白球は春風に乗って

桃李 もも

第一試合 山吹の一枝

春のいたずら

 まだ昼下がりではあるが、早くも校舎内には吹奏楽部の演奏が、グラウンドには運動部の声が響く。

 放課後の教室には、開いた窓から春の陽気が入り込み、おのずと目がとろんとしてしまう。


「ハぁっ……ヘックシッ!」


 いや、こりゃ花粉のせいだな……。

 すぐさま窓を閉める。


 今日は始業式があって、新学期が始まったばかりであり、新しいクラスのホームルームも昼前に終わった。

 ここ千葉市立みなと高校のクラス替えは、前年度の成績によって決定される。

 朝の昇降口に掲示されていた名簿には、二年二組の欄に「妙見昇みょうけんのぼる」の文字が書かれていた。一組と二組が特進コースであることを考えれば、まあ上出来といったところだろう。

 放課後になったにも関わらず「おまえもこのクラスになったのかよー」などと軽口を叩ける相手もいない。

 入学の際のクラス分けテストは見事に居眠りをこいて、一年次は一般クラスに入っていたのだから、残念ながら当然の結果である。


 午後の授業はないというのに、なぜか勘違いして持ってきてしまった弁当でぼっち飯をキメる。

 片手間にスマホを弄り出す。

 暇ならさっさと帰ればいいのだが、こうもボーッとしてくると動く気にもなれない。

 さっきまでウトウトしていたせいか、さして食欲もなく、一層だらだらと食べてしまう。


 教室には、俺一人。


 帰宅部の連中はそそくさと帰るし、部活をやっているやつらはさっさと部室やらへ行ってしまった。

 新しいクラスでまだみんな慣れていないのだろうし、そりゃそうだよな。

 やっとこさ弁当箱を空にし、重い腰をあげる。

 本当にやることがなくなったので、仕方なく教室をあとにすることにした。


 野球部のものと思しき、名状しがたい怒声のようなものが、昇降口に通ずる廊下にまで響いてくる。

 いや、ほんと何言ってんのかわかんねぇ……。日本語でいいから……。

 うぇーい、うぇーいという謎の怪音波を発しているその様は、ワンチャンウェーイ系大学生顔負けである。


 それに、部活をやっていない身としては、変にやつらに寄りついて謎の劣等感をつつかれるのも嫌なのだ。

 そもそも「部活をやっているやつは正義、やってないやつはクズ」みたいな風潮がおかしい。

 まあ、お前も部活をやっていた時は「これこそが青春」みたいな顔をして、やってないやつらを見下していたじゃないか、と言われたら返す言葉がないが……。


 しかし、春が人をおかしくさせるのか、それとも花粉で頭までやられたのか、ボケーっとした意識のまま、何気なく足取りはグラウンドへ向かっている。


 枯れた噴水で精一杯フランス式庭園を気取った中庭を通り、体育教官室のある棟との間を通り抜ける。

 久々に高校野球とやらを眺めてもいいかと思い、サッカー部員たちの向こう側、グラウンドの奥の土が黒くなっているあたりに目をやった。その時——。


 それは全くの突然だった。


 ——ゴッ


 という鈍い音とともに、頭に強い衝撃を覚えた。


 音が消える。


 あれっ、と思う間もなく視界が上方に向かう。さっきまでいた校舎が視界の隅に入ってくる。


 ああ、今日の空はこんなにも青かったんだ。


 いや、そんな場合ではない。

 死に際というものはそういうものなのだろう。恐らく、かなり危機的な事案が発生しているにもかかわらず、変に頭は冷静で、余計なことを考えてしまう。

 これはまずい。

 グニャグニャと腰が砕けていく。

 時間の進みが遅くなった一瞬を経て、体は脆くも仰向けに崩れ落ちた。


 何が起こったのだろう。


 二階から花瓶かびんでも落ちてきたのだろうか。

 ああ、もしかすると、これ、異世界転生しちゃうやつか……。


 んな訳ない。早く誰か救急車を呼べよ。


 動かす気にもなれぬ口の代わりに、心でつぶやく。



 すると、なにやらグラウンドの方から、ザワザワとぼんやりとした声のかたまりが聞こえてきた。

 どこか聞き覚えのある、硬い金属のようなカチャカチャとした足音が、駆け足でこちらに向かって来る。

 複数人と思しきそのカチャカチャは次第に大きくなり、声は次第に鮮明になる。


「ヤバい……ヤバいよこれ」

 口々にヤバいヤバいと言っている語彙力豊かな女子たちの声が聞こえる。


「大丈夫ですか?」

 騒然としている中で、一人冷静な声で問いかけてくる。

「あ……だいじょう……ぶ……です……」

 俺はぐったりしながら答えた。


 状況を少しずつ把握して落ち着きを取り戻してくると、今度は左こめかみの上あたりにズキズキとした痛みがやってきた。


