レヴィンの手紙・4


「それから暫くして、エドガーの姿が見えなくなりました。ナイジェルに暴力を振るわれてからというもの、エドガーは大分弱っていたようだったので、私は心配でした。

『もう帰ってこないよ』とナイジェルはつめたく言い放ちました。彼は私の部屋に水差しを持ってきたところでした。

『死に場所を探しに行ったんだ。猫は自分の死ぬところを人間に見せない。だから自分が近いうちに死ぬと悟ると、ひっそりとした薄暗い湿った場所を選んで、そこで死ぬんだよ』

 私は俯きました。

『ねえ、ナイジェル』

 ナイジェルは苛立たしげに振り向きました。思い返してみれば、ナイジェルはその日も顔に大きな痣を拵えていました。私はそういったことにもう少し注意を払うべきだったのかもしれません。けれど、その頃は毎日自分のことで一杯一杯で、とても彼のことにまで気をつける余裕がなかったのです。

『死んだら魂はどこへ行くんだと思う』

『どこへも行かないさ』

 ナイジェルはほとんど怒ったように言いました。

『消えるんだ。無になる。死んだおれのおやじのように。全部終わりになるんだ、なにもかも』

『だけど』と私は言いました。

『幽霊は。ナイジェルは、幽霊はいるって言ったじゃないか。死んでなにもかもが終わりなら、幽霊はどうなるの』

 ナイジェルは黙って私の枕元に水差しを置き、立ち去りました。



 ナイジェルの言った通り、それからエドガーが戻ってくることはありませんでした。本当に死んでしまったのかは分かりません。それでも、私にとっては同じことでした。

 以前にも増して無口になった私のことを、ナイジェルは喪に服しているのだと解釈したようでした。私が非常に繊細な質だということを彼はよく承知していましたから。しかし、それは半分正解で、もう半分は間違いでした。私はそのとき、死ぬことを考えていたのです。そういう意味では、私はエドガーの死を悼むというよりも寧ろ、羨んでいたともいえます。



 そして、数ヶ月の間に酷い胸の発作を何回か繰り返したあと、私はとうとう自分の人生に終止符を打つことを決意しました。あたたかい陽光がロットフォードの霞を透かしてほろほろと差しおろす、うららかな春の日のことです。オークの枝先には、銀色の産毛に覆われた新しい葉がそっと膨らみ、やわらかそうに風に揺れていました。茂みの中には終わりかけのクロッカスが、それでもまだうつくしい紫の花弁を開いたり閉じたりしていました。水辺には、クロッカスにやや遅れるようにして花開いた水仙が俯き、神話の通りに水面に映る自分自身を見つめています。そして、木立の向こうにはあのきれいなブルーベルの若葉が広がり始めていました。覗き込んだ湖はいっそう澄み渡ってうつくしく、こんな日は私のような子どもが死ぬにはぴったりだと思いました。

 おかしなことを考える子どもだと、君は思いますか。

 しかし君、私は大真面目だったのです。私は殆ど顔も見せない両親や、意地悪なばあやたちや、このロットフォードのうつくしい自然にはスプーンひと掬いほどの未練もありませんでした。私はただ、ひとりぼっちでした。つまり私には、私をこの世界に繋ぎ止めてくれる楔がひとつもなかったのです。

 そうなると、考えなくてはならないのは死に場所です。私も、エドガー同様絶対に見つからない死に場所を探さなくてはならないと考えました。とはいえ、選択肢はそれほど多くはありませんでした——私は『死ぬ』ということが言うほどに簡単なことではないと知っていましたし、見つからないように全てをやり遂げるとなればもっと難しいことであると分かっていたからです。

 そこで、私は湖に身を投げるのがいいのではないかと思いました。死ぬための特別な道具も要りませんし、屋敷から近く、何より底に沈んでしまえばきっと死体は上がってこないでしょう。これはなかなか悪くない考えのような気がしました。それに、このつめたく清浄な水の中に溶け込んで、ロットフォードの湖の一部になることは私にとってけっこう魅力的なことでした。私はいつでも世界から切り離されたような心許なさを感じていましたから。

 その夜、ベッドから起き上がった私はちいさなランプを灯し、手紙を書こうとしました。遺書です。私は物音を立てないよう机に向かい、ペンにたっぷりインクを含ませました。私が考えこんでいる間、紙の上にぽたぽたとインクの雫が幾つも滴り落ちました。しかし、とうとう私は一文字も書き記すことができなかったのでした。『親愛なる——』その一番最初のフレーズが書けなかったのです。更に言えば、その後になんと続けていいかも分からなかった。つまり、誰に宛てて書いたらいいか分からなかったのです。

 私は紙を丸めて捨て、インクとペンとを片付けてから、窓から部屋を出ました。

 狙い通り湖のあたりには濃い霧が出ていました。きっとこの霧が、私の姿を包んでぼかしてくれるだろうと思いました。夜の空気は濃厚でいて静謐で、息をするのも憚られるほどでした。

