第35話

 丸斗敦子(まると あつこ)。私がこの世に生まれた時に、お父さんとお母さんが付けてくれた名前だ。



 ずっと私は、その名前の持つ有難みと言うものがよく分からなかった。ごく自然にお父さんやお母さん、そして先生が苗字や名前で呼び、それに私が反応する。様々なプリントや習字の宿題に、何も考えずに私の苗字と名前を書く。そんなごく普通の日常の中では、いちいち自分の名前を意識する事なんて無いかもしれない。

 でも、ある時から私は、自分の名前が奪われたような感触を覚えていた。『丸斗敦子』という名前では無く、『ブタ子』と言う名前を無理やり付けられ、逆らう事のできない存在の言いなりになるしかない、そんな日々を過ごす事になってしまったのだ。気づいた時には、私は『ブタ子』と呼ばれる事が最早自然になってしまっていた。私の本当の名前を誰かが呼んでくれる機会が、次々に奪われてしまったのだ。


 そんな中で、私はとても大きな存在と出会った。勇気を貰い、心の中の不安を消し去ってくれたお陰で、私は崩れかけていた自信を取り戻し、夢に向かって歩んでいく事を知った。もしあの時の出会いが無ければ、私はずっと『ブタ子』のままだっただろう。

 そして、初めてイケメンさんに私の名前を教えた時、返ってきた言葉は、綺麗な名前だ、と言う事だった。その時から、私にとってイケメンさんのイケメンさんの口から告げられる私の本名――丸斗敦子と言う単語は、特別なもの、そして非常に重要なものとして、私の心に響くようになっていた。


 そして、私たちは図書館の近くのいつもの場所を離れた。 



「あ、あの……あそこのベンチじゃ……」

「悪いな、他の人には言えないことだから。

 あ、勿論変な事はしないから安心してくれ、な?」


 イケメンさんは一瞬慌てていたけれど、勿論そんな事をする訳はないというのは分かっていた。でも、先程まで座っていたベンチではなく、図書館の傍にある暗がりに入った事からすると、相当重要な何かがあるのかもしれない、と私は考えた。建物と塀の間のこの空間には一応歩道はあるけれど、外のどこにも繋がっておらず、図書館の職員さんたちも滅多に利用しない。二人っきりで内緒の話をするには、まさにうってつけの場所だろう。


 そして、少しだけ深呼吸をした後、イケメンさんは私に尋ねた。初めて出会った時の事を覚えているか、と。

 勿論、私はしっかり覚えていた。夕方の帰り道を歩いていた私に道を尋ねてきたのが、イケメンさんとの初めての出会いだった。そして図書館で『偶然』再会した事をきっかけに、今の関係が始まったのだ。


「……そうだよな、さすが敦子だよ。よく覚えてくれてたな」

「い、いえ……曖昧ですいません……」


「いや、大丈夫さ。俺にとっては、覚えてくれていただけでも……」


 少し言葉を詰まらせた後、覚えてくれていただけでも嬉しい、とイケメンさんは返した。その顔には、どこか儚げな笑顔が覗いていた。


「それからさ、色々と話したよな……ブタを食べるか食べないか、毎回のテストの事に……」

「本当に……色々とありましたね……」


 自然に言葉を返したけれど、私にはイケメンさんの言葉が、まるで今までの思い出を整理するように聞こえ始めていた。例えるならば、引越し前の荷造りの時に、思い出の品を見つけてその場所で過ごした日々を振り返るように。きっとその時から、私の顔は不安の色に塗られ始めたのかもしれない。

 そして、再び一呼吸置いたイケメンさんが、ある事を私に尋ねた。最初のデートの時、映画の話をした事も覚えているか、と。


「え、映画……そ、そういえば確か……思い出しました、確か『鶴の恩返し』の映画ですね……!」

「おぉ、やっぱ敦子は凄いな……俺でも忘れかけてたのにさ」


 冗談を言いつつ、イケメンさんは優しく私の頭を撫でてくれた。いつもならこれだけで私の心の中の不安は消え、優しい心や未来へ進む勇気が生まれてくるはずなのに、今回はいくら心地よい感触でも、不安や心配が消えることは無かった。それに加えて、どうして突然その映画の話が出てきたのか、と言う事に対する疑問も心を包み始めてしまった。

 でも、もしここでそれを尋ねたら、イケメンさんの悲しそうな顔をまざまざと見てしまう事になるかもしれない。いつも優しく格好いいイケメンさんが悲しむ姿は、私にとっては耐え難いものだった。そして私自身が不安に苛まれているような時は、なおさらそういう感情が溢れていた。


 結局、私はそのまま何も言葉を返せず、黙り込んでしまった。

 すると、イケメンさんは静かにしゃがみこんで、顔を私と同じ目線にあわせ、優しい顔を見せながら言った。


「なあ敦子、確認したい事があるんだ。

 敦子の夢は、『大学の生物教授』だよな?」

「は、はい……」


 私の夢は、大学の教授になって、色々な生き物の神秘に触れる事。イケメンさんや学校の事務の先生との交流の中で見つけることが出来た、大きな目標だ。

 突然そのことを聞いた理由は、イケメンさんの妙な、そしてとても重要な言葉で明らかになった。


「……大学の教授って、『おとぎ話』なんて全部嘘だ、って言ったりはしないよな……?」

「え……う、うーん……た、多分全て嘘だとは……」


 不意を突いた様な不可解な質問だったけれど、その優しい一撃のお陰で、私の心の不安や疑問がほんの少しだけ薄れた。そしてその隙を縫うかのように、私はイケメンさんに図書館の本などで得た知識を例として説明した。四国のキツネはタヌキに追い出されたという話があるけど、実際に四国にはキツネが少ない事。タヌキが化ける動物だといわれるようになった要因に、死んだふりが得意であるという説がある事。一見してファンタジーに見えるおとぎ話でも、現実世界と十分繋がる要素がある、そう私は伝えた。