 声の主は、仰向けに倒れている俺の顔をぐっと覗き込んでくる。

「意識はあるようね……」


 まっすぐな黒髪を青いキャップの後ろからひとつに結わえた少女。きりりとした涼やかな顔立ちは、やや汗をかいているためか色っぽくさえあった。


 いや、そんなことより彼女は、とにかく「普通の女の子」ではない格好をしている。


 深い群青ぐんじょうのアンダーシャツに、紺と白の上下とつや消しの黒いベルト。シャツと同色のストッキング、スパイクは……白地に青のライン? 二色とか高校野球でいいのかよ。


 見回すと、まわりの女子たちも皆、野球のユニフォームのようだ。

 数人が遅れて走ってきているのが見え、あわせて十人ばかりの女子たちが、わらわらと俺のまわりに集まってきていた。


 考えてみれば、うちの高校には女子野球部があった。でも、珍しいなと思っただけで、気にもかけていなかったし、まあ実際自分とはたいして関係のないことだ。見かけたこともあまりない。


 察するに、これは打球か何かが俺の頭に直撃したということなのだろう。


「ど、どうするかねぇ……」

 さっきのひとつ結びさん――たぶん正確にはポニーテールではないはず――のとなりから、やや鼻にかかったような声が聞こえる。

 ため息をついた彼女は、隣に転がっているその忌まわしいボールと思われるものを拾った。


 やっぱりだけど……硬球!


 ショートカットに触覚をミョンミョンさせた彼女は、ボールをこねくり回しながら、どういう処置をとるべきかひとつ結びに指示を仰ぐと、後ろの方に駆けていった。

 触覚の彼女が向かった先には、ウィンド・ブレーカー姿で上背のあるスラリとした女性が立っている。


 あ……あれは確か国語のなんとかっていう先生だ…………。

 えっと…………なんか変な名前の……高……なんとか。高木? 違うな……。

 女子野球部の顧問なのか。知らなかった。


 とりあえずその高なんとか先生は触覚と話しながら、黒髪をなびかせ落ち着いた足取りでこちらに歩いて来る。

 しかし、二人並ぶとかなりの身長差だ。

 先生も背が高いが、触覚のほうもかなり小さい。


「君……意識はあるか?」

「はい……大丈夫です……」

 先生の問いかけに、できるだけ平静を装って答えようとするが、なんとも死にかけの落ち武者のような声しか出ない。

「どこに当たった?」

「ここです……」

 頭の左側を指で指す。

「自分の名前は言えるか?あと生年月日」

 確かでありながら物腰の穏やかな声色に、おのずと安心させられる。

「二年二組妙見昇です……。九月十七日生まれ……住所は千葉県千葉市——」

「ありがとう。もういいぞ。しばらく動かないでくれ」

 そう言うと、先生は他の部員たちにそれぞれ指示を出し、俺の隣で膝をついて看病スタイルをとっているひとつ結びになにやら耳打ちすると、少し離れてスマホを取り出しはじめた。


 ……ん?


 ひとつ結びがこちらに向き直して、微笑みをたたえて言う。


「安心して。もうすぐ救急車がくるわ……」


 ……えっ…………。


 なにそれまじかよ、そんな重大なの?

 さっきまでは、すわ死ぬか救急車はよ! と思われたが、今になるともっと穏便に解決して欲しくなってくる。


 不安を目で訴えていると、ひとつ結びがそれに答える。

「硬球が当たったのだから、念のため診てもらったほうがいいわ。大事ではないとは思うのだけれど……」

「そうだね。一応だよ。なんせ硬球が頭に当たると死んじまう人がいるくらいだからサ」


 隣の触覚が余計なことを言ってくれたおかげで、不安がさらに加速された。


「ま……まああれだヨ……安心して待っていてくれ……」

「モモが打った球でこうなったのよ。少しは反省してくれるかしら」

「お、おう……」

 触覚少女が少しひるむ。


 向こうでは、指示を受けた別の部員が先生のスマホで電話をしている。

 おそらく、先生は全体を見渡さねばならないので、電話は部員にやらせるものなのだろう。


「あなたが打ったんですか?」

 俺は尋ねた。

 すると、触覚は急にぎょっとした顔になった。

「うっ……すいません……」

 責任を感じて更に小さくなる彼女を見ると、言い方が悪かったかと少しかわいそうになってくる。

「いや……そんなつもりじゃなくて……」

「気にしなくていいの。それよりあんまりしゃべると体に毒だわ」


 そうこうしているうちに、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた——。

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