第4話 ゆめの隣

 カーテンの隙間から日差しが飛び込んできて目が覚めた。


 スー。スー。と自分以外の寝息がすぐ隣で聞こえてくる。起こさないようにゆっくりとその腕をほどくと上体を起こした。


 少しくらくらする。飲み過ぎたつもりはないのだけれど、自棄になっていたのもある。自分を制御しきれなかった様だ。


 ふと視線を落とす。自分より少し、いや。わりと老けた男がそこで気持ち良さそうに寝ている。年上の彼の寝顔はどこか無防備で可愛らしさすらある。


 この寝顔も見納めか。


 綾香は自らに言い聞かせるようにそう呟いた。


 布団から這い出すと洗面台で一通りスッキリさせる。顔をあげて鏡に写った自分を見て少しだけ目をそらした。


 ひどい顔をしている。


 酒もあるだろうが、血色がよくない。低血圧なのは自覚しているがいつも以上に肌の色が薄い。


「顔もむくんでるし……」


 ほっぺたに手を添えながら思わず声が出てしまう。腹の奥から息を吐き出し、肩を落とす。


「なにやってんだろ……」


 自らに問いかける言葉。鏡越しの自分はその答えを教えてくれはしない。


 自分が一番嫌っていた存在に自らなってしまった現状に対して綾香はこのところずっと後悔していた。


 ※※※※※※※※※※※


 綾香の一番古い記憶は母親がヒステリックに叫ぶシーンだ。父親に向かって怒りをぶつけているその姿は、今でも鮮明に残って、離れてはくれない。当時は何が起きているのかわからず隠れていたが、今思えば悪いのは母だった。仕事が人一倍できて、態度も大きく、家の中でも統括していた彼女にとって父親の甲斐性の無さが許せなかったらしい。綾香からみた父親は優しい父親だったし、面倒もよく見てくれた様に思う。正直母親より父親の方が親身になってくれていた。


 けれどそれも小学校に上がるまでの話。


 父親は外にパートナーを作った。家に居場所がなく、しょうがなかったのだと、今なら納得することもできる。しかし当時の綾香には到底信じられることではなくその相手を、人の家庭をバラバラにしてしまったその人を憎んだ。


 そしてそんな生活がなん年も続くはずもなく綾香が小学校六年生になると同時にふたりは離婚を決意した。綾香は母親についていくことにした。本当は父親と一緒がよかったのだが、その相手と一緒に暮らすことに抵抗を覚えたし、経済的に余裕があるのは母親の方だったから仕方がない。でもそれもまたすぐに後悔へと変わる。


 母親はまだ女だった。中学に上がるとすぐに付き合っている人を紹介された。それだけなら綾香は別になんとも思わなかっただろう。しかし、それもまた不倫だった。相手には奥さんも子どももいたのだ。


 その苦しみを知っているはずなのに同じ行為に至る母親が信じられなかった。


 反発しようにも母親は綾香の事は最低限の干渉以外、接触がほとんどなかった。それが良かったのだとも思うが少し寂しくはあった。それ故になのか、それでもなのか。


 大学に入って最初の相手との関係が不倫になろうとは思っていなかった。


 ※※※※※※※※※※※


 ため息が自然と出た。


 その不倫相手がベッドの中で伸びをしている。どうやら目を覚ましたみたいだ。化粧台に座っている綾香に気づくと彼は近寄ってきて後ろから抱き寄せてくる。


 伝わる暖かさが嬉しくもあり虚しくもあった。


「すまないな。こちらの勝手な都合ばかりで」


 耳元でささやかれるその言葉に綾香の心はささくれていく。


「大丈夫。いつかはこうなるってわかってたから」


 嘘だ。


 わかってはいても大丈夫ではない。それは自分自身が一番よく知っている。でもそう言うしかなかった。そうやって自分自身を騙すことしかできなかった。


「そうか。すまない」


 また彼はあやまる。謝られたってどうすることもできないと言うのに。謝ればすむ話でもないのに。


 彼は簡単に謝る。


 彼の奥さんに関係がばれそうになったのはつい先日の事だ。なんてことはない、二人で腕を組んで歩いている所を偶然見られたのだ。ゼミの学生がじゃれていただけだと言い訳をしたらしいけれど、完全には信じてもらえていないらしい。帰りが遅くなるのも頻度が高くて怪しまれているとも言っていた。だからしばらく距離を離さないかと提案してきたとき、もう終わりなんだと綾香は悟った。距離を置いている間に綾香は卒業する。そうすれば彼と会う機会なんて作るしかなく、それをすれば疑っている奥さんの事だ。すぐにばれるだろう。それに綾香は彼の家庭を壊すようなことはしたくはなかった。自分でも身勝手だと思う。


 壊しかけている原因を作ったのは自分だ。それでも自分はどこかでありふれた家庭に憧れているのだと、そう、思う。


 ※※※※※※※※※※※


 高校の頃、このまま家庭を作っても良いのかものと思った男の子がいた。常に前に進みたがっている人だった。最近その人の事をよく思い出す。自分から別れを切り出しておいてもったいないことをしたもんだと思う。彼は優秀で勤勉でそしておそらく誠実だった。ただ、少しだけ常に無理をしているようには見えた。生きること自体に。それが母親に無理して付いていく父親の姿に重なった。それがよくなかった。


