覚悟

 だがミノタウルスのその拳が僕の元へと届くことはなかった。僕の視界を何者かの影が覆ったのだ。誰だ……?いや、この場所にいるのは僕の他にもう一人しかいない。

 アカリはアームガードで身を護りながら僕とミノタウルスの間に割って入り、その拳を受け止めた。拳を受け止めたアカリのアームガードは粉々に砕け散り、アカリ自身も先程よりもさらに強い勢いで吹き飛ばされた。そしてまたも岩壁に激突したアカリは、そのまま意識を失い力無く倒れ込んだ。


「あ、アカリ……、何して……」


 僕の命は一時的に救われた。一人の少女によって。僕がいなかったら傷つくことのなかったはずの少女によって。僕が弱いせいで、彼女を巻き込んだ。僕が彼女を傷つけた。

 いや、今はそんなことを考えている暇はない。僕は自責と後悔がひしめく頭で、アカリを救う方法を必死に考えていた。

 とにかくアカリの元へ急がなければならない。ミノタウルスが弱ったアカリに照準を合わせれば僕に止める術はない。ミノタウルスはアカリを殴り飛ばしたことで、一旦動きを止めていた。

 僕はすぐさま震える足を奮い立たせて、アカリの元へと駆け寄る。


「なんかないのかよ……。こんなところで、アカリを死なせる訳には……。……あっ」


 僕は一筋の希望に向かって走り出す。僕はアカリのすぐそばに落ちていたミノタウルスの斧を手に取った。その斧はとても重く持ち上げるのがやっとだったが、それでも僕は振り絞れるだけの力を振り絞って、その斧を僕に向かって走り出していたミノタウルスに思い切り投げ飛ばした。


「うああああああああああああ!!」


 雄叫びを上げながら気合を入れて投げ飛ばした斧を、しかしミノタウルスは軽々と避けた。ミノタウルスは自分の斧がその後どこへ飛んでいくのかを確認するために、一瞬僕とアカリから視線を外した。

 野生の本能的に、自分のものがどこかへ飛んでいけば、それを目で追ってしまうのは必然。僕の狙いは、別にその斧をミノタウルスに当てることじゃなった。その斧の行く先を追わせることで、自分たちから一瞬でも視界を外させることこそが僕の狙い。

 そしてミノタウルスの視線が外れたことを確認すると、僕は咄嗟に魔導書を開き、アカリに触れたまま魔法を唱えた。


「万物に溶け込みし、自由なる我が身をここに曝せ。アシミレイション!!」


 僕が魔法を唱えた直後、自分の斧の行先を確認したミノタウルスは再び僕たちの方を振り向くが、そこで完全に動きを止めた。そして、まるで僕たちの存在が消えたかのように立ち止まって辺りを見回し始めた。

 どうやら僕の作戦は成功だったようだ。『風景同化』つまり存在感を消すことで今の僕たちはミノタウルスに認識されなくなった。

 初めて使った魔法なのに『相手に視認されていないこと』という使用条件と『触れたもの全てに効果をもたらす』という条件を自然と理解することができた。

 だがこれで終わった訳じゃない。これから、アカリを抱えて足音を立てずにこの場を立ち去らなければならない。先程僕たちが休憩したセーフティゾーンに、アカリを抱えて戻らなければならない。

 僕はアカリを背中に抱え、震える足を一歩、また一歩と踏み出していく。足音を鳴らし、相手に気が付かれればこの魔法は解けてしまう。だから慎重にその足を進めていく。

 恐怖で足が震えているが、今はアカリを護らなければという意思がその恐怖に打ち勝ってくれている。そのおかげで、足の震えは最小限に収まっており、ゆっくりと足音を立てることなく僕はそのフロアを後にすることができると思っていた。

 だが、神様は僕に対してどこまでも残酷だった。先程足を躓いた小石が僕の足元にあったが、気が付いた時には時すでに遅し……。

 僕はまたも躓き、バランスを崩して大きな足音を立てる。

 その時には既に、僕はミノタウルスよりもかなり入口に近づいていたが、こちらは人を一人抱えている身だ。容易に追いつかれることは、想像に難くない。

 僕は相手に気付かれているかどうかも確かめずに、地面を蹴って走り出す。

 とにかく、前へ……。足が千切れても構わない。死んでも、アカリだけは……。

 僕の存在に気が付いたミノタウルスは猛ダッシュでこちらへと突進する。僕は後ろも振り向くことなく、ひたすら前だけ向いて全速力で走る。足の感覚は最早無い。それでも、前へ……。

