バイバイ、モノクロームデイズ。

「萌えだっ!」


 いきなり何の話だろうと、俺は娘を撫でていた手を止めて、シャルを見遣る。


「これぞ萌え! 分かりますか!」


 分からない。いつも思うが、俺の妻は大体がして突拍子も無い言動が多い。だが表情が豊かなのは、コミュニケーションが苦手な俺にとっては嬉しいことでもあり、別に文句があるわけではない。そもそも、彼女のそうした言動を楽しんでいる自分がいるのも、否定しがたい事実である。


「ねえ、おかあさん、おかしくなっちゃったの?」

「…どうだろうな」


 それを言えばいつもどこかしらおかしいのかもしれない。そう思ってもさすがにそのまま口にするのは気が引けたので、結局どう言えばいいか分からず曖昧に返したが、


「ラファ? 私としては否定してくれることを期待したんですけど?」


 …それはそれで問題があったようだ。


「ああ、すまん」

「全然すまなそうに聞こえません!」


 逆鱗に触れたらしい。


「ところで何の話だったんだ?」

「な、なんという華麗なスルー…」


 またしても良く分からない理由で驚愕している。わざわざ口で「ガーン!?」とかいう音を発しているのも良く分からない。娘のサクラも目を白黒させてシャルを見ていた。


「ああサクラちゃん、何でもないんですよ。でもこう、大きくて怖い生き物とちっちゃくて可愛い生き物の組み合わせって、見た目の怖さに反する可愛い一面とか、可愛い見た目とそれが演出する健気さの相乗効果とか、何と言うか、こう、色々とグッと来ると思うんです!」


 つまりどういうことなのだろう。


「萌えです!」


 やはり分からん。


「とにかく、サクラちゃんもラファも、凄くイイってことです!」

「サクラいい? すごくいいの?」

「そうですよ、サクラちゃんはサイコーですよ!」

「うわあー!」


 今日も我が家は賑やかだ。前は、騒がしいのは苦手だと思っていたのに、この騒々しさはどうしてか心地良い。


 少し、昔のことが頭を過ぎった。


 そもそもの話、俺は昔から感情の起伏が少ない人間だった。どういうわけか、俺の記憶にはほとんど色彩と言うものが無いのだ。


 もちろん、空が蒼かったことも、木々が緑だったことも、そして、痛みと共に流れた血が赤かったことも、覚えてはいる。


 しかしそれは、単に情報として覚えているだけで、実際、それらの情景を思い浮かべようとしても、ただ色の抜けた、味気ない光景にしかならず、蒼かったはずの空も、緑だったはずの木々も、赤かったはずの鮮血も、どれも現実味の無い、荒漠とした世界の中の出来事だった。


 古馴染みのウォンがあれこれお節介を焼かなかったなら、多分俺は早々に社会から脱落していたことだろう。


 その頃の俺にも、唯一、認識できていた色があった。音楽だ。


 俺は、音楽の表現する全てにあこがれていた。おかしな話だ。現実に自分の五感を刺激する、いわば本物には感慨が湧かないのに、音楽が表現するそれらには、なぜか心を動かされる気がした。


 静かな潮騒を繰り返す碧い渚。風に心地よい葉ずれの音を響かせる深緑の木々。轟音と混沌の中に神々しさを感じさせる自然の力。熱を持ってぶつかり合う心。


 俺にとってはどこか遠い世界のものに感じるそれらを、音楽は確かに存在する現実のものだと教えてくれた。そして、それを表現することにあこがれた。


 しかし、残念なことに、俺にその方面の才能は皆無だった。ああいった芸術は、特別な人間が、相応の努力を重ねてやっと実現できるものなのだ。それは良く分かっていた。


 二度と楽器に触れないと決め、親父に戦い方を教えてくれと頼んだとき、親父が飛び跳ねんばかりに大喜びしたのを見ると、中々悪く無い選択だったと思う。ただ、今にして思うと、いつも威厳に満ち満ちていた親父が喜悦満面ではしゃぎ回る姿は、正直、不気味の極致だった。


 そういった紆余曲折はあったものの、俺は音楽という存在の美しさだけは、いつでも感じていたし、いつまでもどこかでそれを追いかけていた。他の音は、俺にとっては色あせた雑音のようだった。騒々しいのは嫌いだった。


 そうして、傭兵になり、シャルに出会った。


 まず、その音楽に魅かれた。技術的に上手い演奏家なら、この広い皇都だ、他にもいるだろう。だが、シャルの底抜けに明るく、陽気な演奏に、まんまと嵌ってしまった。


「ラファ、見てくださいこの小さくて可愛い生物! こんちくしょう、これを正義と呼ばずして何と呼ぶ!」


 サクラを抱き上げてはしゃぐシャルに、当然俺も否定の言葉など無い。


「さて、ラファ。私がなぜ今、この話をしているか分かりますか?」

「分からん」

「ふふふ、それはですね…」


 ニヤリ、とわざわざ口で音を立てて笑うシャル。


「明日は私たちの結婚記念日なのですよ!」

「…?」


 よく、わからない。


「ラファ? まさか忘れてたなんていいませんよね?」

「いや…」


 忘れてはいない。いないから、殺気を向けないでくれ。というか、それらの間に何の関係があるというのだ。


「結婚記念日、それすなわち、私たちが家族になった記念日です! だから、家族の良さをとことん思い知、いえ堪能しましょう!」


 なぜかギラギラと目を輝かせるシャル。


「ふふふ、本当は私がやってもいいんですけど、普段は表情筋に神経が通っていないラファがサクラちゃんマジックによってでれでれとだらしなく緩む姿をこの目に焼き付けたいですしね…」


