藤紫&蘇芳杏

3.1

 私はいつものように公園の片隅に存在するトイレからでると、まっすぐ杏の家を目指す。お気に入りのシルバーの時計を見ると、午後七時半をさしていた。学校でごたごたしていたら、いつもより公園を出るのが十五分ほど遅くなってしまった。杏は怒っているかもしれない。


 おわびに何か買っていこうかとも思ったが、それよりははやく家にたどり着くほうを優先した。お菓子はあの元暴走族メイドさんが用意しているだろうから。


 はやくあのふっくらとしたほっぺ、抱きしめたくなるくらい細い体躯、花のような香りがする黒髪の彼女に会いたい。自然と早足になっていく。



そのとき、背中にゾワリとするものを感じた。



「――っ!」


思わずばっと振り返る。高級住宅街の中にある、どこにでもありそうな道。塀や柵に囲まれ、少々窮屈にも思える。一定の間隔で、空を突き刺すように電柱が並んでいた。


 いつもどおり、だ。異常は見当たらない。しかし、誰かに見られている感覚が付きまとう。


 何だ?


 ずれ落ちかけていた学校の鞄を肩にかけなおす。靴紐がほどけていないか確認。よし、いつでも走り出せる準備はできた。

 首からネックレスを引っ張り出し、指輪に指を通して銀色のチェーンを文様として絡みつかせる。何かが這い上がってくるような感覚。いつやっても一種の気持ち悪さを感じる。


「アメジスト、アメジスト、《我を助けよ》」


 つぶやいた瞬間、私はすっと一度しゃがみこむと左足に力を入れ、跳んだ。

 とにかく今は、この妙な恐怖から抜け出したかった。ついでに一気に杏の家を目指してしまおう、と言う考えもあった。


 しかし、



ガツンッ



 二メートルほどジャンプしたところで、頭に衝撃がきた。まるで、空一面に天井があって、そこに思いっきりぶつかったような感じ。漫画だったら星が飛んでる。


「いっ……?」


 何が起きたのか分からず上を見上げるが、そこにはいつも通りの青い空が広がっていた。そこで私はやっと、異変に気がつく。


「いま、午後七時だよ……?」


 日が沈むのが早くなってきた今日この頃だ。普通なら、もう真っ暗になっていてもおかしくない。はずなのに、足元の靴紐が確認できるくらい、空はさわやかに晴れ渡っていた。


 浮遊感がとまり、重力に沿って落下する。


「……っ」


受身が取れず、無様にごろごろと転がった。着地に失敗したせいで、背中がハンマーで殴打されたかのように痛む。サポートモードじゃなかったら、もっとひどいことになっていただろうが。


 あわてて膝を立て、顔を勢いよく上げた私は、電柱の影に潜む人影を見つける。


 誰? 敵?


 混乱した頭で考える。後頭部を打ったのか、視界が少しぼんやりしている。


 向こうもこちらに気がついたようで、ひょっこり電柱から飛び出すと、この状況には場違いな、ひまわりのような笑顔を浮かべた。

二つに結んだお下げを前に垂らし、青いフレームの眼鏡をはめた五歳くらいの、いかにも賢そうな女の子は、


「おねーちゃん、あそぼ?」


 と、迷路が表紙いっぱいに書かれた本を突き出した。

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