 このフロアの入口は目の前、しかしミノタウルスとの距離は一メートルを切ろうとした、その瞬間、僕はこれまでにないほど脚を踏ん張って空を舞った。

 これは賭けだ。この賭けに負ければ、僕もアカリも死ぬ。ここまで残酷な仕打ちをしてきたのだ。この賭けくらいは僕に勝たせろ。


「うわああああああああああ!!」


 僕はフロアを抜けて、一本道に身体を投げ出すように飛び込んだ。アカリを庇うように必死に抱きしめて、全身を地面に引きずりながら滑り込む。身体中に擦り傷が刻まれているだろうが、そんなことを気にしている余裕はない。

 このままミノタウルスがそのフロアを出て来られるなら、僕たちに命はない。


「ぐるるるるるる……」


 粗い鼻息と唸り声が少し離れた所から聞こえる。僕は恐る恐る鼻息が聴こえる方へと視線を巡らせる。そこには、悔しそうにこちらを見ながら鼻息を荒立てているミノタウルスがいた。


「はあ……、はあ……。勝った……」


 僕は神様との賭けに勝った。これまで僕に残酷な仕打ちをしてきた神様は、ようやく僕に微笑んだ。

 フロアに居座る所謂中ボスは、自らに与えられたフロアからは出ることができないのだ。だから、ミノタウルスは一本道の手前から僕らを睨み付けていた。

 僕は全身が痛む身体を叩き起こして、アカリの元へと歩み寄る。ここはセーフティゾーンではない。モンスターが出てこない保証など、何処にもないのだ。


「アシミレイション」


 僕は念のため自らの姿を消すと、アカリを胸の中に抱えてもう一度歩き出す。

 アカリを抱き抱えたまま、僕は元来た道を戻っていた。アカリは未だに意識を取り戻すことなく、僕の胸の中で目を閉じたままでいる。

 アイリスはまだ魔法を解除していないため魔導書の姿のままだし、ユナンはいつの間にか僕の肩の上に乗って、いつも通りの無愛想な表情の中に、どこか不安気な色を浮かび上がらせながら僕の胸で眠るアカリの様子を見ている。

 行きと同じように、セーフティゾーンへの道はモンスターが出ることはなく、魔除けの花が視界に入った瞬間、僕は一気に脱力するのを感じた。そのままアカリをうっかり落としそうになったが、寸でのところで支え直す。

 セーフティゾーンに辿り着いた僕は、アカリを床に寝転ばせて魔法を解除する。今まで張っていた気が一気に抜けると、精神が急激に揺らぎ目眩と吐き気を催す。

 魔力もないくせに数分間魔法を使い続けたために現れた後遺症だろう。そのまま倒れてしまいそうになる身体を何とか叩き起こし、魔導書から大量の薬草を取り出す。それを、アカリの傷の部分に付着させて、アカリの傷を癒していく。

 服が破れ所々から素肌が見え隠れするが、そんな余計なものを考えている余裕は今の僕にはなかった。ただ必死に目につく傷を薬草で塞いでいった。

 何とかアカリの見える限りの傷を癒しきった頃、急激な脱力感と睡魔によって、アカリの隣に倒れるようにして僕も眠りついた。

 意識は一瞬で消え失せ、奈落に落ちていくように、僕は深い眠りについていた。




 僕は見覚えのある場所にいた。毎日のように通っている学校の体育館裏。目の前には数人の男子生徒が何か企んでいるような含みのある笑みを浮かべながらこちらを見ている。何か言っているようだが、回りの音は一切聞こえない。

 やがて男子生徒たちは僕の回りを取り囲むようにして立ち塞がる。兵頭が何かしきりに口を動かしているが、やっぱり何も聞こえてこない。兵頭はゆっくりと僕に近づいて来て、握り拳を作ると、僕の頬を思い切り殴り付けた。

 確かに殴られた。その勢いで尻餅もついた。なのに何も痛みを感じない……。

 回りの男たちも尻餅をついた僕を踏みつけてくるが、やはり何も感じることはない。そうか、これは夢だ。どこかで見た光景だったから現実なのかと思った。

 僕は虚ろな目をしたまま、虐げられているのをただ無言でやり過ごした。そうすれば、いつのものように飽きれば立ち去っていく。それまでの辛抱だ。

 そのうちに、周りの男たちがモンスターの姿に変わっていく。兵頭の姿は、さっき敗北したミノタウルスへと変わっていた。

 やがて、僕の身体はズタズタに引き裂かれ、真っ赤な血の海に僕は溺れていった。

 僕はいつだって誰かに歯向かうこともせず、相手にやられるがままにやられてきた。だからこの世界に来ても、僕は戦うことができないのだ。これはこれまで戦ってこなかった自分への罰。それなのに、その罰に僕はアカリを巻き込んでしまった。

 そうだ、これは罰だ。僕が僕自身で受けなければならない贖罪だ。それにアカリを巻き込む訳にはいかない。もう彼女に甘えるのは止めよう。彼女の元を離れよう……。

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