ゆうもあ先生の私塾開講

 神奈川県立大学を退職し、私塾『ゆうもあ塾』を自宅に開講した有象無蔵だったが、当座のことに何をしていいかわからず、煙草をふかすか、昼寝をするか、新聞の切り抜きを眺めて小説のネタを探す日々が続いた。すぐにでもやってくると思われた前田優子と大島敦子らも顔を見せず、有象はとてもつまらない気分になっていた。

 そこにチャイムが鳴った。よし、ようやく来たか! とそわそわする有象だったが婆やの裕子さんが現れて、

「近所の斎藤さんの奥さんが小学生の息子さんを入塾させたいと言ってきましたよ」

 と言ってきたのでずっこけた。

「あのねえ、裕子さん。私の塾は学習塾とは違うの。笑いやユーモアを研究し、人生とは何かを追求する、言って見れば松下村塾みたいなものなの。だから、やんわりとお断りしてください」

 有象は不機嫌に言った。

「その割には維新の志士の一人も来ませんわね。先生は一応、国語の先生なんでしょ。暇つぶしにでも見てあげればいいと思うわ。お勉強」

 裕子さんの嫌味はきつい。

「しょうがない。その坊ちゃんを連れてきなさい」

「はーい」

 裕子さんは玄関に戻った。裕子さんに連れられてきたのは、若くて美人の斎藤さんの奥さんと、小学校低学年の背の低い子供だった。思わず着物のはだけを直す、有象。それだけ斎藤さんの奥さんは若くて美人だったのだ。有象の下心が疼く。


「先生、本日は押し付けがましくお邪魔して本当に申し訳ございません。あたくし、主人に死なれて、口に糊するために昼はクリーニング工場で、夜はスナックで毎日働いておりまして、息子の勉強を見てやることができません。お忙しい先生には無理なお願いだとは思いますが、何やら噂に聞きましたら塾を始められるとのこと。それならばぜひにと参上いたしました」

 何と、斎藤さんの奥さんは未亡人なのか! 髪を手櫛で直す有象。髭を今朝剃らなかったのは失敗だったと思う。

「私は小学校の教員免許は持ってませんので行き届いた学習はできませんが、ウチに来て勉強するという習慣がつけばそれでよろしいのじゃないでしょうか」

 あっさりと請け負う有象。

「じゃあ、よろしいんですか?」

「ええ、ご近所のよしみでお受けいたしましょう」

「ありがとうございます」

「いえいえ。ところで坊ちゃんお名前は?」

「初めまして、斎藤孔明と申します」

 なんだか少年はきっちり挨拶してきた。有象はびっくりして、

「坊ちゃん、何年生?」

 と尋ねた。

「一年生です。不束者ですがよしなにお頼み申し上げます」

 有象は飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。まるで時代劇だ。

「それから先生。その坊ちゃんというのはおやめください。わたくし、孔明と言うあざながございます」

「諸葛亮孔明の孔明かな?」

「左様でございます。ところで先生。先生は三国志の武将で誰がお好きですか?」

 小学校一年生の質問かよ、これが。

「そうだねえ、劉備かなあ」

「玄徳ですか。何故に?」

「だって、関羽、張飛、趙雲といった豪傑に孔明でしょ。優秀な部下に恵まれるなんて幸せだよね」

「そうですか。わたくしはは呂布が好きです。彼の晩年には滅びの美学をひしひしと感じます」

 この歳で滅んでどうするんだ!

「孔明くん、いや孔明殿。宿題はいいのかな?」

「学校の宿題など、昼休みの十分で終わらせました。わたくしは先生と文学問答がしとうございます」

「ああそうなんだ。せっかくだが、今日に限って仕事が立て込んでいる。助手の平田君が手すきだから、彼とゆっくり文学談義をしてくれ給え。平田くーん。お客さまだ。早く来なさい」

