愛の変遷 Il Ceppi

汐凪 霖 (しおなぎ ながめ)

第1話 この胸の奥は満ち足りて

 集一が彼女の存在を知ったのは、まだ10代だったころだ。

 そして、間近で彼女を見たのはイタリア留学中のこと。ヴェネツィア音楽院でルチャーノ・スカルパ教授が開講していた特別講義クラスに在籍していたころ。ある日、たまたま通りかかった教室の中から聴こえてきた音楽の清澄さに立ちつくしてしまった。

 全身を貫く衝撃に、呼吸が止まったのを憶えている。

 あまりにも美しい、神聖な演奏は、壁の向こうの身近な世界、ごくふつうに見慣れた一部屋を、まるで天上の一部と畏れさせるほどの清雅と神秘を具えていた。

 見たこともないほど美しい宮殿。

 そこにある、全世界を失ってもよいと思うほどの至宝。

 音楽は、聖なる歌と澄んだ響きで部屋を満たす。

 誰かがチェンバロを弾き、それにあわせて歌っているのだった。

 ──ヴィヴァルディのモテット。

 この扉の向こうは、天上の楽園だろうかと思われた。

 肩をたたかれ、ふりむくと、いつも とびきり濃いエスプレッソを口に含んでいるかのように眉間に皺を深く刻んだ教授が、いまは穏やかな表情で立っていた。音楽の前では裁判官ほどに公平に厳しい目をする彼だったが、驚くほど優しく集一を見下ろしている。彼がさしだしたハンカチを受けとりながら、初めて集一は自分の頬が涙で濡れていることに気がついた。

 スカルパ教授は口唇に指をあて、集一に沈黙を命じると、そっと扉を開けた。

 そこには天使がいた。

 この世の憐れみと、あの世の慈しみを、すべて もらさず集めて満たしたような空間。透明な声がつむぐラテン語の冒しがたい神聖。

 ぬぐったばかりの涙が、ふたたび溢れてくる。

 喜びの涙。

 スカルパ教授は両目を閉じ、音楽に全身を ゆだねている。そんな彼の満足げな様子を、集一は、このときまで見たことがなかった。

 教授の講義は厳しいことで有名だ。

 彼の合格点は満点であったことなどない。

 集一も、彼に“ほどほど”と評されている。それ以上に良い評価を受けている生徒の存在を知らなかった。このときまで。

 後になって、隠棲していたスカルパ教授を音楽院に連れ戻したのが、この少女だったことを、彼の姪であり助手をしていたラウラ・スカルパに聞いた。彼がこの少女を“私の天使”と呼んでいることも。

 天使は演奏に心身のすべてをこめているらしく、入ってきた彼らに気づきもしない。

 愉悦を誘う転調。なんという、美しさか。

 やさしい、なだめるチェンバロの旋律。

 明るい太陽が雲に隠れても、必ずまた恵みぶかい陽ざしは地上を照らす。

 そして、あらゆる罪を許す。

 その恩恵を歌いあげる、天使。

 どれほどの苦しみも、哀しみも、天は救いを用意している。悲歎の嵐も、やがては清雅な平安につつまれる。

 緩やかに降りる救済のトリルと、高みに昇っていく慈愛の分散和音。

 その安寧を、丁寧に歌いあげる。

 最後の一音まで、天使は完璧に奏でた。

「Brava! ユイカ」

 拍手で賛美した教授に感謝の視線を向け、その隣に佇む集一に気づいて、天使は驚いた表情をした。立ち上がり、困惑を隠さない微笑を うかべる。しきりに廊下を気にしているようで、視線は扉に何度も向けられた。

 彼女は英語を使った。

「先生、あの……そちらは?」

「彼は生徒だよ、私の特別クラスのね。シューだ」

 教授は、生徒の名前を正確に覚えるのが苦手だ。いつも、自分で勝手に呼び名をつけてしまう。集一など、まだ ましなほうだ。ミケーレと呼ばれている生徒の本名がドナルドであったり、サンドラと呼ばれている生徒が実際にはエレナであったりした。

 彼女も、本当はユイカではないかもしれない。

「……そうですか。初めまして」

 礼儀正しく、お辞儀する彼女に、集一は、ようやく声を絞りだした。何故か、いつものように言葉がすらすらとは出てこない。つかえながらも何とか応える。

「初めまして。あの、レッスンの邪魔をして、申し訳ない」

「いいえ、そんな……」

 すると、教授が快活に言った。

「これも勉強です。ユイカ。昨日、楽譜を渡したヴィヴァルディの『ジュスティーノ』を。アリアだ。彼に聴かせてやりなさい。大丈夫、ケンなら邪魔はしない。私の用事に出向いているから、二時間は戻らないだろう」

