レヴィンの手紙・6


「窓の向こうでジンジャー・ブレッド売りが喚き立て、私はベッドの上で耳を塞ぎました。小さな物音がやけに騒がしく聞こえる、神経症的な性質が私に現れたのは、春が過ぎ、まだひややかな風の匂いの中にからりとした夏の気配が感じられるようになってからです。

 私の気分が本格的に鬱々としはじめたのも、ちょうどこの頃からでした。あれから胸の調子は緩やかに、しかし確実に悪くなってきていましたし、私自身それをはっきりと自覚していました。ちょっとした階段の上り下りや軽い運動などで、私の脆弱な心臓は早鐘を打ち始め、息は苦しくなり、手指や唇は真っ青になるのでした。

『いっそ、早く死んでしまったほうがいいんだ』

 真夜中のおやつ——ぱさぱさした固いビスケットを温めた葡萄酒クラレットに浸しながら、私は呟きました。向かいにはリカードが座り、私に付き合って熱いクラレットを傾けていました。リカードに用事がなく、かつ私の調子がいい日、私たちはこうやって夜を過ごすことが習慣になっていました。私の言葉を聞きながら、リカードは黙って右手の指で反対側の手の甲を叩いていました。

『だから、医者にはかからない?』

 私はこっくりと頷きました。

『苦しみながらゆっくり死ぬのはいやだもの。生きる時間を伸ばすことは、つまり僕にとって苦痛を引きのばすということだよ』

 苦笑を浮かべながら、私は続けました。

『それに、僕の病気は医者せんせいにも治せないよ。分かっているんだ』

『生きることは苦痛?』

 首を傾げてリカードが尋ね、私はもう一度頷きました。

『誰にとってもそうではないの。僕は、この病気がなくたって、生きていくことは苦しいことだと思う。貴方は、そんな風に思ったことはないの』

『そうだね』リカードが頷きました。確かめるように、繰り返して。

『そうだ。生きていくことは苦しいし、淋しい。死ぬことと同じくらいに』

『それでも、生きものは生きつづけようとする』

『そういうものだよ』

『それなら、生きることをやめたい僕は、生きものである資格がないのかな』

『はは』

 私の言葉を聞いて、リカードは面白くなさそうに笑いました。

『生きものであることに資格なんて要らないよ。それがいいことであれ悪いことであれ』

 リカードはぬるくなってしまったクラレットに人差し指を突っ込み、赤むらさきの雫に濡れたその指を口に含みました。そんな行儀悪く幼稚な仕草でさえ、彼がしてみせるとどこか優美な振る舞いに見えるのでした。

『望もうと望むまいと、君は生きものであり続けるしかないのさ。一生ね』

 他人事のような彼の言い方に、私は少なからずむっとしました。

『それは貴方もだろう。リカード』

 少し驚いたような顔をしてから、そうだ、とリカードは再び認めました。

『不自由だ、私たちは……』

『貴方は黒死病の蔓延するエディンバラを歩いたことがあると言ったよね』

 私はぽつりと呟きました。

『死のみが僕たちを自由にする?』

『どうだろうね』

 リカードはぞんざいに言いました。唐突に興味を失ったようなその響きが、会話は終わりだと告げていました。彼は時々、こうして突然に会話を打ち切ることがありました。こうなるともう彼は上の空で、どんな話を振っても生返事しか寄越さないのです。初めのうちこそ、私は彼の機嫌を損ねたのではないかとおそれたものでしたが、この頃には、これは彼の一種独特な習癖なのだと納得していました。

 私は二人分のグラスを片付けたあと、いつものように、ベッドの上で暫し物思いに耽りました。先程のリカードの態度について考えていたのです。窓を細く開けると、微風とともに乾いた夏の匂いが忍び込みました。懐かしいあの匂い——ひたひたと膚を冷やす風の匂い。エディンバラの夏は常に乾燥しているのです。日本で生まれ育った君には、馴染みのないものかもしれませんね。日本を初めて訪れたとき、エディンバラの気候にすっかり慣れてしまっていた私は、夏のひどい蒸し暑さと、夜のうんざりするような長さに辟易したものです。短い夜は私に浅い眠りをもたらし、明け方になれば涼やかな風がその微睡みを攫っていくのでした。

 眠りに就くまえ、半醒半睡の私は、ふと窓の外にエドガーの影を見たような気がしました。あの懐かしく、気高く、うつくしい白猫の影を。

 しかし歩き去るその後ろ姿は、彼とは似ても似つかぬ、みすぼらしく薄汚れた灰猫なのでした。







 どのくらい眠っていたのかは分かりませんでした。微睡みの中を緩慢に揺蕩っていた私は、ふと目を覚ましました。

 誰かに呼ばれたような気がしたのです。まだ、なま温かい泥のような夢の残滓が、私の喉元に絡みついていました。私はベッドから身を起こし、ひとつ、乾いた咳をしました。それから、リカードを起こしてしまわなかったかと案じ、首をぐるりと回しました。

 彼は同じ部屋の、反対側の隅のベッドで眠っていました。寝息も立てずに、身動ぎもせずに。そのとき、私が覚えたのはしみじみとした違和感でした。彼が眠っているところを見るのは、これが初めてでした。