 シャルは時折思考が口から垂れ流しになることがある。今日も何やらおかしなつぶやきが漏れ出てきたが、聞かなかったことには…出来そうにない。


 それに、ほんの少しだが、シャルの言いたいことも分かる。


 言葉を交わした当初こそ挙動不審だったものの、すぐに全く物怖じせずに俺に接するようになったシャルに、俺の中に好意的な感情が芽生えていったのは、当然といえば当然なのだろうが、俺としてはかなり意外なことだった。


 ほとんど音楽とそれ以外で表されていた俺の視界が、突如鮮やかに開けた。それは俺が俺でなくなるような劇的な変化で、それまでの世界が何倍、何十倍にも広がったと錯覚してしまうほどだった。


 俺の世界に新しい色が加わったのだ。それをもたらしたのはシャルであり、さらに言えば娘であり、つまりは目の前の二人に他ならず、今の俺の宝だ。何よりも大切な。


 忘れているわけではないが、それをこういう機会に確かめるのは、方法はさておき悪いことではないと、俺も思う。


「さあ、もっとサクラちゃんを愛でてください! その不機嫌な熊のごとき見た目に不似合いな和やかな空気を駄々漏れさせてください!」

「…おかあさん、あたまこわれちゃったの? だいじょーぶ?」

「気にするな」


 シャルは少々思い込みが激しかったりする面があり、わけの分からない方向に突っ走ることもあるので、サクラも幼いなりに心配しているらしい。


「ああサクラちゃん! サクラちゃんは可愛すぎますよ! 私を悶死させる気ですか!」

「もんしってなーに?」


 微笑ましい家族の団欒に見えなくも無いが、何かズレてるようにも思えるのは、俺の気のせいなのだろうか。


 ぎゅうぎゅうと音がしそうなほど、サクラを抱きしめているシャル。


『サクラっていうのは、私のおばあちゃんの故郷で、春に咲くお花の名前なんですよ』


 小さな赤ん坊が生まれた時。シャルは言った。


『薄い桃色で、いっせいに咲き誇るんだそうです。私は見たこと無いんですけど、それはそれは絢爛な光景なんだって、おばあちゃんが教えてくれました』


 サクラ、それが天使の名前か。おかしなもので、そのときの俺は、目の前でもぞもぞ動く赤ん坊を、本気で天使かもしれないと思っていたのだ。


 それをシャルに言ったらなぜか『グハァ! こ、これが純粋培養天然ピュア男の、威力なのか!?』などと鼻血を出し始め、医者が駆け込みそれを見た看護師は叫び、大変な騒ぎになったのは良い思い出…ということにしておきたい。


 とにかく新たに加わった家族は、見る間にすくすく成長し、今では元気な盛りで家の中や周りを転げまわっている。そしてそれをゆっくり眺めるのが、最近の俺の密やかな楽しみだったりする。もっとも、シャルには俺も一緒に観察されていたようだが。


 まあ、良い。


「ほら、サクラちゃん、お父さんが恐ろしげな顔立ちと慈愛のこもった視線という相反する要素を両立させた不可思議な現象を見せていますよ!」

「ふかしぎ?」

「そうです。だからサクラちゃんは、お父さんに抱きつく義務があります。ほら!」

「? はーい!」


 腑に落ちない顔をしながらも、シャルにそそのかされてまた飛び込んでくる娘を俺は抱き上げた。うわあ、と高くなった視界に喜んでいるサクラ。そんな俺たちを生暖かい目で眺めるシャル。


 やはりシャルの頭の中は良く分からないが、これはこれで家族のあり方の一つなのかもしれない。仲が悪いわけでもなく、お互いに確かに想い合っているのは間違いないのだから。


 しばらくシャルは俺たちを観察していたが、少し経つと、なぜか段々と苛立った表情になり、やがて痺れを切らしたように地団駄を踏み、


「くう、やっぱり私も混ざります!」


 見てるだけは無理でした! そう叫んで抱きついてくるシャルに苦笑する。そんな自分の表情すら、以前の俺からすれば驚くべき変化だ。


 シャルと出会い、俺の周りは随分と騒がしくなった。昔の俺の世界は、確かに静かで、変化がなく、さざ波ほどにも心乱されることの無い、それはそれで平穏なものだったとも言える。それでも、今は別のことを思う。


 こういう色鮮やかで賑やかな日常も、なかなか悪くない。


「ラファ、明日は美味しいものを食べに行きましょう!」


 せっかくの記念日ですし、やっぱり料理を作るのは難しいです。顔をしかめながらそう言って腕に抱きつくシャルの頭を一つ撫でる。サクラは期待のこもった目で俺を見上げている。


 そうしてまた俺の心に暖かい色が広がる。 


 それを心地良く感じながら、分かりやすい二人に再び苦笑いを落として、行くとしたら、シャルとサクラが喜ぶのはどの店だったろうかと、俺はゆっくりと思いをめぐらし始めた。



*** おまけ ***


<解説、ラファの父>


父「もうすぐ俺も父親だな。父親らしく威厳を見せなきゃなんないかな。よぅしがんばろー」

母「大丈夫かしら…」


 ラファ、生まれる。


父「(キリッ)」

ラファ「…(ぼけー)」

父「(ドヤァ)」

ラファ「…(ぬぼー)」

父「(効果が無い、だと…!?)」

母「プッ(嘲笑)」


 でも今更やめられず、でもラファは相手にせず。進展せぬまま時は過ぎ。


父「(ど、どうしよう)」

ラファ「…(ぼやー)」

父「(ちょ、マジでどうすりゃいいんだ! もう今更キャラ変えらんないよ!)」

母「(どーでもいいわ)」

ラファ「…(ぐー)」

父「…(泣)」


 だがある日突然に。


ラファ「剣教えて」

父「うっほほーいっ!!」


<END>

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