第4話

 少女を押し込んだ穴には魔物が取りついていた。遺跡に直接取り付けられていた頑丈な鉄の蓋がひしゃげてぶら下がっている。餌にありつく為のこの執念は、人も魔物も大差ないもののようだった。人の背丈ほどの魔物は見えている部分だけを判断すればその程度の大きさだが、穴に侵入した部分を含めればもっと大きいのかも知れなかった。カルロは威嚇なしに44口径を向け、人なら確実に死ぬだろう威力の弾丸を遠慮なく何発も喰らわせた。引きちぎれ、飛沫を上げて水に落ちる肉片は赤黒く、水の中で蠢いた。


「マリィ、ちゃんとマンホールの蓋は閉じたのか?」


 言いつけに従って地上に逃げたのなら、この状況は有り得ない。虚しさが去来する中で、八つ当たりの感情がこの魔物をズタズタに破壊し尽くしてやりたい衝動を引き起こす。言葉を吐き出すと同時に引き金も連続で引いていた。


 千切れた肉塊が水中へ没し、別の黒い影の餌になりさらに小さく食い千切られていく。流れ弾に当たった小さな影が水中から跳ね上がる。世界の縮図だ。知ったことではなく、腹いせに撃てる限りの弾丸をぶち込んだ。黒い魔物たちに個性は見られない。あるいは人間には見分けが付かないだけかも知れないが、別段必要というわけでもなく銃撃で瀕死となった黒い魔物は突然横合いから現れた別の黒い魔物に襲われて縦穴から引きずり出された。素早い動きで獲物を銜えた魔物は水中へ逃れ、泳ぎ去った。弾倉はカラになり、虚しく撃鉄だけが落ちて乾いた音をつま弾いている。ベルトに挟んでいた予備の弾倉の一つをカラの銃身に叩き込む。気分は重かった。



 この一見美しい地下世界のせせらぎが、岩盤一つを隔てただけで不気味な呻きに変化する。正体を明かして地上へ届いた地底の声は人間の手で厳重に蓋をされていた。絶望は倦怠に代わり、カルロの膝をゆっくりと折り曲げていく。水に濡れても構わないから座ってしまいたいと思っていた。縦穴から何かが滑る音がした。弾かれたように顔を上げたカルロは走りだし、咄嗟に伸ばした両腕の中へ少女の痩せこけた身体が落ちた。


「蓋は重すぎたのか?」


 言った後で逃げたくても逃げられなかったのだろうと気付いた。大人でも重いと感じる鋼鉄の蓋だ、痩せっぽちの子供が下から足元の支えもなしに持ち上げられるはずなどなかった。苦笑が浮かぶ。唇が勝手に神の名を刻んだ。しっかりとカルロの服の袖を掴む小さな手は、はっきり解かるほどに震えている。無表情の顔に変化が現れていた。


「おかあさんが、」


 絞り出す声がぽつりと告げた。再びカルロは胸中に神の名を呼んだ。



「村長さんが来たの。おとうさんとおかあさんが、出て行ったの。おかあさんは妹を抱っこしてて。」


 震える声は、思い出したままの光景をそのままで口にのぼせた。声の調子に感情は無く、目は見開かれていた。


「叱られて、納戸に入ってなさいって。だから、出ていっていいのか解からなかったの。叱られるかも知れないからこっそり出てって、馬小屋に沢山人が居たから、だから……」


「もういい、もう話さなくていい。人が居たんじゃない、魔物が来たんだ。」


 懺悔するマリィの声を遮って、震える小さな身体を抱き締めた。幼い口がぽつりと吐き出した。


「怖くて逃げたの。沢山の足音が黙ってついてきたの。」


 荘園のはずれにあった少女の家は、ただ一軒だけが夜の闇に明かりを灯していただろう。周囲にあるのは畑ばかりで、隣家は何キロも離れていたのだ。夜陰に紛れ、静寂の中で追ってくる沢山の足音。子供一人を追う無数の大人の無言の影。カルロは胸が悪くなった。


 少女は見ただろうか。自身の家族の、変わり果てた姿を。母親に抱かれた幼い赤子すら無残に転がっていただろうか。殺人者の顔を見ただろうか。血走った歓喜の目、飢えが満たされ紅潮した頬、生きている証を掴み悦びに打ち震える口元。悪魔の手から娯楽を買い取った男は、少女を振り返り、ギラギラと輝く両目と薄笑いで睨んだはずだ。