 ああ。この人は無理できなくなった瞬間に私から遠ざかる。


 そう思ってしまった。


 あのとき彼にいった言葉は本心だったけれど心の上部だけの言葉。根本はもっと身勝手だ。でもそれに当時は気が付いていなかった。いや気づこうとしなかったの方が正しい。それっぽい言い訳に彼は彼なりになにかを感じていたようだけれど、今思えば彼から逃げたのは自分の方だと綾香は思う。彼が父親の様になってしまうのが怖かった。


 違う。


 自分が母親の様になってしまうのが怖かったのだ。


 ただ、結果として同じような道を辿っている今を振り替えればどちらでも変わらなかったのだと思う。それはとても酷い言い訳にしか聞こえない。とてもじゃないけれど彼には聞かせられない。


 ※※※※※※※※※※※


 彼がシャワーを浴びている間に化粧を済ませホテルから出る準備をする。化粧の発色が悪い。そんな些細なことも全部、別れ話に繋げてしまう自分にたまらずため息が出る。彼と幸せになるつもりなんて始めからなかったのに。


 最初に声をかけてきたのは彼の方だった。ゼミのなかでも目立っていなかった綾香にとってそれは下心を疑ってしまうある種の事件だった。まあ、下心は結局あったのだけれど。


 それでも彼は紳士的に近づいてきたように思う。周りの目を気にしながらの密会もどことなくスリルが感じられ勝手に舞い上がっていた気もする。なんというか大人な関係というもの自体に心が揺れ動いていたのだ。


 ただ、すぐにそういう関係になってしまったわけではない。徐々に徐々に惹かれていった。


 体を重ねたのは本当に最近の話だ。そういう意味では彼は辛抱強かったし大切に彼なりに大事にしてくれていたのかもと思う。それを奥さんに向けてあげればこんなことにはならなかったのにと思わないでもない。その好意を流すでもなくしっかりと受け止めてしまった綾香にそんなことを思う資格がないのだが……そうなっていれば良かったのにと、それだけは本当にそう思う。


 化粧がある程度まとまりかけた頃、彼がシャワールームから出てくる。腰にタオル一枚を巻いているだけのその姿は引き締まっている訳ではない。どちらかといえば年齢相応に重力に引かれている。そしてそれは記憶の中の父親と少しだけ重なる。


 彼に父親から受けていたあの愛情を求めていたのか。


「綾香」


 彼に呼ばれて振り向くと、彼はそっと綾香の唇に自分の唇を重ねてきた。シャワーの温度が残っていて少し温かい。しかし、それとは正反対に心は冷めていく。せっかく塗り終わった口紅が取れた。また塗り直し。そんなことを冷静に考えている自分がいる。


 心は彼にはもう向いていないのを実感して、複雑な表情をしてしまったのだろう。彼は心配げにこちらの顔を覗き込んでいる。なんでもないと告げるが彼は少しだけ勘違いをする。


「ある程度の責任はとる。何かあったら頼ってくれて良い」


 そんなことを言われてもなぁと思わないでもない。もう終わるのだ。


 ふと電話がなっているのに気づく。ディスプレイには母と表示されている。マナーモードになっているそれは自己主張するように小さく震えている。何事だろう。頻繁に連絡が来ない訳でもないが珍しい。


「でなくていいのか?」


 彼が尋ねてくるので首を横に振った。今出たくない。気持ちを頑張ってまとめているのだ、ここで乱されたくない。


「私もう行くね」


 それだけ口にして口紅を引き直す。彼は少しだけ寂しそうに離れた。


 荷物をまとめ、外へでる。


「さようなら」


 彼は同じ言葉を返してくる。そうこれですべて終わり。未練なんてない。そう自分に言い聞かせるように繰り返し綾香は部屋のドアを開ける。


 バタン。


 ありがとう。


 ドアが閉まる直前彼がそう言った気がした。


 それが自分の願いだったのか、彼が本当に言ったのか、それは分からない。彼だけが知っている。でも確認なんてしたくなかった。


 電話が震える。母からだろう。しつこいからにはなにかあったのかもしれない。


 非常階段を出て鉄骨の踊り場で立ち止まると通話ボタンを押した。


「もしもし?」


 久しぶりに聞く母の声に少しだけ心が落ち着く。同時に自らがどれだけ動揺していたかを思い知る。


「どうしたの急に」


「どうしたのじゃないわよ。何度もメールしているのにちっとも返してこないんだから」


 メール?そういわれてみれば最近チェックをしていなかったかもしれない。


「隣の統也君が今日旅立つから見送りに来なさいって何度も送ったのに、あんた今どこにいるの?近くまで来てるんでしょうね?」


 突然、統也とうやの名前が出てきて心が大きく揺らぐ。綾香にとって彼は特別な人だった。


 ※※※※※※※※※※※


 おそらくではあるが初恋だったのだと思う。


 ただ、恋と言われると少し違う気もする。


 甘酸っぱいそれとは違いドキドキやワクワクを彼から感じることはなかった。


 彼からは貰ったのは安らぎが一番近い気がする。転校を繰り返していた綾香にとって統也の存在は唯一の自然体でいられる時間をくれた人だ。今もそんな風にすべてをさらけ出せる相手なんていない。ただ、今、当時と同じように接することはできないのだろうとは思う。


