第9話 生死潰し(モノクロ潰し)




 -零-



 生きていようよ。何かがあるから



 -一-



 パラパラと紙をめくる音だけが僕の耳に届く。一枚一枚に丹念に丹念に、一言一句見落とさないよう書いてある内容を頭の中で反芻していって、ページの終わりに到着すると一枚だけめくってまた同じ作業を繰り返す。誤って二枚めくってしまわないように一々紙を擦って重なりが無いか確かめながらの作業はひどく時間が掛かって、いつもなら面倒だ、と途中でそんな行動は投げ出してしまうけれども、今の僕にはそうやって投げ出してしまうことさえ怖かった。

 陽の当たらない、というか採光のための窓さえも必要としない地下のS.T.E.A.R。気の滅入りそうなその一室の中で僕は面白くも何とも無い作業を続けていた。八畳くらいの広さの部屋にひんやりとした灰色の事務机が四つくっつけられてて、その上にはキングファイルが僕の周りに高い壁を作ってる。

 手前にはその中の一つのファイルが広げられてて、顔を上げると目の前には十七インチのモニターが置かれてる。ファイルの中を探し終えてため息を一つ。そして右手をマウスに伸ばして、今度はパソコンの中に保管されてる資料を探し始めてまたため息。何度目か分からないため息が自然に出てきて前髪を掻き上げると、僕はやっぱり何の面白みも無い天井を仰いだ。


「はぁ……」


 警察に保管されてる膨大な捜査資料。見るだけで気が遠くなりそうなそれを読み始めて早二日が経ってしまっていた。

 課長に殴られ蹴られ投げられの三連コンボをくらって水城さんを探し始めようとしたけれど、彼女がどこにいるのか、僕には全く検討がつかない。それはひどく当たり前の事で、その事実はつまり僕と水城さんの関係が実はとても薄っぺらいものだったと気づかせるには十分すぎた。手掛かりを求めて、課長から水城さんの住所を聞き出して真っ先に向かったけれど、一人暮らし用のワンルームマンションには、半ば予想していた通り水城さんはいなくて、部屋の中は予想以上だった。

 鍵の掛かっていないドアを開けてみれば、そこには見事なまでに何も無かった。テーブルもベッドも、カーテンさえも無くて、ピカピカに磨き上げられた室内。キッチンにもトイレや風呂にも汚れ一つなくて、モデルルーム以上に人が住んでいた痕跡も無い。築十五年は経っているはずのマンションの部屋は新築並に綺麗にされて引き払われて、それが水城さんの覚悟を示しているのだ、とすぐに分かった。

 水城さんの事はS.T.E.A.Rの誰もが知っているようで、その実、誰もが知らない。彼女が普段何をして過ごし、どんな生活を送っていたのか。何が好きで何が欲しくて何が嫌いなのか。彼女の家族も好みも、長く一緒にいれば自然と知るような事でさえ知らない。知ってるのはS.T.E.A.Rにいる時の彼女の姿だけで、それが本当に彼女の姿なのか。彼女ではなく、彼女が作り上げた虚構なんじゃないか、そんな気さえしてくる。水城さんを知る人たちから僕が聞き出した情報は、どれ一つとして僕が持っていたもの以上ではなく、皆から聞いた彼女の情報はまるで夏の日の陽炎の様にはかない。

 だから僕が情報を人ではなく記録に求めたのは必然と言えるかもしれない。

 誰も知らなくて僕だけが知ってる情報に、かつて彼女が教えてくれた話があった。それは、彼女には家族がいないという事。水城さんはただ事件で両親が死んで自分も死にかけたとしか言わなくて、僕もその時は茶化してしまったこともあって聞き流し程度だったけれど、もしその原因がその事件に因るものだったらそこから何か彼女に繋がる情報が手に入るんじゃないかと思った。というより、何かを始めるきっかけ足りうる物がそれしか僕には思いつかなかった

 唯一僕と対等以上に情報を持ってる課長に確認したところ、彼女の両親が亡くなってるのは事実だというのは裏付けられて、加えてそれが十数年前だというところまでは分かった。

 僕が持てる手段はそれらを調べていく事だけで、だから僕はそれにすがるしか無い。もしかしたら他にも方法をあるのかもしれないけれど、残念ながら僕の不出来な頭ではそれを思いつくことはできないし、何よりあるかどうかも分からない手段を探していたずらに時間を浪費してしまうのが怖かった。一分一秒の遅れがどんな事に繋がっていくのか、そんな想像することも怖くて、僕は無理矢理に想像を頭から弾き出さざるを得ない。


「正直気は進まないけどね……」


 本人が知らないうちに他人が調べ上げる。それはとても恐ろしいことで、自分が逆の立場なら気持ち悪くて堪らない。どうせなら、彼女自身の口から聞きたい。そんな事を考える度に手を止めてしまいたい衝動がムクムクと湧き上がってくるけど、実際に止める事はしない。なぜなら、僕は僕のエゴを通すと決めたから。

 彼女の願いに反することをしているのは自覚している。でも、それでも僕は彼女に死んでほしくない。そして彼女にもう一度会いたい。その為には、例え汚い事でも躊躇わないと僕は決めた。


「今日も頑張ってるみたいやな」

「お疲れ、鏡ちん」


 ドアが開く音と同時に掛けられた声に振り向く。八雲さんは相変わらずなアロハシャツで、ボサボサの茶髪を掻きながら眠そうにアクビをした。コンビニのビニール袋を下げて開けたドアを今更ノックし、佳人さんは僕が振り向くと同時にブラックコーヒーの缶をコッチに向かって放り投げて、緩やかな放物線を描いて僕の手に収まった。


「ありがとうございます。八雲さんは弁当を投げようとしないでください」


 コーヒーを飲みながら、ビニールを持った手を後ろに大きく振った八雲さんを制止すると、当の本人は大きく舌打ちした。それが八雲さんの弁当なら良いけど、ここ数日買ってきてくれてる僕の弁当だから投げられては困る。今の僕には食事を自分で買いに行く時間さえ惜しいのだから。

 そしてもう一人、唯ちゃんは僕らのやり取りに何の表情の変化も見せずに寄ってきて、両手に持った弁当の内の一つを僕に向かって差し出した。ありがとう、唯ちゃん。水城さんじゃないけど、君は僕の心のオアシスです。


「お疲れさまです。何か情報入りました?」

「いんや。課長が家出人っつー事で捜索願出したけどよ、まだ目ぼしいモンは何も入ってきちゃねえな」

「何か手掛かりになりそうな情報の一つでも入ってくれれば良いんスけどね」

「ま、ご都合の溢れてるフィクションと違って、この世は人にゃ優しくねーからな。悠の情報を部外者に渡すわけにもいかねーし、警察の奴らも悠一人に時間を割く事はしねーだろうから、あんまソッチにゃ期待すんなよ」


 調べ終わったファイルを適当に開き、パラパラと何枚かめくって、だけど興味なさそうに八雲さんはそれを机に放り投げる。そして壁に立てかけられてたパイプ椅子を持ってくるといささか乱暴に座って、まだ調べてないファイルの一つを手繰り寄せた。


「いや、僕一人でやりますからいいですよ」

「良いんだよ。お前はさっさと飯でも食ってろや」

「でも仕事で疲れてるのに……」

「時間がねーんだろ? ならお前ひとりで調べるより手の空いた人間も手伝ったほうが良いに決まってんじゃねーか」

「そうそう。しばらく俺らに任せて鏡ちんは飯食っときなって」


 そう言って佳人さんも僕の隣に座る。はす向かいでは唯ちゃんも黙ってファイルを手元に取り寄せていた。唯ちゃんは別として、普段から元気そうな二人だけど、服を見れば所々に切られた跡や血の跡が付いてる。唯ちゃんもどこか疲れてるみたいだ。まぶたが幾分下がって眠たげな雰囲気を醸し出してる。きっと今日も戦闘があって、それなりに苛烈だったんだと想像がつく。にもかかわらず差し入れだけじゃなくて、こうして僕のワガママに付き合ってくれる。だから僕は黙って頭を下げた。

 こういう時、僕は実感してしまう。僕は多くの人に支えられているのだと、数えきれない程の人に助けられて生きてきたのだと。僕みたいな人間に、とありがたくて、嬉しくて、感謝の気持ちをどれだけ伝えても伝えきれない。

 なのに、同時に卑屈な気持ちが胸を駆け巡る。一人で生きてきたなんて考えはこれまで微塵も抱いたことはない。逆に、一人で僕は何もできないのだと、自分がひどく未熟で、無力で、非力な何の力も持たない人間なんだと自覚させられてしまう。誰かの役に立っているのか、その確証が得られなくて、自信も持てずに情け無さでいっぱいだ。

 でも。

 今は誰かを助けられるかもしれない。具体的には水城さんを。僕が頑張ることで彼女を救えるかもしれない。誰かの助けを借りても全然構わない。彼女を好きで、彼女を助けたい気持ちは、偽りだらけの自分の本当の気持ちだと今は思う。例えその考えこそがまやかしなのだとしても、僕はそれに従う。そのエゴを通すためなら矮小な自分の卑屈な感情など邪魔でしか無い。だから今はその感情を内にしまい込む。そして一秒でも早く調査を再開するべく弁当を胃にかきこみ始めた。


