

「やっぱ、ここと違って、都会なんだろうな。すっごい高いビルがいくつも並んでたりしてさ。」

 泣かないように、笑顔を絶やさぬように、平井美紗はそればかり考えていた。だから、何を喋っているのか自分でも分からなかった。時間だけが過ぎていった。

 プラットホームに夜の風が吹いた。サラリーマン風の男は一度身震いすると、自販機で缶コーヒーを買った。その横で清掃の女性が空き缶を回収している。サラリーマンと女性は一言二言、言葉を交わした。「冷えますね。」とか、そんな感じだろう。女性は空き缶を回収し終えると、プラットホームを去って行った。サラリーマンはコーヒーを飲み干すと、一つ息を吐く。そして時計を見た。「そろそろ時間だな。」サラリーマンは呟いた。

 アナウンスが終わりの時を告げた。平井美紗は時計を見た。

「この新幹線だね。」

「うん。そだね。」

 新幹線がスピードを落としながらプラットホームへ入ってくる。上原優一は、平井美紗に背を向けて、新幹線の方を見た。もうすぐ遠くへ行ってしまう背中を、平井美紗は目を細めて見つめた。今まで優しく接してくれた背中。自分は彼にどれだけ励まされて生きてきただろう。その彼が、あと数分で遠くへ行ってしまう。平井美紗は、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

新幹線が止まる。上原優一がこちらを向いた。

平井美紗は慌てて普段の表情を作り直した。

「じゃあ、行ってくるよ。」

「あ、うん。がんばれ。」

「ああ、がんばるよ。」

 上原優一はニッコリと笑った。「よく見ておこう」平井美紗は思った。「この顔を忘れないように、胸に焼き付けておこう」

 ――唐突に、上原優一が話を変えた。

「あのさ、ずっと前に聞かせた曲があるでしょ。」

 平井美紗は少し考えたあと、思い当たる節があったのか、首を縦に振った。

「うん。優一の部屋で聞いたやつ?」

「そう。歌詞が聞きたいって言ってたやつ。」

「うん。」

「実はさ。あの曲、歌詞があるんだ。」

「え?」

 プルルルルルルルルルルルルル――

 出発のベルが鳴る。上原優一はポケットを探って、紙切れを取り出した。

「あげるよ。」

 平井美紗は上原優一から紙切れを受け取る。

「え?いいの。」

「うん。美紗のための歌だから。」

 上原優一は新幹線に飛び乗った。ドアが閉まる。上原優一と平井美紗は、ドア越しに向かい合った。上原優一が何かを喋ったが、聞き取れなかった。平井美紗は首を左右に振る。上原優一は笑顔で手を振った。平井美紗もそれに応える。やがて新幹線は動き出した。別れを惜しむ時間もなく、あっと言う間に見えなくなった。

「行っちゃった。」

 平井美紗はポツリと呟いた。プラットホームには彼女一人だった。

「あ、そうだ。」

 平井美紗は手の中の紙切れを見た。あまり、きれいとは言えない文字だった。しかし、確実に上原優一の字だ。

  

   鳴り響く目覚ましを

   左手でとめる

   いつものようにパンをやき

   いつものようにコーヒーをいれる

   二人分の朝食を見て

   はじめて気が付いた

   「どうして二枚のパンがいる?」

   いつものようにとなりで笑っていたキミは

   もういないのに


   だけどボクは、もう行くよ

   行かなくちゃいけない

   場所があるから

   キミがとなりにいなくても

   立ち止まれば先に進めなくなる

   そんな気がするから


   勝手に出て行ったのは

   ボクの方だから

   責められても仕方が無い

   そんな風に思っていたんだ

   なのにキミは何も言わずに

   笑って手を振った

   「どうしてあなたを責められる?」

   力いっぱい背中を押してくれるキミに

   少し気がゆらぐ


   だけどボクはもう行くよ

   どうしても行きたい

場所があるから

キミがとなりにいなくても

振り向けば前が見えなくなる

そんな気がするから


「優一……」

平井美紗は紙切れを抱きしめた。こみ上げてくる熱いものを止めることができなかった。しかし、もう我慢する必要もない。上原優一はもう行ってしまったのだ。思えば、上原優一から「東京行き」を告白されてから、どれだけの涙を我慢してきただろう。彼がすっきりと東京へ行けるよう、彼の決心が揺るがぬよう、必死に明るく振舞った。その反動だとでもいうのか。平井美紗は座り込んで、いつまでも泣いた。