 統也と一度だけ険悪なムードになったことがあった。母の都合で中学を私立の学校に決めたときだ。家が隣同士だけあって、当然の様に中学も同じ時間を過ごすのだとなんとなくそう思っていた。でも、綾香はそれを裏切った。例え本人にその気がなかったとしてもだ。


 それでも統也は最後までふたりの特別な時間を大切にしてくれたように思う。中学に行って結局疎遠になってしまったけれど、時々なつかしさとともに思い出していた。


 ※※※※※※※※※※※


「旅立つってなによ。そんな大袈裟な」


 母はいつも話を盛る。大学卒業間近の今だ。卒業旅行とかではないのかと綾香は疑った。


「大袈裟じゃないでしょ。自転車で日本一周するっていうんだから」


 母のその言葉で記憶がフラッシュバックする。


『俺はあれだよ。自転車で日本一周って』


 あれはいつの帰り道だろう。統也との会話はいつも帰り道だった。


 そうだ。


 将来の夢みたいなことを書かされたその日に彼がそう言っていた。


「なにそれ。ばっかじゃないの」


 そう返しながら綾香は笑っていた。そして同時に涙が少しだけ流れた。あの時も泣きながら笑っていた気がする。彼はどこまで行ってもロマンチストなんだと羨ましくすら思う。


「バカってことはないでしょ。まあ、頭が良いとはお母さんも思わないけど」


 母は嬉しそうに笑っていた。母も同じ気持ちなのかもしれない。


「で、近くまで来てるの?」


「ごめん。今東京」


 電話の向こうで母がため息をついたのが聞こえる。まあ、予想の範疇だったのだ、きっと。


「なにか伝えておこうか?」


 母は気を利かせているつもりなのだろうが、数年間会っていない同級生に送る言葉なんて思い付かないし、彼もそんなのは求めていないだろう。


「なんにもないよ。あっても自分から言う」


 連絡先を知らないことは黙っておく。


「そう。ならいいんだけど。就職祝いもするんだから今度帰ってくるのよ」


 そう母らしい一面を見せる彼女は少し落ち着いたように思う。それもこれもすべては時間が経ったからだろうか。


「わかった」


 思わず素直に返事をしてしまった。


「ん。体には気を付けなさいよ」


「わかってるってば」


「変な恋ばかりしていないでちゃんとした相手見つけなさいよ」


 なにもかもお見通しの母が少し怖くもある。でも、母はたぶん本当にお見通しなのだ。だったら……。


「ねえ。父さんのこと聞いてもいい?」


「なによ急に。改まって」


 母が息を飲むのが伝わってくる。緊張はしているようだが動揺はしていなさそう。


「父さんのこと……ちゃんと愛してた?」


 母が止まる。思い出しているのか、考えているのか。ただ、答えを待つ。


「愛してた……と思う」


 帰って来た答えは期待していたものなのだろうかどうか判断はできなかったけど、その乙女みたいな反応にすこしだけ拍子抜けしたのと同時に安心した。


「なによそれ」


「愛してなかったらあんなにおかしくなんてならなかったわよ。愛していたから変な感じになっちゃったのねきっと」


 母は少し照れ臭そうにそう言った。


「そっか」


 そう答えたもののよくわからないままだ。


「後悔してないの?」


 だからそう続ける。母はまたすこしだけ黙る。


「……それはどっちに、たいして?結婚したこと?別れたこと?」


 どっちなのか綾香も分からないでいた。


「……どっちもかな」


 母はまた静かに考える。


「どっちも後悔してない。不思議ね。そう思うわ」


「そっか」


「でもどうしたの。急にこんな質問。本当に変な恋でもしたの?」


 母は冗談であんなことを言ったのだと知る。ただ、どちらにせよ見透かされているのだ。やはり母なのだと思う。


「してないよ」


 今さっき終わったからとは言わないでおく。


「ならいいけど。ちゃんと統也君に連絡するのよ。それと就職前に一度かえってきなさい。あの人もお祝いどうするって張り切ってるんだから」


 はいはい。と小言が始まりそうなので、適当に返事をして電話を切り上げた。


 ふと、冷たいなにかが頬を伝うのに気がついた。慌てて袖で拭う。でもそれは続けて流れてくる。その頃にはそれが自分の涙なんだと気がついた。しかし、なんで涙が溢れてくるのか分からない。


 後悔していない母と後悔をしている自分を比べたからなのか。夢を叶えようと動いている彼と夢から遠ざかっている自分を比べたからなのか。振ってしまった彼に申し訳なさを感じているのか。振られたことが、悲しいのか。それは涙が止まってもわからないままだった。

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