第5話 きっかけ

 人生、何が起こるか分からない。だから楽しい。最近そう思うようになってきた。ある「きっかけ」が先々の自分の人生に大なり小なり何らかの影響を与えていることに、その時の自分は気付きもしない。だから楽しい。

 キーボードという道具を叩き、文章を紡いでいる時、特にそう思う。

 何故だ?【坊やだからさ】

 初めて書いたその日から作文が苦手で嫌いだった私、そう思い続け人生の針路の前半を「文系は無理だから理系で。。。」と進んできた私が、今は趣味で文章を書いている。

 仕事を除いて能力の使い方が逆転し、すっかり文系な思考をしている。好みや関心は変わっていないが常に何をどのように書くか、を考えるようになってしまった。美しいモノや気になるモノを目にした時は、どう描写するか、とまで考えてしまう。書くのが好きになってしまった。あれだけ嫌だった長文だって平気だ。【上手いかどうかは別でしょ。】

 もちろん趣味だからモノの得手不得手は別としても、、、

 

 実をいうと、私は元設計者である。今の会社に転職する前、12年もの間そういう仕事をしてきた。。。

「自分は、文系じゃない。」

 そう考えていた私にとって、設計者やエンジニアという響きは、技術系を進むうえで憧れのゴールだった。何よりも文章を書くことはなさそうだ。そう思った。

 設計者が人に何かを伝えたいときは、図面と数式を使う。文章はオマケであり、良くて飾りである。

 よく上司は言っていた。 

「俺たちは、図面で会話をするんだ。」

「文章は8分目でいい。」

 文章はそれらを理路整然と結び、結論を述べるための道具に過ぎない。見る人が見れば文章などいらない。

 図面にはない補足説明などを文でだらだらと書くと「くどい」となる。設計者がもっとも嫌う文章だ。

 丁寧に補足を伝えたいならば、図面を追加するか、せめて表で明確化するしかない。

 「くどい」文章は、読みにくいだけでなく、読む人によって伝わり方が異なり、誤解を与えることすらある。それは結果として、設計者の意図と違うモノが作られることになり、コストと時間が無駄になる。下手をすると開発計画自体が狂い出してしまうのだ。

「カネと時間の感覚のないヤツは設計者失格だ。」

と、ベテラン設計者でもある管理職がよく言っていた。

 ちなみに最も上層部にインパクトを与えるのは、素晴らしい文章でも、図面や数式でもない。コスト削減という名の数字である。

 設計が書く文書は、図面の他、主に自分の設計に関する仕様や、検討、理論や、問題ないことを示す計算、コストなどを説明する書類。これはいわば「相手に理解し、納得してもらう」類の文書である。

 もう一つは、試作の予定や、試験計画、量産品に対する変更内容やそのタイミング、開発工程などの書類。これらは「相手に理解し、行動してもらう」類の依頼に近い意味の文書である。

 そういう世界の文書に描写は不要だ。小学生の頃から作文が苦手だった私は、上司に文書作成のイロハから教えて貰った。私がいた会社では、どんな文書でも、発行する際は、図面と同じ扱いで上司による「審査」を経て、さらに上の管理職の「承認」が必要だった。

「○○に関する△△を作成しましたので、審査・承認願います。」

 といったメモを付けて、原本を上司に提出する。

 上司が「審査」の欄にサインを記入し、管理職に渡す。管理職が承認の欄にサインし、私の手元に戻ってくれば終了だ。

 ところが、、、それがなかなか上手くいかない。提出した書類は、いつも審査のサインを貰えず真っ赤にペンを入れられて戻ってくる。

 私には文才がない。もともと無かった自信、運の善し悪しではなく「駄目なモノは駄目」という結果が全ての世界。「惜しい。」とか、「ま、いいか。次は直せよ。」では済ませれないのだ。設計者の出したもので、現場が動き、人的、物的資源が動く。。。妥協は、損失の元になる。厳しく戒めなければならないことだということなど、当時の私には分からなかった。きっと学生気分が抜けていなかったのだろう。全く自分の立場を分かっていなかった。

 