「これは……」

 僕は言葉を発することができなかった。平井美紗にこんな過去があったなんて……

「彼女が次の恋愛に踏み切れない理由だよ。」

 先輩が口を開いた。

「彼女はそのことを引きずっているんだよ。『昨日の』できごとにね。まして今回の事例は、その時とよく似ている。」

 確かにその通りだ。彼女は恐れているのだろう。また、好きな人が遠くへ行ってしまうことに。もしくは、自分が中村鉄平の足かせにならないように、自分の気持ちを隠しているのかもしれない。僕は手元の資料を見た。二年前にも彼女は同じ体験をしている。上原優一が東京へ行くと言った時、彼の足手まといにならぬよう、わざと気丈に振舞った。そして、今回も自分を犠牲にしようとしている。

「でも、こんなのは間違ってる。」

 僕は呟いた。

「相手のために自分を押し殺して……相手の幸せのために自分は不幸になって……そんなの、駄目だ。駄目なんだ。」

 うまく言葉にできなかった。ただ、「このままじゃいけない」という思いだけがあった。何がいけないのか?うまく説明することはできないけれど。

 一見すると平井美紗の行為は間違ってはいない。相手を尊重し、自分は一歩身を引く。むしろ褒められるべき行動だろう。しかし、そんなに「できた人間」がどれだけこの世にいるだろうか。いくら相手のことを考えての行動でも、自分が無理をしていたら、それは自分にとっても相手にとっても重荷となるだけではないのか。嫌なら「嫌」と言えばいい。自分を押し殺した生活は、心と体に毒なだけだ。

 苦悩する僕を、先輩はのほほんと見守っていた。

「いやぁ。悩み多き年頃だねぇ、ピート君。」

「からかわないで下さいよ。原因は分かったんだ。これからが僕たちの仕事の本番でしょう?」

 その時、僕はふと疑問に思った。先輩はこの資料をどうやって手に入れたのか。僕は先輩に聞いてみることにした。

「そう言えば先輩。このデータはどうしたんですか?」

「ああ、それ。」

 先輩は人差し指を上に立て、チッチッと振って見せた。

「教科書通りの仕事じゃあ駄目なんだよ、ピート君。現場はマニュアル通りに進まないんだから。」

「はい?」

 僕はしばらく先輩の言葉の意味が分からなかった。先輩がどこからデータを持ってきたのか、そればかりを考えていた。

「ま、まさか……」

 一つの推測にたどり着き、僕は言葉を失った。何とか心を落ち着かせる。

「先輩が調べてきたんですか?」

 先輩は僕の問いには答えず、その代わりにニヤリと笑って見せた。僕はカナヅチで頭を叩かれたような衝撃を受けた。先輩はただ空から高みの見物をしていたわけではなく、平井美紗の過去について調べていたのだ。しかも、たった数日でこれだけの分量のデータを分析している。ひょっとしたら、僕よりもはるかに多くの仕事をしてきたのかもしれない。僕は自分が恥ずかしくなった。僕は先輩に何と言っただろう。僕は先輩を何と思っていただろう。「仕事をサボってたのは、どこのどいつですか。」「先輩はキューピッドなんかじゃない。」今までの言動を思い出し、頭に血が昇っていくのを感じた。先輩は立派にキューピッドとしての仕事をこなしていたというのに。

「先輩は、『様子をみよう』と言いつつ、陰で仕事をしていたんですね。」

「え?いや……」

「もういいです。先輩は休んでいて下さい。後は僕が何とかしますから。」

「そう?なら、お言葉に甘えて。」

「はい。そこから僕の仕事ぶりを見ていてください。そして悪いところがあれば、何かアドバイスでも。それでは、行ってきます。」

 僕は平井美紗のところまで降りていった。この時の僕は、やる気に満ち溢れ、先輩への疑いなど微塵も持っていなかった。

 後から聞いた話ではあるが、実は平井美紗の過去に関するデータは先輩が調べたものではないらしい。本部から参考資料として送られてきたものを、先輩が受け取っただけだそうだ。そのことを知った僕が、怒り狂ったのは言うまでも無い。

「陰で仕事をしてたんじゃなかったんですか!」

「ボクは自分で調べたなんて一言も言ってないよぉ。」

「そんなことは問題じゃない!」

「まぁまぁ、いいじゃん。ピート君。結果オーライで。」

「………」

 とにかく、僕は最初、先輩が必死に仕事をしてきたのだと思い込んでおり、先輩に負けるまいと意気込んでいた。

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