「しっかしだな」


 八雲さんの、つぶやきと言うには大きすぎる声に僕は顔を上げた。モチロン箸は止めずに。


「このファイルの量はどうにかなんねーのか? こんなん全部調べてたら時間と人手がいくら有っても足りねーよ」

「確かにそうっスね。もうちょっと範囲が絞れれば良いんですけど」

「ですけど、どこにどんな情報が載ってるか分からないですし……」

「まったく、少しは頭使えっつーの。焦ってとにかく手を動かしてーのは分かるけどよ、人間頭使うことやめちまったら終わりだぜ?」


 そう言われると返す言葉が無い。分かってはいるけれど、どうにも今の僕は頭が回らない。回らないわけではないんだけど、考え始めるとすぐに思考が脇に逸れていってしまう。今は何も考えずに手を動かしていたかった。


「鏡ちんよ、悠の親が死んだっつーのは十年前で確かなんだよな?」

「正しくは十数年前、ですね。正確な時期は分かりませんけど、もし記録が残ってるならここにあるファイルのどこかにあるはずです」

「どこか、ねぇ……」


 ため息混じりに佳人さんがつぶやいた。膨大な量には僕も最初ため息が出たから気持ちは分かる。

 でも八雲さんはボリボリと頭をかきながら視線を宙にさまよわせて何かを考えてた。

「つーことは、悠は十歳未満か。んで、お前が雨の公園であった悠はまるで別人みたいだった、と、確かンな事を言ってたな?」

「そう…ですね。別人と言い切ってもいいかもしれません。その、僕は他に見たこと無いんではっきりとは言えないんですけど、二重人格か何か、それに類するものだと思います。確か、あの時の言い方だと自分の事のはずなのに、明らかに他人事みたいな口ぶりでした」

「何て言ってたんだ?」

「えっと……一人なのに誰かと話してるみたいな話し方をしててその後に、彼女が会いに行くから待ってろ、みたいな事を言ってたと思います。ちょっと記憶が曖昧ですけど」

「断言はできねーかなぁ……まあいいや。とりあえず悠が二重人格だと仮定する。

 で、だ。鏡ちん。そういう二重人格、解離性同一性障害が発症する原因として一番に挙げられるのが何か知ってっか?」

「親からの虐待、ですか?」

「よく聞く話っスよね?」

「それが正しいんかは知らんけどな。まあ一般的にはそう言われてる」

「悠のヤツもソレなんスか?」

「という事はそういう事件とかを中心に探していけば……」


 水城さんに関する何かが分かるかもしれない。そう思った途端に心臓が跳ねるのを感じて、箸を置いてすぐにファイルに手を伸ばす。だけど八雲さんは苦笑いを浮かべるだけだ。


「まーそう慌てんなって。そんだけじゃ見落とすかもしんねーよ。二重人格と親の死は無関係かもしれんし」

「他には何かヒントになりそうなモンは無いッスかね?」

「確か、公園の時は悠が斬りつけると何故か相手が動けなくなってたんだよな?」

「はい、少なくとも右腕が切られたら右腕が動かなくなってました。それが何か関係あるんですか?」

「もしも、だぜ? 切られたらその場所の機能が停止する。裏悠の能力がそれだとしたら?」

「裏悠って……」


 なんスか、その呼び方は。もう少し捻りましょうよ、と佳人さんが言って、僕もなんだかなー、とは思うけど八雲さんはそれをガン無視して話を続けた。


「普段の悠の力は死を消すこと。んで裏悠は人を簡単に殺してるところから、性格的に悠とは真逆な感じがする。その前提で考えっと能力もその反対で、となると死を創るっつー事になる。俺らの力の源は願望や経験に強く依存してるのは知ってんよな? 悠は誰か、それも親しい誰かが死ぬのを目撃した。と同時に、その原因に強い殺意を抱いた。それが裏悠の力に繋がってると。

 つまり悠はその犯人を、もしくは現場を目撃したんじゃねーかと推測できるわけだ。

 ん? どうしたよ、二人ともヨォ。そんな鳩が豆鉄砲食ったような顔しやがって」

「いえ、なんでも……」

「班長は頭使うキャラじゃないっスから驚いただけですよ」


 あ、言っちゃった。


「ほぉ……」


 八雲さんの眼が細く釣り上がって行く。元々細い目だけど、更に細くなって佳人さんを見下すようにうっすらと笑みを浮かべてる。


「つまりはテメーは俺をそんな眼で見てたわけだな、佳人。頭が脳筋の肉体言語でしか語り合えない言葉が不自由な暴力人間だと」

「え、いや、そこまでは……」

「いいぜ、佳人。そこまで言ってくれるならちーっとばかし隣でお話しようぜ? もちろんお前は人間らしく言葉でお話、俺はゴリラよろしく肉体言語で返事をしてやっからな?」

「ち、ちょちょっと待ってください! ね、班長? ほら、今は時間ないっスから。悠を探さないといけないッスから、ね?」


 佳人さんの後ろ襟をむんず、とつかんで八雲さんはどっかに行こうとしてたけど、必死の懇願の言葉に動きを止めると僕の方を見てチッと心底残念そうに舌打ちをして佳人さんを解放した。ホッと安心のため息を吐く佳人さん。八雲さんは舌打ちを絶え間なく連発してて、アロハもその筋の人が着てるみたいでそこはかとなく怖い空気を醸し出してるけど、それは見なかった事にして飯をかき込む。


「ともかく、殺人や虐待に関する事件を中心に探していけばいいってことですね?」

「全部片っ端から見てくよりは時間を節約できるだろ。心配なのは分かるがちっとはお前も頭使えや」

「心に留めておきます」


 目の前にあった弁当の空き箱を適当に端によけて、僕はまた紙をめくり始める。同じ作業だけど、方向が定まった以上気分はかなり楽で、調べるペースも格段に違ってそれがまた僕の手を動かす原動力になる。

 八雲さんと佳人さんも黙って作業を続ける。四人ともページをめくるだけで他に何の動きも無い。時折ため息混じりの吐息が空気を震わせて、頭を掻いたり髪を掻き上げる仕草が視界に入るだけだ。


「なあ鏡ちん、一つ質問してもいいか?」


 そうして一時間も経っただろうか、不意に佳人さんが顔を上げて話しかけてきた。久々の声に八雲さんも手を止めて佳人さんの方を見る。


「鏡ちんはさぁ、悠のどこに惚れたんだ?」

「また唐突な質問ですね……」


 手は止めずに、視線も文章を追いながら僕は考える。

 何が他の女の人と違うのだろう。確かに水城さんは個性的な人ではあるし、何が違うかといえば全部が違うとは言えると思うし、そこが惹かれる所と言えるかもしれない。それに顔も確かに悪くない。十分可愛い部類だし、好みのタイプと言っても良い。

 だけども、それが僕が彼女を好きになった理由と言えるんだろうか。眼を少しだけ閉じて考えてみるけど、それは何か違う気がする。


「俺らはさぁ、言ってみりゃ世間のはみ出しもんなワケじゃん? そりゃそうだよな? こんな人間離れした、欲しくもねえ力持たされて親や兄弟、恋人とマトモに生活なんてできるはずがねぇ」

「……そんな事無いと思いますよ? 実際結婚してる人だってS.T.E.A.Rにいるじゃないですか」

「そりゃ例外。相手だってココの人間だよ、みんな。それだって非戦闘員とか非能力者だ。俺らみたいな人間は誰一人として恋人とかいねえし。つか、作る気が無いんだよ」

「どうしてか理由を聞いてもいいですか?」

「理由か……理由なんて人それぞれだろうけどさ、俺はそもそもそういう感情が無いんだと思ってる。人間に対して興味が無いんだよ」

「そんな事は無いでしょう。実際にこうやって僕らは会話してるじゃないですか」

「んーとなぁ……何て言えばいいんだろうな。確かに俺らは普通に会話もするし、当然誰かが傷つきゃ悲しいしそういった感情はあるぜ? だけどよ、それだけなんだわ。

 悠の事、誰も詳しく知らなかっただろ? みんな表面的な繋がりしか持とうとしねーし自分も相手に知ってもらおうという気がねえんだよ。悠だけじゃねえ、聞いたわけじゃねえからみんなそうかは知らねーけど、俺はココの人間の名前と表面的な性格しか知らねぇしそれ以上知りたいとも思わねえな」


 僕は手を止めて佳人さんを見た。佳人さんはすでに僕の方を見てはなく、話しながらも視線と手を動かせて作業を続けてて、八雲さんも唯ちゃんも聞いてるのか聞いてないのかよく分からない。


「それに、いつ死ぬか分かんねぇ仕事だしな。昼間話した同僚が夜には棺桶の中、なんて事も特別珍しくは無えし。恨まれる仕事でもあるし、一般人と下手に関係を持って巻き込みたくない、なんて理由もあるのかもしんねぇな」

「元々人間なんてものは基本他人に無関心なんだよ」


 八雲さんがつぶやくように言葉を漏らす。


「歳を取ると誰だって周囲に対して興味が薄れていくもんだ。ガキの頃を思い出してみろよ? 眼に入る物全てが珍しくて、誰かと遊ぶのが楽しかったりしなかったか? 本音も建前もねぇ、嘘なんてモンはこの世には存在しなくて純粋な気持ちで毎日を楽しめてただろ? それが世界に溢れてる欺瞞なんてもんに混ぜ込まれて、自分なんて本来気にしなくてもいいはずのモンを必死こいて守るようになって、終いにゃ自分にしか興味を示さなくて、周囲なんてどうでもよくなっちまった。俺らはただそれが早くて極端なだけだって、俺はそう思うぜ」

「それだけじゃないと思いますけど……」


 でも、それも真理ではあるのかもしれない。捉え方によっては人間の行動は全てエゴから生まれ、自分が気持ちよくありたいからそうするものだ。他人に優しくするのも、他人を傷つけるのも、ただエネルギーが向かう方向が違うだけで根っこにあるものはたった一つの単純なものなのかもしれない。


「ま、そういう小難しい話は置いといて、だ。俺らの周りには浮いた話の一つも出てこねぇからさ、鏡ちんの気持ちが気になったってワケなんだよ」

「どこに惚れた、ですか……難しいですね。よく聞く話ではありますけどね、この手の質問は」


 どんな美人でも嫌われる事もあり、どんな不細工でも好かれる事もある。性格が良くても悪くても、男らしさや女性らしさ、何かに向かって突き進む意志の強さや努力に魅力を感じるなんて話もありふれたものだ。だけど、僕の場合はどうなんだろう?


