二、


 いない。

 いない?

 そうだね、いないね。


 わかる。先生がいるかいないかは、姿を見るまでもなく感じ取ることができる。目を瞑っても、耳を塞いでも必ず言い当てる事ができるだろう。

 或る日、其の日、此の日、療養所に先生はいない。

 外では、熱に浮かされ毛孔けあなから這いずり出てきた蝉たちが騒がしい。狂ったようにわめき散らす。

 中庭の向日葵は重いこうべを垂れる。首の座らぬ稚児のように。不気味に巨大な頭を垂れて嘲笑している。


 珈琲を。早く熱い珈琲を。

 その薫りで先生は戻ってくるの。


 先生の所用については思い当たる節がある。三堂みどうのところに赴いているのだろう。

 大資産家である三堂の屋敷について、噂は絶えない。訪れた人がみな一様に驚き、それを言い触らすためだろう。三堂に関する話題はこの地域の一番の関心事でもあるので、情報は瞬く間に広まっていく。そのため、訪れたことのない人であっても最低限の情報を得ている。

 このあたりの村々のあらゆる建築物に比して、格段に広大で豪奢な邸宅らしいが、未だその全体像に対する定説は存在しない。村人全員が入れそうな大広間があるとか、端が霞むくらいの長大な石塀が連なるとか、敷地内を移動するためだけの目的で運転手付きのフォードが待機しているとか。

 俄には信じ難いものも多いが、それでも三堂ならば本当かも知れないと思えてしまう。それほどまでに、三堂の財力は莫大なのだ。

 そして、近年はその財を鉱山開発につぎ込み、さらなる富を生み出していると聞く。そのためか、村から見えていた美しい山林は年々蝕まれ、今では全体が赤茶けた土の色になってしまった。

 しかし、それに対して正面切って不満を表明する者はいるはずもない。このあたりの土地はほとんどすべて三堂のものなのだから、機嫌を損ねれば村八分である。

 この療養所にしたって、状況は変わらない。こんな貧しい土地においても存続していられるのは、三堂の援助があってこそ。それを断たれれば一月ともつまい。


 それはそうだ、その通り。

 神様仏様三堂様。

 この療養所のおかげで、野垂れ死ななくて済んだ者はどれだけいるだろうか?

 嗚呼ああ、素晴らしき三堂様。

 貴方に一生ついて行きます。貴方は我々の太陽です。

 そうだ太陽だ。偉大なる太陽だ。

 じゃあ私たちはなんだろう?

 太陽に焼かれて黒ずむ虫ケラだ。

 貴方の前で地べたに這いつくばる虫ケラを代表し、感謝の言葉を。

 虫ケラ虫ケラ、ケラケラケラ。


 三堂は聖人ではない。見返りを求めず、ただ村人のために療養所を存続させているわけではない。

 三堂にとって療養所とは、自分やその親類のための救急箱に等しい。都会から離れているこの土地での生活において、安心を担保するための施設というわけなのだ。

 よって、療養所が行う一般の診察や治療行為というのは、おまけなのである。三堂の都合を考え、顔色を窺い一切の迷惑をかけないような最大の配慮をもって渋々認められる、本来の役割以外の業務なのである。


 この療養所は三堂の救急箱。

 主様の意向が何より大事。

 私たちは、そこにたかっている虫ケラに過ぎない。

 はたかれたり潰されたりしないだけマシというもの。

 アリガタヤ、アリガタヤ。


 今日の先生の不在についても、あそこの御令嬢がまた風邪をひいたとか言って呼び出したに違いない。先生だって、そんな見え透いた嘘にあわせる必要はないだろうに。

 溺愛され我儘を許され続けた小娘の戯言たわごとに、忙しい先生が巻き込まれるのは、何とも腹立たしい。先生は、もっと多くの人に求められる人間。救いを求める人々に手を差し伸べていくことのできる人間なのだから。


 アナタは救いを求めていないの?

 ワタシは救いを求めていないの?

 救い……。

 救いだなんて、綺麗な言葉で誤魔化して、笑える。

 これは傑作だ。超大作だ。

 何故ここにいないの? 先生、どこ?

 三堂の屋敷に相違ない。

 何故わかる?

 何故わからない?

 あの娘は、先生に気があるんだ。

 先生先生先生先生。

 アハハハ。

 ケラケラケラ。

 五月蠅うるさいね。外の虫ケラどもが五月蠅いね。

 蝉の喚き声、どうにかならないものか?

 どうする? どうやって黙らせる?

 生きているから五月蠅い。

 なるほど、生きていれば五月蠅い。

 生きているから、炎熱に狂って喚き散らす。

 みんなそういうものだ。

 先生は?

 先生は戻って来ない。

 珈琲の温度が不足しているに違いないね。

 もっと熱を、炎を。烈火の如く、業火の如く。

 泡立ち、沸き上がり、逆流し、噴出し、飛び散るまで。


 立ち上がる。少女は立ち上がった。そして、そのまま壁際の棚に猛進し、花瓶を一つ掴みあげた。

 少女は、眩しすぎる窓に駆けだす。開け放たれている窓に駆ける。そして、その勢いをもって中庭の樹木に花瓶を投げつけた。それは見事な飛翔をした後、硬い幹に衝突し、砕け散った。

 蝉の声と、砕け散る花瓶の音は、どちらも鼓膜をジリジリと焼いた。

 少女は棚から陶器の皿や、すずりや文鎮や、その他、持ち上げられるものを端からすべて投げつけていった。そのたびに蝉は動揺し、合唱のリズムを乱すが、それでも終わることだけはない。

 蝉は喚く。喚き続ける。

 少女も喚く。狂ったように。


 狂ったように?

 違うよ……狂っているから。

 知っているよ……狂っているけれど。


「御丹麻さん!」

 騒ぎを聞きつけた人々が群がって来る。虫ケラが集まって来る。

 少女は、その虫ケラにも物を投げつける。

 それは見事に誰かの額で砕け、破片に赤いものが混ざる。

 虫ケラはますます狂乱し、少女もますます狂乱する。

 数人の看護婦が、刺又さすまたを持ってくる。少女は床に押さえつけられる。首や手や足の自由を奪われる。

 少女はその場で天井を仰ぎ見て、その口から熱を吹き上げながら、なおも言葉にならない声を放ち続ける。噴き上がる褐色の液は、飛び散り、命の痕跡を噎せ返るほどに刻みつける。


 来た……。

 うん、来たね。

 ほら、来たよ。


 そのとき、群れが割れる。肩で息をする人が立っている。肩で息をしているが、その視線はいつもと変わらない。いつもと変わらない瞳で、こちらを見ている。


「先生……お帰りなさい」


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