 私はまずボートのところへ向かい、 慎重に乗り込んで、杭から綱を解きました。ある程度まで漕ぎ出して、そこで飛び込むのがいいと思ったのです。溺れたら無意識に岸辺の草を掴んでしまうかもしれませんし、音を聞きつけた誰かに助けられてしまうかもしれませんから。私はゆっくりと岸を離れ、オールを水の中に沈めました。初めて漕いだときよりも、幾分うまくいきました。認めますと、このとき私は静かな興奮状態にありました。何一つ自分ひとりで成し遂げられなかった私が、これから両親もばあやもナイジェルもやったことがないことをやってのけようとしているのだと。そう考えると、私は胸がひどくどきどきして、気分が高揚しました。私を乗せたボートは滑るようにして、ゆっくりと湖の中心へと向かっていきました。寝巻きは薄く、歯がカチカチ鳴るほどに身体が冷えているのに、汗でオールが滑りそうでした。私は漕ぐのをやめました。初めてボートに乗ったあのときとは違い、今度は本当に私ひとりきりでした。今は向こうに見える屋敷には一つの灯りもなく、誰もかれもが眠っているようでした。私は大きく息を吸い込み、細く長く息を吐き出しました。息は震えていました。その瞬間、私は突然にひどく惨めな気持ちになり、項垂れました。湖の水面はインクを流し込んだように黒光りし、冷ややかに月光を跳ね返していました。あんなに親しげだった湖が、今は無関心を貫き、無表情に私を見つめ返していました。

『ああ』と私は言いました。

 茫洋としたかなしみが私の全身に烈しく打ちつけ、私はボートから湖へと倒れこみました。のっぺりとした闇の中へと。

 破裂音がして、ぞっとするようなつめたさが私の全身を包みました。視界が黒と白に飲み込まれ、遅れて右半身に鋭い痛みが走ります。もう取り返しがつかないという感覚が、くろぐろとした水と一緒に私の口腔に、鼻腔に流れ込みました。私は酷く噎せ、手足をばたつかせました。苦しくて、そうせずにはいられなかったのです。振り回した指先が大きく揺れるボートの底にぶつかり、泣きたくなるほどに痛みました。無意識に何かを掴もうとする手足は悉く裏切られ、纏わりつく水がどんどん私の動きを重くします。目の裏がちかちかとします。ごお、という低い音の他は、何も聞こえません。おそろしい暗闇の中で、空気の粒が月光を反射しながら上昇していくのが見えました。それが、ひどく綺麗でした。口が勝手に開き、同じ光の塊を吐き出しました。そのときでした。目の前に真っ白な腕が差し伸べられ、反射的に私はそれを掴みました。

 腕は圧倒的な力強さで小柄な私を引っ張り、私は何が何だか分からないうちにボートのへりにしがみ付いていました。腕の主は更に力を籠め、とうとう私をボートの中に引き揚げてしまいました。私は何度も咳き込み、鼻や口から水を吐き出しました。目からも水がぼたぼたと滴りました。私は喘ぎながら言いました。

『リカード』

 歪んだ視界の中にいたのは、あのチェスターコートの男でした。彼は濡れた腕をコートに擦りつけ、袖を元に戻しているところでした。彼は当然のようにそこに座っていました。無人だったはずのボートの中に、初めから存在していたかのように。

『猫が死ぬ前にいなくなるのは死に場所を探すためじゃない』

 リカードは呟くように言いました。這い蹲る私を見下ろしながら。

『生き延びるためだ。生き延びるための安全な場所を探しに行くんだ。彼らは生きるために姿を消すんだよ、レヴィン・アンドリューズ』

 私は再び顔をくしゃくしゃに歪めました。喉が引きつって声が震えました。

『いったい……いったい、あなたは誰なんだ』

『私は誰でもない』

 リカードは微笑んでみせました。月の光が帯となってその白皙の顔に差し、しらじらと照らし出しました。

『はるか昔に全てを無くしてしまった——レヴィン、別れの挨拶をしに来た』

 彼の瞳が琥珀のように煌き、淋しげな光の欠片を放った。

『別れ……』

『さよならだ……さよなら』

『どこへ行くの』

『どこかへ』

 彼の姿が闇の中に掻き消えてしまいそうに思えて、私は思わず口走りました。

『連れていって』

 リカードの目が大きく見開かれ、揺れるアンバーの瞳が私を見ました。

『連れていって……リカード、ぼくを……』

 私は彼のあたたかい手を掴みました。さっき私を引き上げた彼の手を。

 私はいつの間にかボートの上ではなく、シダに覆われた地面に立っていました。足の裏に、じかに、しめった植物の柔らかさが感じられました。あたりは霧に覆われ、よく見えません。ただ、手のひらにリカードの生きた肌の感触がありました。

 不意に霧を裂くように、ナイジェルの声がしました。

「レヴィン」

 私は振り向きました。霧の向こう、裏口のところにナイジェルがぽつんと立ち尽くしていました。途方に暮れた子どものように。

「おい……おまえ……何処へ行くんだ」

 ナイジェルが膝の横で両の拳を握りしめ、叫びました。彼は泣き出しそうに見えました。そのあとで、小さな声で言うのが聞こえました。

「おれを置いていくのか」

 私は彼に背を向けました。ナイジェルの声はもう聞こえませんでした。私は、今頃になって、このときのことをよく思い出します。彼は『幽霊が私に成り代りたがっている』と何度も言ったものでしたが、本当は私に成り代りたかったのは、幽霊ではなく彼だったのでしょう。もっと言えば、彼は私を弟のように愛し、妬み、また憎んでいたのだろうと思います。


 こうして、私は全てを捨ててリカードについていくことになったのでした。これまで私を取り巻き縛り付けてきた全ては、乳白色の霧の中に溶けてゆきました。

 霧の中に。

 ロットフォードの霧の中に。」

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