「理由なんて無いですよ、きっと」


 理由はいくらでも挙げることができると思う。その理由は本当かもしれないし、単なる思い込みかもしれない。でもそんな理由を挙げる事に何の意味があるだろう。

 気がつけば彼女を好きだった。いつの間にか彼女と一緒に生きていたいと思った。他の人はどうか知らないけれど、きっと僕にはその答えだけで十分なんだ。


「意外とロマンチストなんだな、鏡ちんは」


 佳人さんが僕を見ておかしそうに笑う。


「そうですか?」

「そうだぜ」


 自分では現実主義で、ペシミストで、ロマンなんて欠片も無いと思ってはいる。夢なんて抱いても所詮いつかは裏切られるもので、努力なんてきっと成就しない。冷めてて面白みの無い人間だと思う。けど、佳人さんがそういうならきっとそうなんだろう。だからこそ今、僕はこうして必死に女の人を追いかけてる。彼女を離したくないと思ってる。なら、それで生きていたいと思えるのならそれも悪くない。


「そうかもしれませんね」


 だから僕は笑ってうなずいた。



 -ニ-



「んじゃ、俺らは帰るわ」


 夜も完全に明けて昼もだいぶ近くなった。けれど窓の無いこの部屋だとそんな事を知る手段なんて時計を見る以外に無くて、そして最後に時計を見たのは何時だっただろうか、と思いながら何度目か分からない眠気に襲われ始めた時、そう言って佳人さんが立ち上がる。唯ちゃんはいつの間にかスヤスヤと穏やかな寝息を立ててて、佳人さんが立ち上がりながら彼女の肩を叩いて起こす。八雲さんも首をコキコキと鳴らしながら背伸びを一度して、机の上に散らばった缶コーヒーを持った。


「適当に休憩は取っとけよ。眠りながらやって肝心なところ見逃してもしらんからな。後はお前でさっさと終わらせとけよ」


 眠気のせいでイマイチ言ったことが頭に入ってこなくて、いつもよりワンテンポどころかツーテンポ、スリーテンポ遅れて理解した。ここのところ完全に缶詰だったから感覚が鈍ってたけど、本来なら三人とも寝てるはずの時間だ。うまく開かないまぶたを擦り、少し強めに頬を叩いて眼を覚まし、僕は三人にお礼を言った。


「ありがとうございました。おかげでだいぶ進みました」

「良いって事よ。早いとこ悠を連れて戻って来いよ。つか今日中に連れて帰ってこい。あんなヤツでもいねーとそれなりに負担が増えんだよ」


 肩掛けのかばんを持つと、佳人さんは未だにハッキリと眼を覚まさない唯ちゃんを背負った。唯ちゃんは佳人さんの背中で眠たげに眼を擦りながら僕に向かって手を振って、佳人さんは後ろ手に軽く手を上げて部屋を出ていき、八雲さんもアクビをしながら後に続いた。

 一人残されて僕は軽くため息をつく。そして眠気覚ましにストレッチ。座りっぱなしだったせいで節々がきしむ。きしんだ音がはっきりと耳に届くくらいに狭い部屋は静かだった。狭い部屋のせいか、急に一人になると何だか物寂しい。机の上に乱雑に散らばったファイルの山がまたその感覚を加速させてくれる。

 二人のおかげで本当にかなり進んだ。たぶんこの二日間よりも今晩の方がペースは早かったと思う。だけれどまだまだ山は高い。こうして見てると、本当にこの中に手掛かりがあるんだろうか、と今更ながらに不安になってくるから困る。信じてやるしかないというのに。

 パソコンの横に置かれた缶コーヒーを握りしめる。冷たかったはずのそれはもうすっかり冷めてしまって、缶の周りにへばりついていた雫さえ完全に蒸発してひどく生温い。

 一度大きく息を吸い込んで吐き出す。妙に苦いコーヒーを、不安と一緒に一息で飲み干してしまう。


「さて、んじゃまた始めますか」


 誰に聞かせるともなく僕はそう、自分に言い聞かせる様につぶやいて次のファイルを開く。パラパラパラ、とめくってさっきまで開いてたページをまた開いて再度確認。頭の方に書かれてた項目だけを見てみるとタイトルは単なる窃盗事件だった。

 関係無しと判断して数枚めくって次の事件に。


「お?」


 同じ様にタイトルだけを見て、僕はページをめくる手を止めた。


「大無路市における一家強盗傷害殺人事件における捜査資料」と銘打たれた資料。一つ前の窃盗事件と違ってかなりの枚数があり、読み応えがありそうなのが厚みを見ただけで分かる。僕はそれを頭から、多くの期待と一握りの諦めを胸に抱きつつ読み進めた。

 事件は夕暮れに起きていた。事の起こりは近所の住人からの通報で、曰く、買い物帰り道を歩いていると隣の家の子供を見かけ、挨拶をした。その子供の首元には大きなアザができていて、どうしたのか聞くと子供は何でも無い、と答えてそのまま自分の家に入ってしまった。その家は以前から子供を虐待してる噂があり、心配になった住人が警察に相談。ここまではニュースでも良く聞く話だ。

 警察は近くの交番の巡査を一人派遣し、様子を伺わせたがその巡査から連絡も無く交番への帰着も無し。改めて別の巡査が訪問したが、というものだった。

 八雲さんが推測した通りの内容に、僕は見逃しが無いよう一字一字を慎重に追っていく。久々の期待できる事件で、心が早く読み進めろと急かす。逸る気持ちをできるだけ押さえつつも、読み進める目の動きと確認するようにつぶやく口の動きは止まらない。


「巡査が訪問するが反応は無く、不審に思った巡査が住居に侵入したところ寝室で頭を拳銃で撃ち抜かれ、全身を著しく損傷した住人の久水夫婦を発見。ただちに病院に運ばれたが死亡が確認された。また、別室にて同様に傷だらけの女の子を発見」


 全身に擦過傷があり、また切り刻まれた服の下からは打撲痕が多数。性的虐待を受けていた可能性も有り。眼を覚ました本人から名前が語られて事件のあった久水夫妻の実娘である事が判明。


――名前は久水、悠。


 見つけた。

 心臓が一度大きく跳ねた。

 これだけじゃまだ水城さん本人だなんて確証は無い。無いのだけれど、その被害者の女の子が水城さんだと根拠の無い、だけど確信に近いものを感じた。

 一気に文章を読み飛ばす。動く手が止まらない。左右に動く眼の動きが落ち着かない。何か現在の彼女に繋がる情報は無いか、事件の詳細なんかは適当に読み流してページを次々とめくっていく。急げ、急げと何かが僕を焦らせる。

 添付された現場の写真。水城さんである確証が欲しくて、彼女の写真か何かが無いかと探したけれど見つからない。最後まで達してとまた頭から読み返す。


「住所は…あった」


 最初に読み飛ばしていた住所を携帯にメモる。そこに行けば何か手掛かりが見つかるかもしれない。もしかしたら、彼女が最近行ったかもしれない。近所の人が目撃してるかもしれないし、そこから足取りがつかめるかもしれない。

「かもしれない」ばかりの穴だらけで願望にまみれた推測。可能性は低い。でも行ってみる価値はある。

 頭の中でスケジュールを組み立てながら他には無いか、目を皿にして文章を読む。そして見つけた、住所のすぐそばに書かれた事件の日付。


「事件は七月……ちょうど今頃……」


 そんな感想が口をついて出てきて、ぼんやりとした光景が浮かんでくる。

 僕は何気無く携帯画面の上に表示された日付を見た。今日は何日だったか、失いかけている時間感覚と曜日感覚を呼び起こし、ディスプレイに映し出された英語並びの日付表示。並びは変われども、日本語表記と何ら変りない今日この日。戦慄に似た何かが背中を走る。変な想像が僕の中でムクムクと音を立てて存在感を示し始めた。

 落ち着かない。僕は手を握り締め、開き、また握り締め、と何度も同じ動作を繰り返す。蒸し暑い部屋の中で乾いてしまった唇を舌で湿らせ、どこともない宙を映らない視線で映し出す。 

 足元に置かれたカバンをギュッとつかむ。十秒くらい逡巡しただろうか。僕はパソコンもファイルもそのままにして、カバンだけを乱暴につかんで走りだした。ドアも開けっ放しに、無人に近い事務所を飛び出して階段を駆け上る。