 たった2歳しか離れていない若い上司は、当時入社4年目だった。初めて持つ部下の私と歳が近いことで馴れ合いになるのを避けていた。というのは後で知った話だ。

 上司は若いが、とても厳しい人だった。

 私とは滅多に雑談をしない人だった。

 若いが優秀な設計者。仕事が出来ることで評判の上司は、いろいろな人と交流があった。しかも私の同期とも気兼ねなく雑談をしていた。それが何よりも辛かった。

 私は思った。

「俺は、嫌われているのかもしれない。」

 涙涙の日々だった。

 辛かった。

 入社2年目の頃、辞めようと思って教員採用試験を受けた。パイロットの次になりたかった職業が教師だったからだ。だから教員免許は持っていた。

 だが採用試験には落ちた。今は分からないが、当時の教員採用試験は超難関だった。

 その時ふと思った。私は何をやっているのだろうか。。。なぜ超難関の教員採用試験を受けたのか。受かるはずがないではないか。仕事がイヤなら、手っ取り早く向いてそうな仕事を探せばいいのに、本当は辞める気がないんじゃないか。。。

 そして気付いた。。。

 だから教員採用試験だったのだ。

 と。。。

 設計の仕事が好きだったのだ。だから、それを辞めるならば、設計よりも好きな仕事である教員になるしかないのだ。。。

 それは教員採用試験に落ちた私の心の一部に「安堵」があったことで裏付けされた。

 それからの私は、ネガティブな感情を捨てて「好きな」仕事に邁進した。

 上司に認められる設計者になる。少しでも役に立つ設計者になる。

 そういう目で見ると全ての赤ペンの文字が、教えであり、私への叱咤激励に見えてきた。そこには、「私を嫌っているのではないか」というニュアンスは微塵もなかった。私は完全に誤解していたのだ。

「人の好き嫌いで仕事をするな。」

 仕事をし始めたばかりの頃、現場とのやりとりに四苦八苦していた私を叱った上司の言葉は、私に対しても平等に使われていたのだった。


「部下を育てるのは疲れる。すごくエネルギーを使う。お前も部下を持てば分かる。」

 どんなタイミングでだったか忘れたが、たった一度だけ上司が漏らした言葉は今も心に残っている。


 その会社は、入社3年目の春に研究発表会を行っていた。それを無事に終えることが出来れば一人前と認められるシステムだ。

 テーマは業務に関する研究。私の場合は新製品の開発がテーマだった。その登竜門を通り抜けるためには、事前に論文を提出し、パワーポイントで発表スライドを作成する。そして経営幹部を始め、社員の前でプレゼンをしなければならない。特に30ページ以上と規定のあった論文に、始まる前から怖気づいていたのを今でも思い出す。だが、逃げるわけにはいかない。過去に逃げ出して大変な目に遭った人がいる(らしい)。

 上司は、指導員として、研究発表に関わることになっている。だから仕事の傍ら私の指導に当たる。タイミングの悪いことに当時、業界は関連法規の改定により、新たな方式の製品の開発競争の最中にあった。いかに他社よりも早く製品を世に出すか、生き残りを掛けたプロジェクトが立ち上がり、上司は、その中堅設計者として多忙を極めた。発表のネタとしては、この上ない開発内容だが、一刻を争う開発、しかも前例のない方式の設計をしながら、私という「なかなか育たない部下」のために、仕事を教え、発表の指導をする。上司の忙しさは想像を絶するものがあったに違いない。

 

 発表の最中。気になったのは、上司の反応だった。

「発表は、いろいろな人に目を配りながらやれ。」

 という教えを破らない程度に上司の反応を見ながら発表していた。

 発表を終えた後、一足先に仕事に戻っていた上司のデスクへ真っ先に向かった。

 挨拶とお礼を言い深々と頭を下げた。

 何を言われてもいい。俺はやったのだ。でも駄目なモノは駄目。そういう世界だというのはもう理解している。

 頭を上げる前までに私は覚悟を決めていた。

「100点だ。」

 上げようとした頭の下からの意外な言葉は、耳では聞き取れていても脳が処理できなかったらしく、意味不明な言葉として届く

「へっ?」

 顔を上げた私に上司が笑顔を向けていた。それは私へ向けたことのない種類の笑顔だった。

「満点だ。お疲れさん。」

 もう一度言われて、理解した私の目に涙が溢れてきた。この歳で、大の男が、しかも職場で、あろうことか上司の前で、いろいろな言葉が一瞬で頭に浮かんだ。でも不思議と恥ずかしくは無かった。

