第23話 山は気高く、秘密を隠す

 「峰二みねふじさん……だっけ?」

 「うん、そう、はい」


 ひとしきり泣いた彼女はなぜか私の隣に横たわっていた。力なき両腕はそのまま地面に溶けそうなほど脱力していた。私も動かないというのも変な話だが、白詰草の群叢は二人の全身を象ったまま、瘴気しょうきを立ちこめる。二人はただ時間が過ぎるのを待っていた。授業開始の鐘は高々と鳴りひびき、それでも私と彼女が動こうとしないのは、二人をひたす、水の底にいるからだろう。午後の重い空気が濃密に満ち満ちていた。

 

 「あなた、何か欲しいものでもあるの?」私がそう言うと、

 「……おかね、とくるま」

 「えらく実用的ね。どうしてか聞いてい?」

 「言えないんだ」

 「そう、判った。じゃあ聞かない」


 手足の自由を取り戻すと、段々、頭が働いてきた。彼女、峰二綾乃あやのは恐らく、何かが足りないんだ。それはお金ではない。たぶん。車でも。人間、足りないものを埋めるにはその欠望けつぼうの奴隷として、非凡な行動を強いられる。それは時たま、全く関係の無い原理をたどる。つまり、おかしなことをしてしまう。それは恐らく、私にも起こること、誰しもが出会うこと。その時が来たら、避けることは難しいだろう。そう、思ってみると、私は彼女の行動を理解したくなった。彼女の心境を、彼女の欠望を、彼女のことを知りたくなった。彼女の妙な振る舞いは彼女の言うとおり、愛情表現なのかも知れないと思ったのだ。

 私の左手が彼女の右手を掴む。かすかな緊張が皮膚に伝わる。さっきとは反対に、私が峰二に上乗りになる。彼女の奇妙なほどの大きな瞳が、二つ、真っ黒な焦点を私に合わせる。

  

 「……峰二、私とあなた、」

慣れない体勢で喉が震える。吐く息がまだ九月だというのに白く、彼女に降りかかる。彼女にちゃんと声が届いているか少し不安になる。なにせここは、水の底だ。

 「私とあなた、大丈夫、仲良く出来ると思うの」

 「え」と彼女の返事を待たずして続ける。

 「大丈夫、だから、えっと、あなたも約束して。突然、私に乗りかかったりしないこと。それと、私のいないところで他の人に、今と同じようなことをしないこと。これを聞いてくれるなら、私はあなたを、あなたは私を尊重しあえるわ」

 「……判んないけど、君が言うなら、判った」

 「……ふぅ、じゃあ、あと十分経ったら、教室に戻りましょ」


 返事は無く、私は彼女の上から退き、また元の跡地に彼女の隣に寝転んだ。彼女の細白い右手の小指を掌のなかに握りしめながら、彼女の引いていく体温をぐっと温め直した。そのうち冷たい指先が四本、私の二の腕に絡み、離れがたいように強く、ぐぐっと引き寄せた彼女の身体を、今日。私は生涯、忘れることは無いだろう……


 「あとね、」「なに?」

 「教室戻ったら、教科書見せてくれる。まだ買ってないの」

 「判った」


水の底から這い上がる。

陸に上がると底の出来事は風に乾かされて、あとには潮の匂いだけを残した……

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