 事件の起こった日は七月七日。十二年前の今日だった。



 -三-



 陽が沈む。

 真っ赤な太陽が山の奥に半分ほど体を隠し、温もりと眩しさが徐々に消えていく。代わりに夜の闇が次第に存在を顕わにして空を半分に分ける。

 彼女は夜が嫌いだった。嫌いで嫌いで嫌いで、それでいて大好きだった。昼と夜が交差する空を眺めながら、彼女はそんな矛盾した考えを持っていた昔を思い出していた。そしてそれは今でも変わってない。

 夜が嫌いだったのは何も見えなくなってしまうから。夜の暗闇が全てを覆い隠してしまって、お父さんもお母さんも優しい笑顔を失ってしまうから。アタシという存在を消して、ただの無力な子供に仕立て上げてしまう。そしてただ殴られるだけになる。だから夜が嫌いだった。

 夜が好きだったのは、夜しかお父さんとお母さんに会えなかったから。夜しか優しい笑顔を見られなかった。

 ちょっとしか見せてくれなかったけど。

 そして夜には月があったから好きだった。真っ暗な中にポッカリと浮かぶきれいなきれいなお月様。その淡い光の中で見上げていると自分は一人で、だけど自分はまだここにいるんだと感じる事ができた。だから夜が好きだった。

 当時はそんな事を考えていた訳ではなかった。でも成長した今、考えてみるとそういう事だったんだろうと、十二年前と同じ様な満月を見ながら彼女は思った。

 まだ夜は浅い。けれども、もう間もなく暗くなって、彼女も闇の中に溶けこんでいく。そして満月は輝き始めるだろう。

 ギィ、と錆びて朽ち果てた門扉が悲しげに鳴る。その先にあるのは広い家だ。いくら土地の安い田舎でもこの敷地の広さを見れば、自分の実家がいかに裕福だったかが良く彼女には理解できた。思えば物置には見るからに値打ちがありそうな骨董品が多くあった。でもその面影はもう無い。あるのはすっかり荒れて草だらけになってしまった、緑々とした雑草が生い茂る庭と、主を失って自然に為されるがままになったオンボロの家だけだ。

 ブーツが草をかき分けて進む。草と靴が擦れる音がして、ゆっくりと歩いてもほんの十数秒で縁側にまで到着してしまう。今思えばさして広くないが、恐らく小さい頃はとても広く感じていたんだろう。そして友達に自慢したかった。自慢できる友達など、彼女にはいなかったが。いささか感傷めいた感情が湧き上がるのを彼女は自覚した。

 足元には薄汚れた靴脱石がある。苔が生えてしまってるが、これも当時はさぞ立派だったんだろう。だが今はただの汚れた石だ。時が価値を奪い去っていった。それに足を掛け、靴を脱がないまま彼女は家に上がった。

 外から見ていた以上に中はひどい有様だった。記憶の中にある家は畳も障子もふすまも綺麗で、縁側の廊下では走りまわって遊んでいた。かすかに残る彼女の記憶が一瞬だけ彼女の網膜にかつての景色を貼り付ける。だが今は畳は変色して腐り、障子もふすまも破れ放題。廊下の板も一部腐って今にも床が抜けてしまいそう。この部屋には確かテレビがあったはずだが、と思って見渡すが、何も無い。床の間にあった、日本家屋に相応しくない両刃の西洋剣はこの家を離れる時に回収したが、必要な物以外は全て放置していたから、恐らくは誰かが勝手に持っていったか。

 十二年は、長いな。京間で十五畳ほどある部屋を見て、彼女はそう思った。

 隣との仕切りふすまを開ける。手入れも何もしてないのですっかり歪んでしまった敷居の抵抗が激しい。彼女はそれを力尽くでねじ伏せる。バン、と威勢の良い音が無言の家に響いた。


「久々の実家はどうだい?」


 背後から彼女に問い掛ける声がした。声の方を見遣れば、縁側と部屋を隔てる障子を背に場違いな真っ赤なソファが置かれており、そこに男が座っていた。とてもボロボロで、男がどこからか持ってきたのか、それともゴミ捨て場にこの家が化しているのか。


「ずいぶんと狭く、小さくなった」

「だろうね。君はあの時、まだ小さかった。このくらいだったかな?」


 そう言って、男は手を座っている自分の目の高さ辺りに持ってくる。優しげな声に家の持ち主である彼女よりも懐かしげな響きを乗せると、正面に向けていた顔をゆっくりと彼女に向けた。そして笑う。


「うん、綺麗で立派になった。僕も嬉しいよ」

「親父とおふくろ殺しといてよく言うよな、二影。おまけに八歳の悠を犯しといて」


 睨みながら悠は男――二影に軽く毒づくと、二影は、参ったなぁ、と言いながら頬を掻いた。


「言い訳をさせてもらえば、あの時はどうしようも無かったんだよ。力が目覚めたてで、自分自身を何もコントロールできなかったんだ。今の君なら理解できるだろう?」

「だから許せ、と?」

「理解はしてほしいかな? 聞けば君は今、僕らみたいなヤツを専門にしてる警察機関に属してると言うじゃないか。ならば目覚めたての能力者がどうなるかだって数多く見たんじゃないかい?」

「元、だ。もう戻る気は無い。戻れるとも思ってないけどな」

「だとしても僕たちの有様は知ってるはずだよ。僕らの苦しみを知ってる人に理解して欲しいと思うことはおかしいことかな?」

「理解なんてモンはオレの領域じゃない。それは悠の領分だ。語る相手を間違えてるよ」

「そうかい? だったら君じゃなくて悠ちゃんに語りかけるとしようか」


 軽くため息をつくと二影はソファの後ろへと手を伸ばした。何が出てくるか、と悠――ユウは腰から短剣を取り出して構える。油断はしない。そもそもできる相手では無い。向こうは自分よりもずっと強者なのだから。

 腰をスッと落として脚に力を込める。だが、二影が取り出したものを見た途端にユウは自分が引っ張られる感覚に襲われた。口から発せられるのはそれまでよりもやや高い声。


「鏡クン!?」


 悠は自分の眼を疑った。なぜ、ここに鏡がいるのか。なぜ、今、二影の手の中にいるのか。なぜ、傷だらけなのか。なぜ、為されるがままなのか。なぜ、生きているのか。なぜ、なぜ、なぜ、なぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜ――


「そうか、この子は鏡君と言うのか。いやなに、ここに来たらたまたま彼がココにいてね、向こうもたまたま見つけた僕に君の事を必死な様子で聞いてくるんだ。君の彼氏かい? 愛されてるね」

「鏡クンを離せ……」

「だとしたら少し羨ましいなぁ、うん、羨ましいよ。実に実に羨ましい。彼は君の事をどこまで知ってるのかな? もしかして彼も能力者かい? だったら当然君の能力の事を知ってて、その上で君を愛しているんだね」

「鏡クンを離せ……」

「愛は理解に繋がる。苦しみは解消されなくても、誰かが理解してくれている、ただそれだけで楽になれる。根本的な問題は一切解決されていないにもかかわらず、悩みから解放されたなんて幻想に浸ることができるんだよ。実に羨ましくてたまらないな。そんな人が残念ながら僕にはいなくてね、ずっと寂しい思いをしてたんだ。まったく、神様というのはひどいものだよ。どうせなら僕も狂わせてくれればよかったのにさ、マトモな僕と狂った僕が交互に出てくるんだ。だからどこ行っても狂人扱いだよ。どれだけ僕が大人しく慎まやかに暮らそうと思っても、もう一人の僕がそれを許してくれないんだから。ま、それもしょうがないかな。誰も殺人狂の理解なんてしたくないだろうし、そばにいたくもないだろうしね。僕でさえ今の僕を理解したくないんだから。

 本当は君を手に入れたかったんだけど、うん、そばにいてくれるのは、この子でもいいかもね。君という人間を理解できたのなら僕という人間も理解してくれるかもしれない。殺人者だろうが狂人だろうが彼は理解してくれるかもね。理由はないけど何となくそう思うんだ。ああ、もちろん愛は別に要らないよ。だからそれは君にあげるさ。僕に男色のケは無いからね」

「鏡クンを離せぇぇぇっっ!!」


 叫びながら悠は溜め込んだ力を解放して二影へと飛び掛かる。もういい。これ以上無駄な口上なんて聞きたくなんて無い。鏡があの男の手の中にある。その事実が我慢ならない。

 鏡クンはアタシの物だ。課長のものでも目の前の男のものでもない。鏡クンを独り占めできるのはアタシだけ。他の誰にも渡さない。他の誰にも傷つけさせない。鏡クンを傷つけていいのは、アタシだけ。

 一足で十分届く距離。一太刀で相手を切り裂く、それだけの行為。相手が例え自分より強かろうが構わない。たった一瞬だけ自分が相手より強くなればいい。そうすれば鏡クンは自分の元に戻ってくるはずだ。殺そうとしたことなんて関係がない。鏡クンがアタシの力でも死ねないのならアタシも一緒に生きるだけ。