 孔明の言動を持て余した有象は助手の平田くんに少年の全てを丸投げした。優しいジャイアン、平田くんなら真摯に孔明を受け入れてくれるだろう。


「ところで奥さん。旦那さんはいつ?」

「孔明が生まれてすぐに」

「苦労されましたな。何かありましたら、私に何でも相談してください。ご近所のよしみでできる限りお助けしますよ」

 有象は斎藤の奥さんの手を握った。その瞬間、頭上から熱い日本茶が落ちてきた。

「あ、熱い!」

 有象は悶絶した。

「あら、手が滑っちゃった。ゴメンね。先生」

 中森明美が笑いながら謝った。ワザとだな、この野郎。

「あら、たいへん。夜のバイトに行く時間ですわ。あたくし、これで失礼します。どうぞ孔明をよろしくお願いいたします」

 そういうと、斎藤の奥さんは逃げるように去っていった。


「先生。女好きもほどほどにね」

 明美が笑いながら氷嚢を有象の頭に乗せる。

「そんなんじゃない。同情しただけだ。アチチ」

 必死に訴える有象。だが誰も信じないだろう。

「しかし、低俗なテレビの熱湯風呂だって六十度ないと聞くぞ。それを熱湯で淹れたお茶をかけるなんて、訴えてやる」

「ははは、ダチョウ倶楽部なんて知っているのね、先生。でも正解は、お茶の温度は四十度弱でした」

「えっ、そうなの?」

 急に、元気になる有象。氷嚢を投げ飛ばした。

「人間の錯覚を利用したマジックね」

「くそう、焦らせやがって」

 有象は突然明美に抱きついた。

「斎藤の奥さんの代わりだ!」

 人をたぶらかした仕返しである。


「ああところで孔明くんと平田くんはどうしているかな」

 有象は書斎を覗く。

「三島はあの時、自衛隊の連中が蜂起すると本当に思っていたのでしょうか?」

「絶対に思っていたさ。だからあの白けた態度に失望して自決を選んだんだ」

 何を子供と大人が熱くなって議論してるんだ。どうせなら『アンパンマン』とか『妖怪ウォッチ』の話で盛り上がるのが健全な少年だろう。有象は末恐ろしい怪物を見た気がしてゾッとし、静かに扉を閉めた。孔明の世話は平田くんに全部任せよう。その代わり斎藤さんの奥さんの面倒は自分が見ようと有象が考えていると。

「犬畜生にも劣りますわね」

 と裕子さんが痛烈な嫌味を言いながら通り過ぎた。恐怖で悪寒が走った。


 夜になってようやく元有象ゼミのメンバーが有象の家にやってきた。

「先生、遅くなってゴメンなさい」

 リーダー格の柏木麻里子が言う。

「まあ、私にもやることはいっぱいあるから、ちょうどよかった」

 有象は見栄を張った。やることなんか何もなかった。

「じゃあ、これから『ゆうもあ塾』開設記念パーティーをやりましょう」

 前田優子が言う。

「ごちそうを買って持ってきました。それに裕子さんの手料理があれば充分でしょう」

「そうだな、じゃあ特別に『森伊蔵』でも出しちゃうかな」

「すごい」

「幻の!」

 渡辺由紀と横山亜紀が喜ぶ。だが大島敦子に元気がない。

「どうした、大島くん」

 有象が聞くと、

「先生のいない、大学はつまらないんです」

 と泣き出した。よく泣く子だ。さすがに慣れた。

「しょうがないなあ。まだ、客員教授として籍は残っているから、暇な時は遊びに行くよ」

 と言って軽く抱きしめてやった。残りのメンバーが冷たい目で見ている。その視線をひしひしと感じた有象は大島から離れ、みんなに酒を注いで回った。人気者はつらいよ。まったく。

「そういや、塾生一号が入った」

「えー、どんな人ですか?」

「小学一年生の孔明くんだ」

 メンバーはずっこけた。

「小学校一年生と侮ってはいけない。知識、礼儀作法など、君たちより優れている。でも、ませていてな。面倒くさいから平田くんの生徒にした」

「あれ、その平田さんは?」

「あっ、しまった」

 慌てて書斎に行くと。

「太宰は本気で死ぬ気があったのでしょうか?」

「話題作りの偽装入水の可能性は否定できないね。でも太宰には先天的に、自殺願望があったとも言える」

 議論はますます白熱していた。有象は、

「孔明くん、そろそろお開きにしなさい。時間はたっぷりあるんだ。若い君には」

「あ、もうこんな時間でしたか。平田先生の講義が面白すぎて興奮しました」

「そりゃよかった。じゃあ、お母様によろしくね」

「僕、送っていきます」

 平田くんがが孔明くんを送って行った。

「なんですか、あの子。凄すぎます」

 前田優子が驚く。

「私は怪物の卵を引き取ってしまったのかもしれない」

 有象は責任感で押しつぶされそうだった。それでメンバーをぐでんぐでんに酔わせて遊びまくった。


 翌日も孔明くんはやってきた。斎藤さんの奥さんは来なかった。そして孔明くんは、今日も平田くんと何事か議論を交わしている。これぞ、有象のやりたい『ゆうもあ塾』の形だった。女子大生と遊んでいるのが目的じゃない。有象はまたしても深く反省した。

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