おやつ。バタークッキー

 昔風の言い方をするのなら、美澄香さんは「いいお嫁さんになる」という女性像に近い人だ。

 人懐こい性格でご近所との付き合いは良く、料理の腕前も相当だし、読書家でもあるので教養もある。

 特に、損得を考えない素直な一面が村の老人達には好印象で、皆々が彼女を血は繋がってないが大切な孫として接している。

 しかし最初はまだ遊びたい盛りの女性が、こんな辺鄙な村でほぼ自給自足の一人暮らしという生活を送ろうとしている事に対して、彼女の祖母の美芳子さんに良くしてもらった多くの村民は嬉しい反面複雑な感情を抱いていたが、どうも最近流行りのシェアハウスとやらを始めたのか、彼女の家に妖艶な外国人の美女や、明治大正時代を思わせる古風な格好をした涼し気な顔の男性が出入りするのを見かけたり、家の中から複数人の笑い声がするようになったので、村民達はほっと胸を撫で下ろす頃には、時期は美澄香さんが永住を決意し引っ越してきて丸一年、肌寒い中秋となっていた。






 さて、その頃の美澄香さんは、三角頭巾にマスクと軍手を身に付けて、ハタキを片手に書庫の掃除に奮闘中である。

 美澄香さんと同じく読書家だった美芳子さんは、親戚が裕福だったというのもあってかその時代の女性にしては博識で、絵本の他に数々の種類の本を蒐集していた。

 英語の本もさる事ながら、中にはドイツ語のものもあったりと、掃除を手伝うハスター夫妻とヴルトゥームちゃんも、料理以外の事で珍しく感嘆していた。

「ああこれは、決定版の『金枝篇』じゃないか。日焼けも少なく、紙魚にも食われていない。ミスカ、後で読んでもいいか?」

「『痴人の愛』? なんだかゾクゾクする響きの題名ね。気になるわ、私も後でこれを読ませて頂戴」

 乾いた柔らかいタオルで表紙や溝に溜まった埃や蜘蛛の巣を払っているハスターさんとシュブ=ニグラスさんは、気になる題名の本を見せあったり許可を求めたりと相変わらず仲睦まじい。

「ふぉおおお……! これはすごいですね」

 一方、ヴルトゥームちゃんは『世界のケーキ名鑑』という図鑑を見つけてしまい、書庫の隅に引っ込んで早々にリタイアしてしまっていた。

 代打として、ショゴスが掃除をしている。

 美澄香さんは苦笑して、ハタキの手を止めて言った。

「ヴルトゥームちゃん、ここは埃が舞って喉に悪いですよー」

 その言葉に、ハッとした様子でヴルトゥームちゃんは本から顔を上げ、気恥しそうに頬を赤らめて「ついうっかり……」と本を抱きしめて肩を竦めた。

 美少年の上目遣いが誇る圧倒的な破壊力に、美澄香さんは思わず「んんッ゛!」と胸の内から湧き上がる感情のままにマスクの下にある唇を噛み締める。

 この神格。可愛さとあざとさをフルに使って来ている。

「そ、そろそろ終わるのでヴルトゥームちゃんは隣のお爺ちゃんの部屋で読書しててもいいですよー」

 やっぱり可愛いというのは罪である。

 いけないと分かりつつもヴルトゥームちゃんをどうしても贔屓してしまうのが美澄香さんの悪い癖だった。

 ハスターさんがフードの奥からジト目を彷彿させるような視線を向けてきているのが申し訳ない。だが、どうしてもこの本能には逆らえなかった。

「わぁい! ありがとうございます! ミスカだいすき!!!」

 ぎゅうっと本を抱きしめて、満面の笑みで美澄香さんにお礼を言うヴルトゥームちゃんの眩しさときたらどうであろうか。

 これが邪神だと言うのだから……いや、このギャップが素晴らしいのかもしれない。というか「かも」とか要らない、断定する、このギャップが素晴らしい……。

「ミスカ。あまりアイツを甘やかしてくれるな」

 本の掃除をする手を止めず、静かにそう注意するハスターさんに、美澄香さんはバツが悪そうに眉を下げて苦笑する。

「そういえば」

 書庫から出ていくヴルトゥームちゃんの背中を見送っていたシュブ=ニグラスさんが、思い出したかのように美澄香に訊ねた。

「お爺様ってどんな人だったの?」

 その素朴な疑問に、ハスターさんも「ああ」と声を上げる。

 美澄香さんは自分の事を生粋のお婆ちゃん子だと言っている位には、祖母の美芳子さんの話題を出すが、今まで一回も祖父の話を切り出したことが無いという事に気が付いたのだ。