 ありえない事でもも、『ありえる事』かもしれない、とも。


 正直に言ってしまうと、本心半分、勢い半分で私はこの言葉をイケメンさんに伝えてしまった。この後に起こることなんて、全く予想していなかったからだ。



「……ありがとう、敦子。これで俺も、決心がついた」


 だから、イケメンさんのこの言葉を聞いたとき、私は一瞬唖然としてしまった。一体何の決心をしたのだろうか、それは私にとってどんな事態を引き起こしてしまうのか。あっという間に頭の中に色々な考えがよぎる中、それを断ち切るようにイケメンさんははっきりとした口調で私に告げた。先程までの儚げな、思い出をつむぐ様なものとは全く違う、決意に満ちたような言葉だった。



「……敦子、ずっと秘密にしていて悪かった。

 今から、俺の『名前』を教えるよ」

「……え!?」


 それは、突然の発言だった。

 

 私はずっと、イケメンさんの事を『イケメンさん』とばかり呼んでいた。相手側がずっと本当の名前も明かさず、住所も年齢も何もかもが謎だったという事もあるかもしれないけど、いつの間にか私の中で『イケメンさん』と言う名前がまるで本名のように自然に口に出るようになってしまっていた。本当の家はどこにあるのだろうか、と探ろうと考えていたときでさえ、『イケメンさん』の家を探したい、と違和感無く考えてしまっていたほどだ。

 でも、こうやって私と接し、町でショッピングを楽しみ、そしてレストランで腹いっぱいご飯を食べている身分のイケメンさんには、間違いなく本当の名前が存在する。それを知る機会が、突然訪れた訳である。


「そ、そんな……ご、ごめんなさい……」


 急に申し訳ない気分になり、またまた私は謝ってしまった。ずっと『イケメンさん』が本名を教える機会を私自身が奪っていたのではないか、と勘違いしてしまったからである。勿論、すぐにイケメンさんは私の考えを否定してくれた。


「敦子には申し訳なかったけど、ずっと秘密にしていたんだ。今日のためにな」

「きょ……今日のため……」


 そして、イケメンさんは私の目をじっと見ながら言った。

 今から起きる事は、『おとぎ話』のような事かもしれない。でも、全て真実、夢ではなく本当の事だ、と。



「だから、俺を信じてくれ」


 直後、私の額に、イケメンさんの額の感触が伝わった。硬いけれど暖かい、と感じかけたその瞬間だった。


 突然、何かがどっと私の中になだれ込んできた。学校の風景、町の賑わい、図書館で借りた本、美味しいご飯、悲しい思い出、嬉しい記憶――まるで卒業アルバムが脳内に無理やり挿入されたかのような感触だった。そう、本当に何がなんだか分からないうちに、私の頭の中に、私が覚えているはずの記憶とは違う別の『記憶』のようなものが進入していたのである。最初からずっとそういう経験をしてきたかのような、私以外の誰か――目の前にいるイケメンさんが経験したような様々な思い出が。

 あまりにも強烈な事態に、頭痛でもなければ目眩でもない、言葉にしがたい感触を覚えた私は頭を抱え込みながら、道の上に座り込んでしまった。今もこの感触をどう書けばよいか分からない。当然だろう、他人の『記憶』が誰かの脳内に一瞬のうちになだれ込む経験なんて、誰もした事がないのだから。多分。


「……い、おい、だ、大丈夫か!?」


 一瞬意識が飛んだ後、次に気づいた時には、私の体はイケメンさんの大きく力強い腕に支えられていた。いきなりひどいことをして申し訳ない、済まない、とイケメンさんは必死になって謝り続けていた。幸い、すぐにおかしな感触は引いていき、私の頭に入り込んだ様々な思い出も何とか整理されていった。

 この時、私は薄々とイケメンさんが何をしたのか把握していた。イケメンさんの願いを受け取らないわけが無い、と言う感情も大きな要因かもしれない。何かよく分からない、おとぎ話にありそうな手段を用いて、イケメンさんが今までに感じた事や思ったことを記憶と共に私に伝えた事を。

 私が今まで知らなかった、イケメンさんの秘密も含めて。



「……あ、あの……」


 静かに尋ねた私に、同じようなトーンで『イケメンさん』は返事をした。


「……これが、俺の『記憶』、そして『本名』だ」


「そ……そう……だよね……」


 一体どのような言葉をかければよいのか、そもそもどのような言葉遣いにすれば良いのかすら、私には分からなかった。


 信じて欲しい、と強い念を押した上で、秘密にしていたような記憶をもイケメンさんは私に伝えてくれた。だから、これがきっと真実なのだろう、と私は考えていた。そもそもイケメンさんの言葉を疑うような事なんて到底出来ないし、真っ向から批判するなんて持っての他かもしれない。でも、今回ばかりは、私はどうしても完全に信じる事ができなかった。


 美味しい食べ物、学校の校舎、夕暮れの空、暗い家、そして藁が敷き詰められたベッド――イケメンさんの『記憶』の大半が、私の学校の飼育小屋にある『ブタさん』が見た光景であると言う意味を……。

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