第6章 イケメンさんの名前

第33話

 その異変が起きたのは、イケメンさんと約束を交わした次の週からだった。


「ほんとだ……全然食べないな……」

「そうなんです、ご覧の通り……」


 動物たちの飼育小屋の掃除を担当している私と友達三名、そして生徒たちと共に動物の面倒を見ている事務の先生も、今までになかった反応に頭を悩ませていた。特に、一番戸惑っていたのは私かもしれない。いつもたくさんの野菜や果物、ペレット食材などをあっという間に平らげてしまうはずのブタさんが、普段の半分だけしかご飯を口にしなくなっていたからだ。体の方は至って元気のようで、少し狭い飼育小屋の中をうろうろしたりのんびりと眠ったり、いつも通りの日常を送っているように見える。でも、何故かご飯の量だけが減ってしまっているのだ。事務の先生曰く、特に高熱を出していると言うわけでもないらしい。

 病気なのだろうか、精神的なストレスか何かだろうか、ただの思春期じゃないか、などなど勝手気ままな意見が飛び交い始めたとき、ブタさんが突然一声鋭く鳴いた。そしてそのまま奥の方へ向かい、うずくまってしまった。まるで自分は大丈夫だ、いちいち心配しないでくれ、と不貞寝を決め込むかのようだった。


「正直、私もこう言うのは初めてだからなぁ……」

「い……いつもブタさんは元気だったんですか……?」

「そうだよ、風邪もひかずに下痢もせず、健康優良なブタだったはずなんだが……」


 いくらブタさんとよく交流している私たちでも、流石に体の調子を直すと言う専門的なことまでは分からない。とりあえず、今週はご飯の量を減らし、それでも様子がおかしかったら獣医さんに診断してもらう、と言う事になった。


「……本当に大丈夫かな……」


 それでも、私の心配は収まらなかった。もし重篤な病気が知らぬ間に進行していたらどうしよう、私たちのブタさんが、大変な事になっていたら、この先どうなってしまうのだろうか、と。でも、星野さんは事務の先生の言う事を信じるように諭し、そして励ましてくれた。先生はずっと動物たちの面倒を見ている、だから何か異変があったらすぐに分かるだろう。


「それに、ご飯を食べてるんでしょ?

 わたしの母さん言ってたんだけどさ、ご飯さえ食べてればどんな病気でも何とか持ちこたえるって」


 餅は餅屋、蕎麦は蕎麦屋。今まで私たちより長い時間、ずっと学校の動物たちの事を把握している事務の先生のお墨付きなら、きっと何とかなるだろう。ブタさんの無事を祈りつつ、私は何とか元の気力を取り戻した。

 そんな教室への帰り道、話題はすぐにブタさんの体調不良の原因へと移った。いきなりご飯の量だけ減るという妙な話、ブタさんの身に何が起きたのだろうか、皆で色々と考えていると、ほっそりとした眼鏡の男子生徒である白柳君がこんな事を言った。


「もしかしたら――何か悩んでいるんじゃないかな?」

「え、ブタが?まさか、あいつら呑気にご飯食べてばかりじゃん」


 がっちりとした体格の三神君は、良くも悪くもいつもの調子でその考えに反発していた。力自慢で部活でも大活躍の彼だけど、楽観的で面倒くさがり屋、この前のテストのカンニングの時のように色々と強引な一面もある。それに、言っては悪いかもしれないけど、弱いものに対して強く出てしまう事も多い。多分このときはその標的がブタさんだったのだろう。

 当然、私はすぐにそんな事は無い、と反論を言いそうになった。ブタさんは頭の良い動物、人の顔も覚えるし、芸だってこなせる。鏡に映った自分の姿も把握してしまうほどだ。そして、ストレスを感じてしまうと落ち込み、体調を崩してしまうこともある繊細な心の持ち主である。学校や街の図書館で得た知識を盾にしようとした時だった。それと全く同じ内容を、私よりも強い口調で星野さんが伝えたのだ。


「そ……そうなのか……ブタって……」

「現にさ、前にブタの事を馬鹿にしたとき、あんたからの食べ物一口も食べなかったじゃん」


 馴れ馴れしいような態度を見せて自分の優位を示そうとしたとき、大概三神君は星野さんのような鋭い意見を聞くとたじたじになってしまうようだ。白柳君の方も、知らなかった、と言いながら彼女に驚きの視線を当てていた。でも、星野さんはすぐに二人に告げた。この知識は自分のものではない、横にいる動物のプロから教えてもらった、と。


「ぷ、プロ……そんな事ないよ……」

「いやー、私たちにとってはプロだよ?一番動物たちとふれあってるわけだしさー」

「あ、ありがとう……」


 やはり、まだ私はこうやってべた褒めされるのが少し苦手だった。嬉しくない、と言うと嘘になってしまうけれど。


 するとそれに対抗するかのように、再び三神君が攻勢に乗り出してきた。動物の事は確かに詳しくなかった、でもこちらには膨大なスポーツの知識がある、と。ワールドカップの試合も、毎日録画して家族でじっくり見ているようだ。ただ、すぐに星野さんの方もそれくらい自分だってやってる、自慢する事じゃない、と反論を投げかけた。あっという間に話題はブタさんから、スポーツが得意な二人の言い争い、そして互いの知識のぶつけ合いに変わってしまっていた。

 蚊帳の外に追い出されてしまった形の私に、同じ状況になってしまった白柳君が言った。


「――まぁ、人それぞれ、なのかもしれないね。僕たちには僕たちの、それにブタにはブタの」

「……そうかもしれないね」


 そう言う白柳君も、国語の作文や美術など創作の分野でいつも活躍している。確かにテストの得点だと私の方が上になってしまう事もあるけれど、作文などの学内コンクールでは度々名前が出るほどだ。

 人それぞれ、そしてブタさんも含めて、色々な事情を抱えているのかもしれない。私と白柳君、眼鏡をかけた生徒同士、そう結論付けた。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ただ、結局私たちの中で、ブタさんに何があったのかと言う最初の議題の結論は出なかった。論点が別のところに移り、曖昧になってしまった答えを見つけ出すかのように、学校を出る前に私はもう一度飼育小屋を訪ねた。


 小鳥たちはいつも通り元気に舞い、ニワトリは小屋の中を歩き続け、カメものんびりと日常を過ごしていた。だけど、ブタさんだけその流れから取り残されたかのように、飼育小屋の中で静かに、そしてどこか寂しそうに佇んでいた。どうしたのか、と言う私の問いにも答えず、後ろを向いて再びうずくまってしまった。

 やはり体調が悪いのだろうか。もしそうだとしたら、ブタさんのためにも、そして私のためにも、あまり長居しないほうが良いだろう。


「……じゃ、じゃあね……また明日」


 そう言って去ろうとしたとき、一瞬だけ私の目に、うずくまっていたブタさんの表情が見えた。そのつぶらな瞳は、うっすらと涙で濡れているようだった。

 でも、その時の私は、涙の理由が一切分からなかった。ブタさんが心の中で深い悲しみと決意を抱えていた事も……。

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