 が、ここでハスターさんは何かをピンと察した。


 ──もしかしたら、何かトラウマのようなものがあるのかもしれない。


 今まで話したことが無いというのは、ほじくり返されたくない過去があるという事だ。

 まずい。これはまずい。

 今まで気落ちした姿あまり見せたことが無い彼女が、この質問で気分を大きく害してしまったら……。

 美澄香さんを害するものを全て吹き飛ばすという約束を違える事になってしまう。

 神としてのプライドが高いハスターさんは、慌ててシュブ=ニグラスさんの口を手で塞ぎ「いやこれはだな」と弁明をしようと口を開いた。


「うちのお爺ちゃんは船乗りさんだったんですよ。私が3歳の頃に肺炎で天国に行っちゃったんですけどね」


 マスクを下げ、にへら。と笑った美澄香さんの何の濁りも無い表情は、ハスターさんの考えが杞憂であったと言うことを表しており、彼はほっと胸を撫で下ろした。





 ストン。ストン。と、濡れた包丁が棒状に伸ばされたクッキー生地を均等な厚さに切り分けていく。

 それをショゴスがクッキングシートを敷いた天板の上に一定の間隔で置いていく。

 並べ終えたら、その天板を余熱しておいたオーブンの中に入れ、時間を設定し、スタートボタンを押した。

「これで後は焼き上がりを待つだけですよ」

 居間と台所を繋ぐ廊下から、様子を見守っていた三柱はその言葉を聞くと美澄香さんの側まで歩み寄った。

 美澄香さんは笑い、その場でしゃがみ込めばショゴスを含めた彼らは同じくしゃがみ、目線を合わせる。

「お婆ちゃんの叔父さんが輸入業者で、結構なお金持ちだったんです。お爺ちゃんはそこの船乗りさんで、馴れ初めはその叔父さんの仲介だったそうなんです」

 穏やかに、静かな口調で美澄香さんは話し始めた。

「その叔父さんは、お婆ちゃんをそれはそれは可愛がっていたそうで、珍しい外国の本や、翻訳用の辞書もその叔父さんが定期的に贈ってくれたものだって教えてくれました。だからお婆ちゃんはその時代の人にしたら、3ヶ国語が読める凄い人だったんですよ」

 自慢げに笑い、目を細める。

 それは……遠いセピア色の過去に思いを馳せている、そんな表情だった。

「叔父さんは、多分お婆ちゃんが好きだったんだと思います。ずっと未婚を貫いていたそうですし……でも、ふた周り以上も年下のお婆ちゃんと結婚するのは、気が引けたんでしょうね。だから若くて、ハンサムで、誠実なお爺ちゃんとの縁談を持ってきてくれたんじゃないかと思ってます」


 ──お見合いさ時の誠一郎さんったらね、まぁるで背広に着させられてるようでねぇ。丸ボンズの頭に、まっ黒れくてまだらに日焼けした肌しちょって、口を一文字に結んじょったけど、目だけがくるんくるんて忙しなく動いとってねぇ。


 うふふ。と、お爺ちゃんの事を話す記憶の中のお婆ちゃんは、頬を薔薇色に染めて恋する乙女そのものだった。


 ──んだけんじょも、日に焼けた肌からニカって笑うと見えた白い歯がそりゃあもう綺麗でねぇ。小さい頃から叔父さン所に奉公先として勤めちょったから、こまい所さ気ィが利いてねえ。その時代の男衆おとこしょと比べっと新鋭的だったんよ。