「みんな、笑ってた。」


 心を壊死させた少女は、息を吹き返した。皮肉な状況の中で。カルロの腕の中で、マリィは生の感触を取り戻した。色を失った幼い顔に恐怖が呼び戻されている。強張った頬に涙が静かに流れ続けた。どこともない虚空を見つめ続けていた少女が、ひと時だけ、カルロの顔を見た。回復の兆しだった。


 蒼く輝く地下世界のせせらぎの中で黒い影たちがじっと様子を窺っていた。同じような黒い影たちは、一匹ずつがそれぞれで違う思惑を持っているに違いない。同じ黒い魔物を竪穴から引きずり出し、食うために掠め取っていった魔物もそうだった。


 マリィを宥めながら、カルロは当時の様子を思い描いた。にやにやと笑うギャングたちと、血走った眼で口汚く罵る尊大な男が登場した。ゆったりと歩を進めるロベルティーノはむせ返る血の匂いの中で葉巻に火を付けただろう。男たちの周りで日常的に繰り返される光景は、マリィにとっては非日常だ。



 震えがようやく収まる頃、マリィはカルロが右肩に背負った荷物を気に掛けた。涙の跡が白く浮き出たあいかわらずの無表情でカルロの右腕を触り、武器を仕舞った荷物入れの皮紐の滑らかさを指先でなぞった。表情は乏しかった。物事への関心が少しだけ戻った少女はカルロを僅かばかり驚かせた。じっと見つめてくる色の無い瞳に答えてやる。少女の中のタフさが喜ばしい。


「俺は用心深い性質でな、アジトの下にも装備を隠しておかないと安心できない。」


 倒れた石柱がちょうどいいテーブルになっていて、荷物を投げ出すに適している。無造作に置かれた荷物入れのバックからは数々のウェポンと携帯食料が出てきた。二人なら一日二日は保つだろう。人間相手の為でない凶悪な装備が複数。戦車用のライフル弾は手の平からはみ出した。


「これなら戦争も出来る。」


 興味を見せた少女に、カルロは意味ありげな笑みを向けた。泣きじゃくったせいで、マリィの顔は涙とカルロが服に付けてきた煤とで真っ黒に汚れた。カルロも煤だらけになっていた。


「飯を食ったら上流へ移動だ。この辺りじゃさすがに顔を洗う気にもなれないからな。」


 目を向けた先では排管が口を開け、汚水には魔物が群れていた。



 石柱を座席代わりにピクニックと洒落こんだ。うっすらと漂う地底の腐敗臭は耐えられないほどでもない。乾いたビスケットをぼそぼそと噛みしめ、缶詰のアンチョビを口へ放り込む。食事の取り合わせで文句を言う余裕はなかった。酒はある程度抜けたほうが望ましく、テキーラをひと口含んだだけで押さえる。アル中は酒を完全に切らすわけにはいかない、指が震えだす。マリィにはスパムの缶詰を渡してやった。少女は両手で受けとり、開封のレバーを不器用にいじり、爪を痛めた。


「貸せ、」


 カルロの手に渡った缶詰は、レバーを押し上げくるりと一周ほど帯を巻き込んだ。カルロの手許を観たマリィの表情がまた変化した。パフェもスパムも大差ないはずの少女の目は大きく見開かれて輝きだす。差し出された缶詰を宝物のように受け取った。愛おしげな笑みが綻ぶ。缶詰を開くためのレバー操作を真似て、ほんの微かな笑みを浮かべる。食事一つをオモチャと一緒くたに出来るようになった。カルロも穏やかな笑みを浮かべ、不器用な手が楽しみながら缶詰を開いていく様子をじっと見つめていた。


「この沢を上っていけば遺跡を抜けられる。街からもついでに出られて、追手からも逃げられる。」


 簡単なことのように言って、カルロはもう一度テキーラの瓶を口元へやった。が、危うく止めた。ほろ酔いでこなせる仕事ではないと承知している。ロベルティーノは地下遺跡の武勇伝を何度となく聞かせてやった相手だ。ふいに思い付いてカルロはマリィに尋ねた。