 生きて生きて生きる。

 力が脚にこもるとともに思考も加速する。なのに、悠の脚が畳を実際に蹴ることは無かった。


「……っ!!」


 悠は強く歯噛みした。ユウの影響か、それとも課長や八雲の影響か、小さく舌打ちが漏れる。そして憎々しげに二影の顔を睨みつけた。


「いいねぇ、その顔、その表情。僕が一番大好きな顔だよ、困った顔というのは」


 手の中にある小さなナイフを鏡の喉元に突きつけながら二影は笑った。


「君のその顔を見れただけで彼を生かしておいた価値があったね。ああ、満足だ、満足だよ。素晴らしいね、やはり。昔から僕は人が困った顔をしてるのが好きだったんだ。好きで好きでたまらなくてね、だから僕は警察官になったんだ。もっとも、その事に気づいたのは自分が狂ってからなんだけどね。あ、でもあまり気にしなくても大丈夫だよ。彼をこれ以上傷つける気は今のところ無いからね。困った顔はたまに見るから良いんだよ。もっとも、気は変わるかもしれないけど」


 パチン、と音を立ててナイフの刃が柄の部分に納まる。どのくらい長く着ているのか、ボロボロになったロングコートのポケットにそれを仕舞うと、ソファに置かれていた日本刀をつかんで右手に持っていた鏡の体を部屋の外へ放り投げた。

 障子を壊しながら鏡が部屋から消えていく。派手な音を立てて鏡の体が転がり、ホコリが舞い上がる。その様に悠はもう一度歯ぎしりし、短剣を強く握りしめる。


「さて、これでとりあえず邪魔になるモノは無くなった。待たせたね。本当に申し訳ない。

 じゃあ――始めようか」


 わずかに低くなった二影の声が悠の耳に届く。瞬きを一度。閉じて開いた目の前には、すでに彼の姿があった。


「つっ!」


 斬撃が一閃。夜の空に浮かぶ満月の光が反射して白い閃光が横薙ぎに走る。それをとっさにユウは、短剣を盾にすることでかろうじて防ぐ。


「入れ替わったのかい?」

「よく分かったな」


 盾にした右手の短剣をそのままにユウは左手にもう一本の剣を握って二影に振り下ろす。二影はそれを一歩後ろに飛び退くことで避けた。


「雰囲気が違うからね。さっきの彼女も中々に恐ろしかったけど、戦闘という行為においては彼女は向かないだろうし」

「だから代わりにオレがいる。親をお前に殺されたあの時、オレは生まれた。お前を殺すために」

「そうこなくっちゃ」


 後退した二影を追ってユウが駆ける。身を低くし、逆手のまま下から切り上げる。二影の着ている真冬用のコートをかすめ、その下の太くは無い腕が顔をのぞかせる。


「しっかし僕がきっかけで君が生まれたのか。なら僕は君の生みの親と言えるわけだね」

「ゾッとするな。貴様がオレの親だとは思いたくもない」

「つれないなぁ」


 続いて迫ったユウの二撃目を、今度は二影が刀を盾に防ぐ。そのまま反転してユウの腹を蹴り上げる。


「ぐっ!」


 蹴りを受ける直前に自ら後ろに飛んで衝撃を減らす。大きく飛ばされて、ふすまを破り倒しながら最初の部屋へ。一回転して両脚で着地し、畳の上を滑りながらも体勢を立て直す。

 二影が左手をかざす。だらりと手首から先が垂れ、脱力した状態で軽く握りこまれてる。

 ザワ、とユウの前髪が揺れた。首筋がうずく。自身の直感に任せてそこから横へ大きく身を投げ出した。退避が遅れた右腕のシャツが切り刻まれ、いくつもの傷が生まれて柔肌から血が流れ出す。

 だがユウは顔色一つ変えずに右手の短剣を二影目がけて投擲した。キィン、と金属同士がぶつかり合い、投げられた短剣が宙を舞う。剣を投げると同時に床を蹴ったユウは二影と再度間近で対峙した。


「風の能力か、さっきのは」

「そう。殺傷力はあまり無いけどね、応用が効くし中々便利な力で気に入ってるんだ」


 その言葉に反応したように、涼し気な風が部屋に吹き込んでユウの黒髪が揺れる。剣と刀が小擦れ合い耳障りな音を立て、二人はつばぜり合った。


「ご両親が殺されたのがそんなにも悲しかったのかい?」

「そんなの当たり前だろ。少なくとも悠は悲しかった。親を殺したお前が憎かった。オレがこうしてお前と戦ってるのがその証拠だ」

「どうして? 君はあのクソッタレなご両親に日常的に暴行を受けてた。毎日毎日、だ。どこかしらに必ずアザを作って登校してた君を僕は交番から見ていたよ。君も親が憎かったんじゃないのかい? そんなダメな親を殺してあげた僕を憎んで、親の方を悼む理由がどこにあるのか、僕にはよく分からないな」

「誰を憎み誰を悼むか。それを決めるのはお前じゃない」


 つばぜり合いの状態からユウはスッと力を抜いて半身を捻り、刀を受け流す。二影のバランスがわずかに崩れ、だがその隙を逃さずユウは回し蹴りを二影に浴びせた。

 固いブーツの底に当る鉄板の様な感触。それを二影に比べて小柄なユウだが、体格の差を物ともせずに庭に向かって蹴り飛ばした。二影は顔をわずかに歪め、しかし空中で一回転して庭へと着地する。


「悠は好きだったんだ。自分の親が、例え彼女にひどい事をしてたとしても」

「歪んだ幸福感だね、それは。だけどそんなものは成長するに従って、倍加された不幸になるんだ」

「幸せを欲したのは悠であって、彼女がどんな扱いを受けようとも不幸かどうかを決めるのは彼女自身だ。お前にそんな権利は無い」


 顔を上げた二影に迫るユウ。高く飛び上がり、夜風を切り裂いて二影に短剣を突き出した。二影は刀の腹でそれを受け流し、脚をユウの頭を目がけて振り抜く。それをユウはしゃがんでかわし、二影の軸足を払い除けて剣を振るった。

 体勢を崩す二影。ユウの剣が二影の左腕へと伸びていく。

 飛び散る血液。左手の掌を犠牲にして二影はユウの剣筋を逸らし、そして左掌の感覚を永久に失った。更にユウは畳み掛け、横薙ぎのまま体を回転させて残ったもう一本の短剣を引き抜いて二影に斬りつけた。

 獲った。ユウは確信した。胴体には達せずとも左腕は今度こそもっていく。そうすれば戦況は一気にこちらへと傾く。

 だが刃が二影の腕に達する瞬間、刃と腕との間に現れた何かが傷つけるのを阻んだ。

 固く、くすんだ色の盾。それが二影の腕に巻きつくように現れ、ユウの剣を押し止めていた。 

 ユウは上半身を逸らした。これまでよりも一際鋭い剣筋がユウの目の前を横切る。シャツが斜めに切られ、一本の筋がへそから横腹にかけて伸び、ジワリと血がにじむ。深い傷にならなかったのは単に幸運だったから。もう一歩深くまで踏み出していたら内蔵まで達していたかもしれない。額ににじんだ冷や汗が命じるままに大きく後ろへ飛び退き、ユウは二影から距離を置いた。


「掌の感覚が無いな。この十年、好き勝手に生きてきたけど初めてだ。これが君の能力かい?」

「そういうお前は二重能力者かよ。随分な能力だな」

「元々僕は弱っちいからね。こうでもしないと生き残れなかったからさ。言わば必然だよ」


 どこが弱いんだか。口の中で嘲りにもならない言葉を吐き捨て、ユウは呼吸を整える。風で刻まれた右腕の切り傷は浅い。もうすぐにも血は止まるだろう。

 両腕の短剣を握り込み、ユウは男の言葉を待った。


「さあ、もう一度殺し合おうか?」





 二影と初めて会ったのはいつだっただろうか。対峙しながら悠は考える。

 先程から体の行使権はユウに譲っている。だから体を動かすことは――強引に権利を奪わなければ――ままならない。それでもユウが捉えている視界は共有できるから、ユウが見ている光景は悠が見ている光景でもある。

 剣を構えてこちらを見る二影の顔は、十年以上前に初めて彼を見た時とそう変わりは無かった。ずいぶんと時間は経ったはずなのに、その優しそうな顔に彼を許してしまいそうになる。視線は鋭くて、ユウを冷たく射抜いている。けれど、その奥から優しげな色が見え隠れしている。とても何十人も殺した、指名手配されている凶悪な殺人者には見えない。たとえ、目の前で親が殺された今でも、その事実を忘れてしまいそうになる。

 その瞳を見ながら、二影から声を掛けられたのは確か小学校からの帰り道だった、と悠は思いだした。いつも通る通学路にある交番で、制服を着こなしたカッコイイお巡りさん、というのが第一印象で、時々耳にする近所のおばさんたちの評判も「真面目な好青年」といった感じだったように記憶している。


「友達と喧嘩でもしたのかい?」


 突然の第一声はそんな言葉だった。もちろん悠に友達と喧嘩なんてした記憶は無い。学校は特別楽しくも無かったが、誰かにいじめられるような事も無かったし、友達とぶつかる程に自己主張も強くなかったから、そんな問いかけに悠は戸惑ったように二影を見上げた。


「だって、首筋にアザができてるよ?」


 そう言って二影は自分の首を指さした。それでも不思議そうに首を傾げる悠に、二影は苦笑いを浮かべると一度交番の奥へと引っ込み、そしてどこからか手鏡を持ってきて悠に手渡した。それを使って指さされた場所を見てみると、確かに青アザができていた。