「顔洗ってこい。おれが苛めたと思われる。」

 右手で私を払う上司の顔にはまだ笑顔があった。

「ありがとうございました。」

 それしか言えなかった。

 

 それから数ヵ月が過ぎ、上司は、開発された製品を元に特殊な客先ごとにアレンジ設計を行うライン設計という部署へ移り、私は別の機種の開発に組み込まれ、新たな上司についた。その頃までには赤ペンは少なくなり、一発で審査・承認をクリアすることも出てきたが、あれ以来最後まで「満点」は貰えなかった。あの先輩から仕事で頼りにされたい。そう思って頑張り続けたが、それは叶わなかった。

 あの発表から数年後、私も初めての部下を持ち、いつか耳にした「部下を育てるのは疲れる。すごくエネルギーを使う。お前も部下を持てば分かる。」

 という言葉を実感し始めた頃、あの先輩。。。私の最初の上司は、転職した。

 いろいろな職場の先輩も集まった送別会が盛り上がって来ると、「あの頃」の話になった。

「○○(私の名前)お前、よく辞めなかったな~。ありゃあ公開SMだったもんな~。」

 当時、ライン設計に所属し、開発品の製品展開に向けて開発設計と密接に仕事をしていた先輩が言うと、どっと笑いが起こり、みんなが異口同音に元上司をからかった。

「やめて下さいよ~。」

と言いながらも元上司は機嫌よく笑っている。

 私は、どう反応して良いか戸惑い、苦笑しているしかなかった。

「あいつは、一生懸命だったんだ。お前が最初の部下だったからな。」

 送別会が終わりに近づくと、最初に公開SM呼ばわりした先輩が私にぼそりと呟いた。

 私は当時を思い出し、そして今、同じように自分の部下を育てていることに気付くと目頭が熱くなった。

 一生懸命育ててくれたから、今がある。

 数年後、ある事情で転職した。今までの仕事とも、転職したあの上司とも完全に別の業種だ。仕事で関わることは、二度とない。自分で言うのもなんだが、かなり競争率の高い転職先だった。

 私は思う、あの会社でやってこられたのも、転職できたのも、そして今、転職先でやっていけているのも、全てあの上司が育ててくれたおかげだ。と、、、遠い地へ転職したあの上司とは会う機会は殆んど無いが、感謝の気持ちを忘れたことは無い。

「部下を育てるのは疲れる。すごくエネルギーを使う。お前も部下を持てば分かる。」

 私もその言葉を部下に言えるように仕事をしてきたし、これからもそうすると心に誓って生きている。

 転職した今の会社は、ひと言でいえば、「やたらと作文を書かせる会社。」

 それは入社式の翌日から始まった。新入社員教育で様々な会社幹部の講義を受けては感想を書く日々。「何だこの会社。作文ばっかり書かせて、俺は作文が苦手なんだ。」

 心の叫びは思っていても口には出せない。ここで目を付けられたら即無職だ。耐えるしかない。

 研修が終わったらさすがに作文は書かせないだろう。


 それが甘かった。

 職場に配属になって1ヶ月くらいか、伝えたいと考えていることを書け、という。

「入ったばかりなのにそんな考えなんかあるわけないだろ。」

という嘆きも心の底にしまっておく。転職してすぐ無職では、前の会社の仲間たちへの面目が立たない。そもそも、妻子持ちでそれはまずい。

 我慢だ。

 その作文コンテストはテーマこそ毎回違うが毎年恒例だと言う話を後から聞き、さらに気分が沈んだ。メインがサービス業なためか、それとも独特な文化と技術の伝承を重んじるのか、はたまたその両方なのか、私には分からないが、なんだかんだで作文を書かされる。