「村長の姿は見たか?」


 マリィは缶詰をほおばったまま、首を横へ振った。


「そうか。」


 条件反射で口へ含んでしまったアルコールを慌てて吐き捨てた。



 遺跡を流れる河は、険しい連峰の谷間いから遥々と続く。峰々に魔物が居るという話は聞かれないが、遺跡出口の洞窟はその限りでなかった。蒼く輝く淵は静寂の中に時折、浮上する死の影を宿した。浅瀬を渡り、時に少女を抱き上げて逃亡者は上流を目指す。途中の沢で顔を洗った。その時に、指先に噛みついた小さな魔物を捕まえた。鋭い歯を持った寸胴の魚だった。電球のような胴体に長い尾鰭が付いて滑稽な泳ぎ方をする。ベールのような尾は水の流れに美しくたなびく。マリィが両手を伸ばして欲しがった。魚を掴んだままカルロは立ち上がり、少女の手が届かないよう持ち上げた。


「噛みつかれるぞ、」


 河へ投げようとするカルロの邪魔をして、マリィは飛び跳ねる。口元は引き結ばれていた。


「これは飼えないんだ。人には懐かない。魔物は大きくなる、何でも食う。飼い主だって食ってしまうんだ。」


 男の手の中でビクビクと暴れる黒い小さな魚を見つめて、少女は泣きそうに目を細めた。


「こいつは鑑賞用のペットじゃない、魔物だ。」


 カルロは沢の遠くへ魚を投げた。水面で一度跳ねあがり、黒い影は川底へと沈んだ。消えた魚影の痕跡を探す少女の正面へカルロはしゃがみ込み、自身より少し高くなった少女の目線に合わせて顔を上げた。背の高い影に遮られてマリィは小魚を諦めた。見上げた視線は男の動きに合わせて下を向き、そのまま男の顔をじっと見つめた。カルロは何か言いたげで、少女の中の反抗が収まる時を待っている。言葉を使わない少女の、小魚をくれてやらなかった非難がその瞳から消えてなくなるまで、辛抱強く待った。


「マリィ。これから俺の言う言葉を、出来ればでいいから大人になるまでは覚えておいてくれ。小さな魚にも種類があるように、人間にも種類がある。親切な大人も居れば、魔物のように危険な大人も居る。さっきの魚みたいに、ちょっと見ただけじゃ危険かどうかは解からない。注意深く相手を見なけりゃならない。でなきゃ、騙されて食われちまう。お前は何の疑いもなく俺に付いて来るが、それは間違いなんだ。付いて来いと言って手を差し出す大人は、たいていは悪い奴だ。無暗に人を信用するな、マリィ。俺は、ただの気紛れでお前を助けただけなんだ。」


 カルロの話は少しだけ長かった。彼が今まで話をしたうちでは一番。マリィは首を傾げて聞いていた。


「お前があの日に馬小屋で見た大人たちは覚えているか?」


 少女の身体がにわかに強張り、表情が消える。見開かれた瞳だけは拒絶の色を浮かべていたが、カルロは構わなかった。


「奴らの目を生涯忘れるんじゃない。この俺と、同じような目をしていたはずだ。俺は、さっきの魔物と同じ種類の人間だ。近寄っちゃいけない人間なんだ、マリィ。もし、神がお前を助けるなら、お前は光の下で生きていける。その時は、俺のように影に隠れたがる人間は信用するんじゃない。いいか?」


 カルロの言葉は幼いマリィにはよく解からなかった。父親や母親と交わした言いつけのようなものだとして、解からないままで頷いた。



 カルロは背筋を伸ばし、立ち上がった。マリィに言った言葉を自身で反芻した。あの時、ロベルティーノの傍に居た白いスーツの男を思い出していた。どこぞの名士には違いないが、あれを見分けることは難しいと思った。一見、好人物。それをどう警戒させるべきか、方法は思い付かない。少女の手を引き歩くうちに、独りでに苦笑が湧き上がった。いっそ誰もかれも信用するなと言うほうが楽だ。二人は水を蹴って歩き続ける。ヒカリゴケの不自然な明るさに、徐々に健康な自然の光が混じり出す。出口の洞窟は白く輝き、眩しい陽光が差し込んでいた。


「止まれ、」


 歩みを止めたカルロを追い越しかけた少女を、引っ張って戻す。目が昼の日差しに慣れてくると、差し込む陽光に陽炎のような影が踊っていると気付いた。時折様子を見る斥候の影は近付いては遠ざかる単調な動きの蜃気楼を作った。洞窟の岩壁に身を寄せて伺い見るカルロには気付かないまま、また戻って行った。マリィは不安を滲ませてカルロを見上げていた。



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