 そのアザに悠は心当たりはあったが、二影には何も言わなかった。なぜなら、原因を言えば周りの人がどのように思うかは、幼心にも理解していたから。

 無言で首を横に振る悠。二影はそれ以上に追求はしてこなかったが、交番の中に悠を招き入れると、救急箱の中から湿布薬を取り出して不器用な手つきで適当な大きさに切り、それをそっとアザのところに貼りつけた。

 湿布薬特有の臭いが漂って悠は少し顔をしかめたが、そのヒンヤリとした心地よさに小さくため息をついた。


「もう友達と喧嘩しちゃダメだよ」


 どうやらさっき首を振ったのを喧嘩をごまかしたのだと誤解したらしく、そんな事を言っていたが悠は黙ってうなずいた。喧嘩は悪いことだし、二影の言葉も間違ってないと思ったから。

 悠と二影の出会いはそんなものだった。

 それ以来、交番の前を悠が通る時に二影が交番内にいれば必ず二影は声を掛けてきた。ニコニコと笑って、歩いて帰る悠を見守る。それでも悠は小さく頭を下げるだけで通りすぎていっていたが、二影は気を悪くした様子も無く手を振って悠の小さな後ろ姿を見送った。

 しかしながら時間が経てば状況も変わる。悠が虐待を受けているらしい、との情報が二影の耳にも入るのにそう時間は掛からなかった。すでに随分前から近所のおばさんたちの間ではその事は有名であったが、悠と接点が無かったから二影の耳にまでは届いておらず、逆に接点を持ち始めたがためだろうか、それとも毎日のように悠のシャツの下からアザらしき痕を見ていたせいだろうか、二影もようやくその事実に気づいた。


「……辛かったらいつでも僕に言っていいからね」


 ある日、交番の中でまた湿布薬を貼りながら二影は悠に向かってそう言った。悠のすぐ眼の前に二影の顔があったがその顔は険しい。涙をこらえてるみたい、と悠は思った。


「別に辛くない」


 悠は真実そう思っていた。親にどれだけぶたれても、傷つけられても辛いとは思ったことは無かった。家庭環境が周囲とは違うとは気づいていたが、だからどうしたというのだろう。自分はお父さんとお母さんが大好きで――もちろん痛いのは嫌だけれど――一緒にいたいと思っている。お父さんもお母さんも自分を愛してくれている、と悠は疑っていなかった。

 けれど二影は悠に湿布を貼り終えると「可哀想に…」と小さくつぶやいた。


「可哀想じゃない」


 抗議の意味を込めて悠は二影を睨みつけた。自分よりもずっと大きい、けれどとても優しい二影にそんな事をしたくはなかったけれど、それでも言わなきゃいけないことは言わないといけない。だから悠は精一杯二影を睨んだ。


「ゴメンゴメン」


 申し訳なさげに二影は笑うと、唇を尖らせる悠の頭を優しく撫でた。その表情はとても優しげで、とても悲しげだった。

 それから数日後だった。

 悠は大好きだった両親を亡くし、二影は姿を消し、そして明確に「ユウ」が生まれた。

 とても暑い夏の日の夜だった。


 自分は二影の事をどう思っているのだろうか、とかつて悠は自問した。

 二影は確かに憎い。憎くて憎くてたまらなかったのは確かだ。大好きな両親を殺され、自身も二影に傷つけられた。まだユウが生まれたての頃は二影を殺してしまいたくて仕方が無かった。けれどもユウが成長していくにつれてその感情は次第にしぼんでいった。おそらく、そういった負の感情はユウの方が持っていってしまったのだろうと思う。実際に無口だった自分は次第に快活になり、言葉も饒舌になっていった。暗かった性格は底抜けに明るく楽天的に。引きこもりがちだった生活も、逆に家の中にいることの方が少なくなった。

 それに伴って疑問の方が強くなる。なぜ、二影は自分の親を殺してしまったのだろう、と。優しかったはずの彼が、警察官という市民を守るべき立場の彼がどうしてあんな凶行に及んでしまったのだろう、と。

 時が経って成長し、自分の中に異常な力が育っていき、そしてS.T.E.A.Rに所属して多くの異常な人物たちを知り、なるほど、二影も同じように力に飲み込まれて理性を失ってしまったのだろう、といった推測はできた。だが納得はできない。推測は所詮推測に過ぎなくて、だからだろうか、二影自身の口からその理由を聞きたいと思った。どうして、優しい貴方が大好きだった両親を殺したの?その問いの答えが聞きたかった。

 だが想いは磨耗する。二影の行方は全くの不明で、表の警察の方でもS.T.E.A.Rでも情報は入ってこない。その間も悠は日々の事件に追われ、それなりに忙しい毎日の中でそんな疑問も消え去っていく。事件直後はあれほど知りたかった理由も、今ではどうでもよかった。記憶の奥底に置き去りにされ、思い出すことさえほとんどなくなっていた。

 なのに。

 あの日、全てを思い出した。

 課長と鏡と佳人と四人で事件の犯人たちの住処を強襲したあの日あの場所で、悠は鮮やかな感情と鮮明な記憶を取り戻した。きっかけは分からない。しかし、あの部屋にあった、ある種の匂いともいえる何かが滔々と悠に向かって語りかけてきた。

 二影がこの部屋にいた。全くの直感で悠は確信した。理屈も理論も何もない。ただ悠はそう思った。彼が近くにいる。一度そう考えると止まらない。当時の記憶と感情が沸々と湧き上がり、焦がれるように喉が渇く。普段は表に出てこないユウが、気を抜けば表にでるようになり、深夜の街を徘徊する。憎しみが、怒りが、疑問が我先にとこみ上げて悠を狂わせる。二影を求めてさまよい探し、同時に彼を殺すために自身を磨く。能力者を見つければ進んで関わり、殺害のための技術を磨き上げる。

 憎しみは消えていなかった。幼かったゆえに処理出来なかった感情が忘却されただけであり、成長して二影の存在を意識した瞬間に蘇ってきた、ただそれだけだった。


――今の私は彼らと同じだ。


 悠は思った。理性を押し潰されて本能のままに事件を起こす能力者と何ら変わりないではないか。感情の赴くままに人を殺す。何が彼らと違うだろうか。


――鏡クンには見せられないな


 こんな自分の姿を見たら彼はどう思うだろうか。そう考えたら、悠は怖くなった。人を癒す姿しか見せていない自分が、喜んで人を殺して回る姿を見て何を思うだろうか。

 そして懸念は現実になった。すぐ目の前で全てを目撃された。

 恐怖が憎しみを覆い潰す。鏡が自分から離れていく、そんな想像が悠を殺していく。好きになった、生まれて初めて好きになったその人の心が自分から遠ざかっていく。想像の中の鏡が、恐ろしいものを見る眼で自分を見ていた。

 ユウが悪い。憎しみは全てユウの物で悠の感情ではない。能力者を殺したのはユウであり、そこに悠の意思は無い。全てをユウに押し付ける考えも浮かんだが、だがそれは許されない。何故ならば、真に二影を殺したいと思っているのは紛れも無く悠なのだから。

 どうせ離れていくのならば――

 すっかり手に馴染んだ短剣を触りながら悠は考える。

 鏡クンの前から消えよう。ユウの能力は死を撒き散らす。傷つけたどの生物も殺すことができる。ならば今の自分の能力なら鏡を殺せる。愛する彼の望みを叶え、その間に二影を殺して、そして消え去ってしまおう。そうすればイヤなものを見なくていい。見たくもないものを見る必要もなくなる。それで良いんだ。

 一方的で自己中心的で自己満足な思考。それを悠は自覚していた。軋む心に封をし、ユウからの確認にもうなずき、そして実行された。泣きながらも「これでいいんだ」と言い聞かせ、憂いを払い、自身の全てを終わらせるために二影と対峙したはずなのに。

 悠と鏡は再度出会ってしまった。





 頭の奥にガンガン響く振動。そして針で刺すような痛み。けたたましい騒音。視界がゆっくりと白く染まっていって、かと思えば眼を開けても光が差し込んでるわけでも無く、ほのかな月明かりだけがうっすらと僕に反射してる。


「うっ……?」


 開きづらいまぶたを何とかこじ開けてみると、そこは見慣れない天井であって顔を少し動かしても、どう見ても見知らぬ場所だった。僕のアパートにしてはボロボロ過ぎるし、こんな和風な部屋じゃなかった。横になった状態じゃ見えるものも見えない、と起き上がろうとするけども、僕の体は全ての感覚を失ってしまったみたいにひどく頼りなくて、体が動いてるのかどうかさえ曖昧だ。

 感覚はないけれど眼は見えている。もっとも、視界はぼやけてるし何だか見える世界にも違和感を覚えるけど。ああ、そうか、寝ていたからメガネを掛けてないのか。だから世界はこんなにもうつろ。ぼんやりした視界に僕の右手が見えてきたところでようやく僕の体は動いているのだと僕は知ることができた。

 僕の手が頭に触れる。触れる、というよりは力を失って僕の顔目掛けて落ちてきた、という表現が正しいかもしれない。ペシッ、という音が聞こえて、だけどその音に似つかわしくない衝撃に僕は悲鳴を上げた。


「あぐぁ……!?」


 最初の比でないほどの猛烈な痛みが僕の全身を突き刺す。頭の先から脚の指まで。急激に感覚が戻ってきて、なのにそれがもたらしてくれるのは絶え間なく襲ってくる痛みだけ。指一本を小さく動かすだけでも悲鳴が口から漏れそうになる。