 繕い物をしながら語るお婆ちゃん、その側で手作りのバタークッキーを頬張り、相槌を打つ幼い頃の美澄香さん。

 そういえば初めてお婆ちゃんと作ったのがこのバタークッキーだったな、と懐かしい日々を思い出す。

「お爺ちゃんは写真嫌いな人で遺影がありませんし、私ももうお爺ちゃんの顔は思い出せませんけれど、少しお酒に焼けた声でしてくれた船旅の話は、ずっと覚えてます」

 海外に多くの友人を作ったお爺ちゃんが、自慢げに外国語で書かれた手紙の束を見せてくれた時は、見たこともない異国の世界を空想したものだ。

 ここで、オーブンのアラームが鳴った。クッキーが焼き上がったようだ。

 美澄香さんは立ち上がり、鍋つかみを利き手にはめてオーブンを開ける。

 バタークッキーはうっすらとしたきつね色に焼けており、中学高校時代には飽きるほど焼いたことがある美澄香さんは、色で会心の出来だと直感し、満足そうに笑みを浮かべた。

 天板を取り出せば、周りの空気が熱気で歪むが鍋つかみを装着した美澄香さんの敵ではない。

 調理台に天板を置き、クッキングシートを器用に持ち上げて、まるごとケーキクーラーに乗せる。

 粗熱を取る間に、紅茶用のお湯を沸かし、各々のマグカップを取り出す。

 美澄香さんのマグはギリシャの国旗柄。

 ハスターさんのは顔と手足の黒い羊が描かれたもの。

 ヴルトゥームちゃんのは色とりどりの花柄。

 シュブ=ニグラスさんのは何やらエキゾチックな風貌の山羊の描かれたもの。

 そしてショゴスは何も描かれていない真っ白な無地のもの。

 無地のマグ以外は美澄香さんが町に出かけた時に彼ら専用に買い集めたもので、全員気に入っている。

 本当はショゴスにも買ってあげたかったのだが、頑なに美澄香さんのお古である無地のがいいと譲らないので、美澄香さんが自分のを買い換えた形になっている。

 お湯が沸いた。

 マグの中にお湯を注ぎ、ティーパックを静かに沈めた。

 パックからじわりと透き通った茶褐色が染み出す。

 頃合いを見てパックを取り出せば、安い徳用の紅茶でもカフェで出てくるような高貴な香りがふわりと上がった。

 後はクッキーをお菓子鉢に移し、準備は万端だ。

「さあ、お掃除の後の慰労会ですよー!」

 美澄香さんが自分の紅茶とクッキー入りのお菓子鉢を持って先陣を切る。

 それに続いて各々自分の紅茶を持った神格が続き、すっかりもう手狭になった居間のちゃぶ台を囲んで座る。

 ちゃぶ台の上には、掃除中に皆が気になった本が置かれており、ハスターさんなんかは待ちきれないと言いたい様子でソワソワと体を揺らしている。

「それでは皆さんお疲れ様でした。後はクッキーと紅茶をお供に読書を楽しんでください!」

 そう言って美澄香さんが嬉しげに持ち上げたハードカバーに書かれていたタイトルは『限りなく透明に近いブルー』だった。

 正直、クッキーのお供には少し重い内容では無いかとハスターさんは思ったが、それよりも金枝篇を読みたい欲が勝り何も言わずに本を開いた。

 それに続くように、シュブ=ニグラスさんもページをめくり出し、ヴルトゥームちゃんはショゴスの膝に座って図鑑の続きを読み始める。

 そして、後は沈黙だった。

 時々紅茶を啜る音か、クッキーを鉢から取り出す音が聴こえる程度の静寂。

 美澄香さんも、清潔に書かれる暴力と性行為の世界の傍観者となり、無意識にバタークッキーを摘み、齧った。

 バターの風味がふわりと香り、甘くてさっくりとした生地が舌の上でサラリと溶ける。

 少しばかり良く焼けた外側は芳ばしく、自然と加えられたアクセントとして非常に楽しめる。

 そこに、無糖の熱い紅茶を啜れば、思わずホッとしたため息が漏れる。

 世界のどんなお金持ちですら、この幸福を知らないと思うとちょっぴりの優越感に浸れた。

 ふと、本から目線を上げてみれば、クッキーを頬張りながら本を読む神格の表情は、例えようがないほど満ち足りていた。

 雲ひとつない秋晴れの空の下、遠くからコンバインの駆動音が聴こえる。

 新米の季節は近い。





 ──to be continued.

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