 私は、微小な鱗を光らせる一尾の滑らかな魚のように、しずかにベッドから抜け出しました。そして、彼のベッドへと近づき、死んだように眠る男の白皙の顔を見下ろしました。

 見れば見るほど、綺麗な顔をした男でした。フレスコ画の中の聖人のような。あやうげな灯火を思わせる薄金の瞳は、今は肉付きの薄い瞼の下に隠され、静まり返っています。黒い髪は、瞼を縁取る睫毛と同じく深いくらやみの色をして、石膏のような膚の上に柔らかく零れかかっていました。作りもののようだと思いました。温度を持たない、人の理から外れたもの。ふと、あたためた蜜蝋のようなあえかな匂いが漂い、私は自分がいつか彼の髪に触れてみたいと思っていたことを思い出しました。私はおずおずと手を伸ばし、そこで、つと動きを止めました。

 彼の言っていたことが本当ならば、事実、彼は時空を超えて生き続ける異形の存在のはずなのです。

 私は無意識のうちに息を殺していました。

 青じろい喉が薄雲越しの月明かりの中で朧に浮かび上がり、呼吸に上下する胸とともに、微かに動いていました。そのほんの僅かな動きだけが、彼が間違いなく生きていることを私に伝えました。そのときでした。私が不意に、リカードの言うことが本当かどうか試してみたいような衝動に襲われたのは。

 その衝動は名状しがたい魅力と烈しさを以て私を駆り立て、私の中の暴力的な感情の小箱をこじ開けようとしました。

 私は、彼の髪に伸ばしかけていた右手を、彼の白い喉に掛けました。彼の膚の感触は滑らかで、おそろしくひんやりとしていました。私は、彼の喉をそっと撫ぜてから、左手を上から重ねました。

 端的に言えば、私は彼を殺してみようとしたのです。

 どうしてそんな恐ろしいことが私に出来たのか、今でもよく分かりません。

 彼は、すぐに私の存在に気がついたように思われました。

 睫毛が震え、ちらりと糖蜜の虹彩が覗きました。更に力を籠めるために、私は彼の上に体を乗り上げました。彼は控えめに、苦しげな呻きを上げました。その声は、私の中にひそむ嗜虐的な部分をひどく高揚させました。これまでの人生で常に弱者であった私にも、誰かにとっての加害者となることができるのだと、はっきりと自覚した瞬間でした。常に死に追い立てられてきた私が、誰かに死を与えることができる。それは甘く、くらくらするような酩酊感を伴った実感でした。

 私は息を荒げ、彼の喉に指を食い込ませました。痕が残るほど強く。彼は形のよい眉をきつく寄せ、微かに身を捩りました。背後で彼の脚がばたつき、私を退けようとしました。私は完全に馬乗りになっていたので、彼を抑えつけるのは難しいことではありませんでした——拍子抜けするほどに。私の下で誰かの身体が蠢めく感触は、私の薄昏い欲求をよく充しました。

 彼の右手が私の指にかかり、また左手が弱々しく私の手首を掴みました。

 細められていた瞼がじわじわと持ち上がり、彼の琥珀アンバーの双眸が露わになりました。彼は、瞳を緩慢に動かし、私の顔をはっきり見つめました。私は、彼の琥珀の中にぞっとするような昏い虚を見ました。彼の口元は緩み、うっすらと笑みを佩いているようにさえ、私の眸には映りました。私は息が止まりました。漸く気が付いたのです。

 彼の抵抗の全てが、本気のそれではないということに。

 私は総毛立って彼の上から飛び退き、ベッドから転がり落ちました。彼は二度小さく咳き込み、ゆっくりと身を起こしました。

 彼は喉を力一杯締め上げられていたはずなのに、私のほうが息が乱れていました。

 此方に向けられた白皙の顔には、先程の笑みはどこにもありませんでした。あれは見間違いだったのかもしれないと思ってしまうほどに、このときの彼は冷たくかたい表情をしていました。

『やめたほうがいい』

 彼は掠れたテノールで呟きました。

『この呪いは感染うつるぞ』

 私は無様に尻餅をついたまま、浅い息を繰り返しました。私はあえぎ、吃りながら言いました。

『ど、どうして……貴方は……』

『罪のあかしだ』

 彼は吐きすてるようにそう言うと、ぽつりとあとを続けた。

『私は救われない存在だ』

 私はまた、『どうして』と呟きました。彼はまたしずかに応えました。

『生きたいと願ったからだ』

 その瞬間、凍りつきそうなおぞましいまでの暗闇が、彼と私とを一気に染め上げたかのような錯覚に陥りました。冷え切った泥水をいっぺんに飲み下したかのような。

 どんなことがあればそれほど強く願うのか。

 私は囁きました。

『ぜったいに死ぬことはできないの』

『不死かと言われれば、その答えは否だ。病や老衰によって死ぬことがないということだよ。刃に貫かれれば死ぬし、君がさっきやろうとしたように首を絞めても死ぬ』

『それならばそれは呪いではなくて、加護と呼ぶべきものじゃあないの』

『いいや、これは呪いだよ。呪いであって、私への罰なんだ』

 冷笑の影が、彼の頬を掠めました。

『どんな罪を犯したっていうの』

 彼は厭わしげに目を細め、ゆるゆると首を振りました。何度も。

『君はまだ、死にたいのかい』

 私は、躊躇いながら頷きました。

『そうか』

 彼は溜息を吐きました。そうして彼が浮かべた疲れたような微笑は、いつもの彼のもので、私はそこから周囲の空気が解けたような感じがしました。夢から醒めたような心持ちがしました。それでも彼の首に残った紅い手の痕が、全ては夢でないのだと、私にひややかに言い聞かせました。彼はするりと立ち上がり、まだ座り込んでいた私に手を差し伸べました。

『エッグ・ブランデーでも作ろう。今日は一日、眠っていたほうがいい』

 私はぼんやりと俯きました。窓からはもう払暁の光が柔らかく射し込み、部屋の中を仄白く染めていました。」

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