 そのおかげなのか、代わりに胡乱だった頭の中も一気に覚醒へと到着して記憶も唐突な勢いで頭の中を駆け巡る。グルグル、グルグルと、まるで渦を巻くみたいに旋回しながらバラバラのピースをひと繋ぎに整えていく。もう少し丁寧な目覚めを迎えたかった。例えば、なぜ僕がココにいるのかをゆっくり思い出せるくらいには。

 少し離れた所で、さっきから断続的に何か、金属同士がぶつかり合う甲高い音が聞こえてる。体はまともに動かないから首から上だけを動かして外を見ると、月明かりの下で二人が斬り合ってるのが見えた。一人は白いシャツと長い髪。逆光のせいでシルエットでしか見えないけど、それが彼女だと僕は確信した。


「う…うぁっ……!」


 手を突いて体を起こそうとする。その途端にまた痛みが走って力が抜け、少し浮かせた顔が床に散らばる壊れた障子に叩きつけられる。腕に眼を遣ると腕の形がおかしい。たぶん、折れてる。そりゃ支えることなんてできやしないや。脚はと言えばやはりわずかに動かすだけで鋭い痛みが走って、これまたきっと折れてるか、もしくはそれに近いケガをしてるということだろう。間近で見た障子紙は本来とは違う色に変色していて、さっき僕の顔に触れた右手には今はヌメッとした感触が残ってた。

 僕がここに来たのはまだ陽は出ていて、だけど今は完全な夜に近い。それだけの時間を費やしながら僕の傷は全くと言っていいほどに回復していない。つまりは、今の僕は完全に一般人になってしまったんだろう。そして、もしこのまま放置されればきっと僕はもう眼を覚まさない。痛みで苛まれる頭でそう思った。

 喜ばしい。僕が僕であるならそう思うはずだ。なのに、死を思った瞬間にどう表現していいか分からない、冷たくて全てを吸い込んでしまいそうな空虚さが僕の胸の奥を支配した。

 ただ苦しかった。これが死、なのかと思った。夏だというのに体は冷え切って、傷は重症だと言えるけど致命傷と言うわけじゃない。なのに一向に止まない痛みと、流し過ぎた鉄臭い血の臭いが僕を追い詰める。外からは二人が斬り合う音だけが聞こえてくる。

 どうして僕はこんな想いをしなければならないんだ。

 胸から出ていった何かを埋めるように、そんな考えが浮かぶ。

 痛くて、痛くて。

 苦しくて、苦しくて。

 僕は間違ってしまったのか。どこで間違えたのか、何を間違えたのか。彼女を好きになってしまったことか。そもそも、生まれてきたことが間違いだったのかもしれない。

 死ぬことを許されなかった昨日。生きることを許容されない今日。希望を持てば道は無くて、絶望を抱けばその場でグルグルと回り続ける犬の様。明日への一歩さえも踏み出せない。僕の願いとはいつも裏腹で、望んだものは手に入れることができない。それがこれまでの僕であって、これからの僕。

 もう、いいや。

 僕は抗うのを辞めた。抗えば抗うほど、僕の力が及ばない何かが、僕を嘲笑っているみたいでバカバカしい。

 このまま諦めていれば傷も治るかもしれない。生きる希望を失えばまた死ねない毎日に戻るのが自然。死にたくないなら生きなければいい。

 そう思う。

 そう思うけれども、一度抱いた希望を捨てるなんて事は無理だ。血の混じった涙が頬を伝った。

 僕はただ生きたいんじゃない。僕は、僕は希望を持って明日を生きていたいのに。


「どうして帰ってきたんだ!?」


 庭先から金属音に混じって僕の知る、だけども幾分低い声が聞こえた。

 僕のよく知らない、だけどもっともっと知りたいと思ってる彼女の声。それだけで僕の中に小さな力が蘇る。


「全て忘れてたんだ! お前さえ帰って来なければ、悠は全てを忘れたまま、また幸せをつかめた! 帰ってきてても、アイツの眼に触れなければ、あの街で事件を起こさなければ全てを知らずに済んだ! S.T.E.A.Rの人間を傷つけずにそのままどこかへまた逃げてしまえば良かったのに!」

「君たちとは違う、僕らの様な能力者に事件を起こすなというのは所詮無理難題なんだよ。だから僕は帰ってきたんだ。強い相手と殺し合いたいからね。君たちは世界中で有名なんだよ? 能力者を殺す容赦なき能力者集団。どんな強者でさえも殲滅し壊滅させる異常な警察組織だって」


 そして何よりも。彼は言った。


「君を手にいれたかったから、僕は戻ってきたんだ」

「俺もアイツもお前なんか要らない! 鏡がいればそれでいいんだよ!」


 折れた腕が形容し難い痛みを僕に訴えかけ、でも僕はそれを無視して外に向かって這って行く。一陣の風が僕の顔に吹き付ける。何かが軒先を抉って、空へ跳ね上げられた木片がバラバラと縁側に降り注いだ。


「そこまで拒絶されると僕も泣けてくるね。しかし、本当に幸せになれると思ってるのかい? そんなに理解されたいのかい、君は?」

「お前だって言ってただろう? 誰だって幸せになりたいと!」

「なりたいのは分かるけどね。でも君が幸せになれるほどに君は彼の事を本当に好きなのかな?」

「好きだ!」


 聞き慣れた高い声。ああ、僕のよく知る、彼女の声だ。

 彼女が空から降りてくる。縁側の床板を踏み抜き、彼女の動きが一瞬止まる。現れたもう一人の男が長い剣を横薙ぎにふるって彼女を傷つけた。腕を傷つけられて溢れた彼女の血と、彼女の長い黒髪が風に乗って僕のところまで届く。それに気を取られ、少しの間彼女から眼を離して元に戻した時にはすでに二人の姿は無くて、声だけが僕に届く。


「鏡クンはアタシなんだ。人が怖くて、弱くて、逃げ出したくて、なのに人に触れたくて、温もりが欲しくて……寂しいのに誰にも手を伸ばせなくて、構って欲しいのに構って欲しくなくて、一人は嫌で、でも一人でいなきゃいけないと思い込んでたんだ。寄れば誰かを傷つけてしまうって分かってたから、寄り添っても何もできやしないと分かってたから」

「同類が欲しかっただけじゃないのかい?」


 そう。僕と彼女は似てないのに似てる。


「否定はしないよ……死に翻弄されてる、自分と同じ人がいる。それだけで嬉しかったのは本当だし。

 でもそれはただのきっかけなんだ。アタシは鏡クンと分かり合いたい。鏡クンを知りたい。死じゃなくて生をアタシも鏡クンも知りたいんだ。二人で歩きたいんだ。小さくても前に一歩を踏み出したいんだ」


 僕は彼女の鏡で彼女は僕を映し出す鏡。姿が変われば鏡の中も姿を変える。鏡が映し出すのは同じ姿で、なのに真逆に動く。僕が右手を上げれば彼女は左手を上げる。全く同じで正反対の存在。

 生きていたい。なのに君の存在が僕を殺す。死にたい。なのに君の存在が僕を生かす。

 彼女は僕の望みを叶えない。彼女に近づけば望みを叶える手段が見つかると思ってた。だけどそれは間違いで、彼女は僕の願いを叶えずに、そしてもっと大きな望みを与えてくれた。

 だから、だから僕は……彼女が嫌いだ。大嫌いだ。顔も見たくない。嫌い、嫌いなんだ。嫌いだから、彼女に嫌われても構わない。むしろ望むところだ。これからもひとりで生きてやる。生きる希望なんて初めから無かったんだ。

 僕はそう信じる。何度も何度も自分の中で反芻し、脚に、腕に、内蔵に、眼に、鼻に、口に、耳に、脳髄に信じこませる。僕は信じる。だから、自分を騙すから、だから今だけは……

両手に力を込める。両脚を地に付ける。痛みなんて要らない。必要なのはホンの一瞬動けるだけの力だけだから。


 風がユウの髪をなびかせる。胸の辺りにまで長い黒髪は届いて、しかし両肩にかかるそれの一房は不恰好なまでに長さは不揃い。着ているシャツのあちこちは切り裂かれ、至る所に彼女の血がシミを作っていた。

 対する二影も似ていた。左掌は真っ赤に染まっていて、ユウと同じ様にコートの端々が切り刻まれている。深い傷こそ掌以外には無いものの、かわしきれなかった斬撃の跡が彼の皮膚を浅く傷つけていた。

 共に息は荒く、汗が絶えず額から流れ落ちて、涼しい夜風が二人の熱を優しく奪い取っていく。静かに草の擦れる音が耳に届き、何も言わずにただ二人は互いを睨み合う。


「楽しかったよ、とても。でもそろそろ終わりの時間だ」


 そう切り出したのは二影だった。右手の刀を握り直し、脇構えを取ったまま地面を蹴った。

 ユウはスッと余分な力を抜いて、だが身を地につかんばかりに低く駆け出した。

 何度目か分からないぶつかり合い。互いが互いを傷つけ、それでも決着の無い戦いを続けてきた。同じ光景がまた繰り返され始める。


「くっ……!」

「くぉぉ……!」


 数撃の斬り合いを経て、二人はつばぜり合う。二人とも一歩も引かず、だがこれまでと同じ様に力で勝る二影がユウを跳ね飛ばした。ユウも無理せずに押されるままに引き、飛び退く形で距離を開ける。ここまでは同じ。