 不思議な言葉だったが、それを聞くと天使の表情から不安が消えた。

「はい、先生」

 それから、彼女は早口のイタリア語で教授に問いかけた。

 答えた教授の言葉は単語ひとつだったが。

「Si」

 すると、天使は納得した様子で楽器の前に腰かけた。

「シュー。きみの音楽に足りないものを彼女は持っている。よく聴きなさい。きみにも歌わせたいくらいだが、この時間が終わる前に きみが彼女と二重唱できるようなら、次の機会のために、モンテヴェルディの楽譜を取って来よう。実は、きみと彼女とを歌わせるのは私の密かな希望だったのだ」

 教授は楽しそうに説明した。

「さあ、もっと近くへ。楽器のケースは、そこに置いておきなさい」

 集一は教授に従いつつ、しどろもどろに申し出る。

「あの、先生。僕は歌の授業は、最低限しかしていません。あまり得意ではなくて、とても彼女のレヴェルにはないのですが」

 囁きにちかい集一の声の小ささに呼応して、教授も声を抑える。彼の羞恥を思いやるように。

「解っているよ。きみの歌は聴いたことがないが、オーボエなら、よく聴いた。その、話す声もね。ユイカときみの声は非常に美しく馴染むのだ。きみに声変わりしてほしくないくらいだ。うむ、恐ろしいことだ」

 眉間の皺が消えていることも驚きだったが、その能弁ぶりも非常に珍しい。学者らしく音楽を説明する以外に、これほど彼が喋るのは、想像したこともなかった。

 しかも、完璧な演奏ではなく、完璧な響きをのみ、望むとは。

 チェンバロが豊かに鳴り響く。

 本来は弦が勇壮に刻む音を、巧みなストップ捌きと指づかいで表現している。そして、澄みきった声が甘く流れた。

 うっとりするほど、輝く音楽だ。

 非常に有名な皇帝アナスターヅィオのアリアは、切々と愛を歌う。これは、集一の母が好んで聴いていた曲のうちの ひとつだ。歌詞も一句残らず覚えている。しかし、それを教授に告げるのは躊躇われた。なにしろ音として覚えているだけで詳しい意味は知らないのだ。ただ、愛する人と離れていることと、これから会えるという喜びを歌っている曲らしい、と、ぼんやりと覚えている。とても すぐに歌えない。

 教授が身をかがめ、集一に囁いた。

「愛を未だ身を以て知らない幼い少女が、これほどまでに胸に迫る愛を歌えるとは、神秘じゃないかね? 天使でもなければ、不可能だろう」

「はい」

 集一は、短く答える。

 たしかに、この甘い歌声は先ほどのモテットでの神聖さとは違う。もっと世俗の愛だとでもいえばよいのか。生身の、肉体を伴った愛の歌。

「きみもユイカも、まだ愛を知らない。だが、疑似体験で歌うことはできるだろう。表紙だけを歌うのは私の信念に反するが、きみたちの年齢では致し方あるまい。このアリアは純真だけで歌ってはならないのだが、それでこそ生じる美しさもある。

 さあ、いつでもいい。きみもユイカの声に重ねてごらんなさい。この曲を知っているのだろう」

 集一は驚いた。

「隠しても、解る。きみは知っている曲に出会うと、全身でリズムをとる癖がある。無意識にだろうし、ほかの者には察知できないほど微かではあるし、望むなら秘密にするが、私は、もう誤魔化せない」

 集一のため息を、教授は嬉しそうに見下ろす。

 いつもの気難しさなど、まったく消してはいるが、その油断ならないところは変わっていない。

 覚悟した集一は頭の中で音程をとった。実際に声を出す前に、音の高さを喉に教えるために。

 そして、小さくハミングを始める。

 集中を高め、歌詞の記憶を探る。単語を頭の中で旋律に乗せられるようになったところで、ようやく彼は口を開いた。

 天使が顔を上げ、彼のほうに目を向ける。みどりを帯びた茶色の瞳に、歓びの焔が ともっていた。

 スカルパ教授が両目を閉じる。時折、肩が揺れるのは、おそらく集一の歌の問題点を聴き取ったからなのであろうが、彼は目を開けなかった。

 そして気づいた。

 彼女の声の甘さが、いや増したことに。

 チェンバロの輝きに、なお光沢が加わったことに。

「Il destino」

 教授の口調が酷く緩慢だったので、集一はその呟きを聴き取ることができた。意味までは理解できなかったが。

 翌日、買い求めたCDの解説書で歌詞の意味を確認し、彼は頬が紅潮するのを自覚した。

   よろこびとともに会おう

   かぎりなく愛しいひとに

   この胸の奥は満ち足りて

   愛しき人から遠く離れてあらねば

   漏れる ため息の止むことなし

 皇帝が、これほど感情もあらわにして愛を歌うのかと、日本で育った少年は不思議に思った。この歌詞を書いたのが女性ではないのが、驚きなほどである。

 しかし、あの天使が歌うには、ぴったりな甘美さだ。

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