 「やたらと作文を書かせる会社。」

 どうやら私の印象は正しかったらしい。

 それが幸か不幸か、、、やっぱり不幸だろうな。。。

 と、私は思っていたが、何故か作文を書くこと自体に苦労はしなかった。

 それどころか、震災の年には、震災の体験をまとめた私の作文が職場の代表に選ばれ、県に相当する支社エリアで発表することとなった。

 苦手で、嫌いな私の作文が、認められた。

 そして、多くの人から感動の言葉を貰った。

 苦手で、嫌いな私の作文が、多くの人を感動させた。。。

 自分自身が信じられなかった。

 自分は、作文が苦手なはず。。。

 それが人に伝わり感動すら与えている。なぜ書けたのだろう。。。私は心当たりを考えた。。。

 原稿用紙8枚分の作文。。。当時の事を夢中で書いたら最初は10枚分あった。それを、発表の時間の都合上8枚に削ったのだが、確かにきちんと書けていた。しかもそれを書くことに全く苦痛を感じていなかったのを思い出した。苦慮したのは、描写の部分と、台詞の前後の文章だけだ。構成も文脈もすんなりイメージできた。キーボードを夢中で叩き、ひたすらに思いを文にしたためたのを思い出す。

 描写で引っ掛かった。

 当時の状況を作文で表すのは描写しかあり得ない。そこで躓(つまづ)いた。

 そうか、そういうことだったのか。。。

 赤いペン。。。

 思い当たる節があった。大ありだった。

 設計者だった頃に書いた数々の書類、そして指導してくれた上司の言葉と無数の赤ペンの手直し。。。そして同じように自分が部下の書類に付けた赤ペン。。。

 そう、私は、文章を書くことを鍛えられていたのだ、ジャンルは違えど仕事として。。。あれだけ指導を受け、書いてきたのだ。

 それで飯を食ってきた。家族を養ってきた。

 一般人としては、(同業者を除けば)かなり書いてきた方なのではないか。。。

 ならば、

 上手くはないが下手な筈もない。それなりに伝わる文章を書けるのではないか。自信を持て、、、

 そう思うと、元来読書が好きだった私は無性に書いてみたくなった。伝えたいこともある。伝える手段が無かっただけだ。伝えられると思っていなかっただけだ。

 環境にも恵まれている。

 パソコンがあってネット小説という公開の方法もある。伝えたいことがあって書くなら読んで貰いたい。それが簡単にできる世の中に生きている。

 何て恵まれているのだろう。。。

 

 そして、書くことが好きだと気付いた私は書き始めた。。。

 

 経験を自信に代えて、

 

 描写や台詞は、これから自分で学ぶしかない

 

 作文が苦手だと思いこんでいた私が、書くことが好きになり、小説を書くようになった。下手だが趣味としては最高に楽しい。

 私の場合、このことに気づくまでに、前職で上司に恵まれ鍛えられた経験があり、上司の意図に気付き挫けなかった自分がいる。転職で「やたらと作文を書かせる会社。」に入るという経緯があり、嫌々ながらも応募した作文が評価されるという「きっかけ」が自分を変えた。

 

 人生、何が起こるか分からない。だから楽しい。


 「きっかけ」はどこに転がっているか分からないが、それに結びつくための「経験」や「出会い」に無駄なモノはない。この歳になって分かってきた気がする。

 躓(つまづ)くことは、誰にでも幾らでもある、苦しいことも沢山ある。だが、それを超える事は、或いはそこで頑張ることは無駄はないのではないだろうか。そこで諦めるにはあまりにも惜しい。諦めずに得た経験は、何らかの形で未来へ続いている。

 どうするかは、自分で選べる。選べるのだ。

 どうせ選ぶなら。。。あなたならどちらを選びますか?

 

 人生、何が起こるか分からないのだから。。。


「きっかけ」はどこに転がっているかわからない。その「きっかけ」を活かせるのは運ではない。自分の能力や経験があってこそなのではないだろうか。。。

天才でない限り、能力は経験があってこそだ。と私は思う。。。


 ここでもうひと踏ん張り頑張って、未来の自分へ経験を渡していくのもいいのではないだろうか。。。

 

【エッセイってことで書いたけど、こんなに長くていいのかな。。。】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る