 しかし、これまでと違い二影は斬りかからずに手を前に伸ばす。


「おおおおおおおおおっ!!」


 腕は真っ直ぐにユウに向かって伸び、叫び声に従って吸い込まれる様に地面の草や土が巻き上げられる。

 風が舞い、円を描く様に回転しながら一点に収束していく。局所的な竜巻が細く、圧倒的な暴力を内包していく。極限まで鍛えあげられた嵐が二影の腕から解き放たれた。

 自身に迫り来るそれを、ユウは眼を鋭く睨みつける。ギリギリの限界を見極め、自身がなすべき動きをイメージし、それを自分の肉体に投影。振りかぶり、右手に持っていた短剣を投擲した。そして自身もまた竜巻から離れて身を投げ出す。

 ユウの右手が巻き込まれる。投擲した右手から血が吹き出す。先の、皮膚だけを切り刻んだ攻撃とは異なり、腕全体を捻り、ねじり上げ、腕をただの肉片に貶めていく。

 だがそれは元より想定内。代償は吸い込まれる両刃の剣。月夜に輝きながらそれは一点を貫き、傷つくこと無く、遮られること無く真っ直ぐに二影目がけて突き進む。


「ちっ!!」


 渦の中心に吸い込まれ、止まらない短剣を避けるべく二影は風を止め、代わりに誰にも傷つけられない絶対の盾を腕に展開した。暴風の中を突っ切ってきた剣はあっさりと弾かれて地面に突き刺さり、二影は剣を構えて走りだす。

 ユウの右腕に剣は無い。右腕自体がもう使いものにならない。最大の武器であるユウの小回りの効く斬撃はもう来ない。武器の長さもこちらが上回り、他の攻撃手段でも有利に立っている。

 油断はダメだ、と自分を諌めながらも二影は勝ちを確信した。距離は十メートル弱。後一歩踏み出して斬りかかれば、それでこの戦いにも決着が付く。

 だが二影の目の前に無くなったはずの短剣が迫ってきていた。距離はまだ遠い。少なくとも短剣の届く間合いではない。何故だ。

 思考が一瞬混乱し、慌てて二影は刀でそれを弾き飛ばす。鼻先まで迫っていたそれは二影の皮膚を薄く切り取り、だがそれだけでしかなかった。

 無理矢理に剣を払ったせいで二影の体勢が崩れる。右腕が顔と交差し、その腕越しに二影はユウの姿を認めた。

 距離はまだ十分離れていた。ユウの両腕にはすでに短剣は無い。危うく自分の命を奪いかけたのはユウの残った短剣だった。起死回生だっただろうその攻撃は外れ、ユウに攻撃手段は無い。そのはずだった。

 しかし二影は見た。自らの腕の向こうで銃を構えるユウの姿を。


(しくった……!!)


 停滞した時の流れの中で二影は自分の噛み締めた歯がギリ、と音を立てるのを聞いた。ユウの髪は優しく彼女の頬を撫で、対照的に鋭い視線が二影を捉えて離さなかった。

 ゆっくり引き絞られる引き金。撃鉄が叩き、反動が彼女の腕を伝う。

 そして銃声が鳴り響いた。


「がっ……!」


 苦痛に満ちた二影の声が漏れる。だが彼はくぐもった声の後に口元に笑みを浮かべた。そしてユウは表情に乏しかった顔を驚きと失望に歪めた。

 右腕から刀が落ちていく。力を失った右腕も地面に向かっていく。それでも右腕が地面に着くことは無かった。彼はまだ立っていた。

 放たれた弾丸は間違いなく二影の頭目掛けて飛んでいった。そこに偽りは無く、ユウも確信があった。だが、二影の動きがその確定したはずの未来に勝った。

 剣を払った右腕を、肩関節が壊れるのも無視して強引に引き戻す。風をデタラメに巻き起こして、弾丸の起動をわずかに変える。それだけで十分だった。二影の命を奪うはずだった弾は肩に遮られ、二影の右腕をえぐり、後頭部をかすめて消えていった。

 死んだ右腕から落ちていく刀。それを二影は左の脇に挟みこむ。そして体ごとユウに向かって差し出した。

 相手に体を預ける体勢で突き出したせいで、二影からはユウの姿は見えない。だが位置は確認した。そして現実に今、二影は刀が貫いていった感触を受け取っていた。

 今度こそ、終わった。疲れる戦いだった。だが最高の戦いだった。生と死が同居する中で自分が勝ちを拾う。彼女を守れなかったからこそ、自分が彼女を最後に殺す。彼女を救えなかったかつての自分。だから自分こそが彼女を楽にさせてあげるのだ。理性と狂気の揺り返しの十年の中で漠然と願い続けてきた想いが今、成就された。


「間に合った……」


 聞き覚えのない男の声に二影は顔を上げた。そして目の前には、自分が散々痛めつけ、気を失っていたはずの男がいた。自分の刀は彼女では無く、男の腹を貫いていた。

 男の手に握られた銃。二影の眉間に押し付けられた銃。

 小さな小さな銃だった。銃よりも剣の方が好きだった二影には拳銃に関する造詣など持っていない。それでも彼はその銃を知っていた。

 デリンジャー。装弾数はたったの二発で、精度も射程も最悪な、掌に納まる程度の銃。

 二影の刀に貫かれ、口から血を零しながら、鏡はつぶやいた。


「僕は彼女と生きて、死にたい」


 悠からもらった一丁の銃。そしてたった一発だけ残った弾。それを鏡は、オモイ引き金と一緒に吐き出した。

 その刹那――男は笑った。




 二影は地面に倒れ込んだ。両手を広げ、仰向けに、七夕の夜に広がる満点の星空を眺めるようにして。それに満足したかのように笑顔を浮かべて。

 それを見届けて、鏡もまた仰向けに地面に倒れた。堪えていた全身の痛みが思い出したように鏡を傷めつけ、だがそれももう気にならない。ひどい眠気があるだけだ。深いため息を吐き出す。


「……鏡クン」


 半分しか開かない眼を声の方に向ける。声の主の右腕からは血が滴り落ち、綺麗なはずの彼女の腕が今は無残な状態になってしまっている。それを見て鏡は痛そうだな、と思った。


「だい、じょうぶですか……?」

「大丈夫じゃないよっ!」


 叫ぶように鏡の問いかけに応えると悠は覚束無い足取りで駆け寄る。ペタリ、と鏡の隣に座り込み、鏡の腹から突き出た日本刀を、これ以上鏡を傷つけないようにそっと抜き取った。


「……ちょっと待ってて。すぐに治してあげるからさっ。痛みなんて、アタシに掛かればあっという間にどっか行っちゃうんだからっ!」


 震える声で悠は両手を鏡の傷口に押し当てる。自分の傷など意識の端に追いやって、鏡の傷を塞ぐためだけに力を注ぐ。淡い光が月夜の中に広がり、鏡の体から湧き出る死の気配を削り取っていく。ホンの少しだけでいい。少しの間、死を消せれば、血を止めればちゃんとした治療を受けられる。そうすれば大丈夫。


「あ、あれ……?」


 なのに傷は塞がらない。溢れ出す血が悠の両手を真っ赤に濡らしていく。そんなハズはない、アタシの力なら絶対に治るはずだ。完治なんて望んでない。少しだけ、少しだけ血が止まってくれればいいのに。

 何度も何度も悠は両手に力を込める。その度に光が満ちて、だが何も起こらずに消えていく。


「どうしてっ!? どうして、どうして、どうして!? 何でなの!? 何で止まってくれないのさっ!? アタシがつけた傷じゃないのに!!」


 叫びは嗚咽に変わっていく。鏡の体は冷えていき、なのに自分の体は鏡の血で暖まっていく。 それが耐えられない。

 涙が止まらない。歯がカチカチと音を立て、体が震える。それでも、意味が無いと分かっても悠は力を使うのを辞めなかった。そして鏡はそっとその腕に触れる。


「もう、いいよ……」

「良くない! あっ、そ、そうか、鏡クンはさ、死なない体なんだもんね? だから勝手に治るって言うんでしょ? だからもういいなんて言うんでしょ? でもダメだよ、痛いのなんて鏡クンだって嫌だよね? ね? アタシ知ってるのさっ。鏡クンは本当に痛いのがダメな人だって。だからさ、アタシが治してあげるんだよ。大丈夫、お姉さんに任せて……」


 不意に悠の声が止む。まだ暖かい鏡の掌。それが悠の頬に触れる。

 まだ、悠を感じられる。その事が鏡は嬉しかった。


「僕はさ……悠の事がね……」


 そこまで言って鏡の言葉は途切れた。悠の頬に触れていた右手が離れていき、軽い音を立てて地面に落ちる。溢れ出た血がその腕を汚した。


「鏡クン……?」


 悠は名前を呼ぶ。繰り返し繰り返し名前を呼んで返事が戻ってくるのを待つ。一度呼んでダメなら二度呼んで、それでもダメなら三度目を。そうしていれば鏡クンの事だからメンドクサそうに「何ですか?」って返事をしてくれる。

 だけども鏡からは何の答えも返ってこない。眼を閉じたまま、安らかに眠っていた。


「うああああああああぁぁぁぁっ!!」


 悲しい叫び声が満月の夜に響いた。





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