前奏、それは不協和音



 綾小路邸の門が開かれ、鏑木家のロールスロイスが滑りこんでくる。

 使用人たちは、いつものように玄関前に並んで主人の婚約者を出迎えた。

 車から降りてきた鏑木は、温和な笑みを浮かべながら一人一人と言葉を交わした。

 誰にでも公平で優しい鏑木は、世間では人格者と評判であり、綾小路家の使用人たちにも人気があった。それゆえに彼とその前妻たちの不幸な結婚には、大いに同情を寄せていた。

 鏑木は蘭子への贈り物を家令に手渡すと、早速に女主人へ会いに行った。

 血のような赤いドレスを身に纏い、化粧をした蘭子の支度は万全で、いつも晩餐を共にするダイニングルームの隣の控え室にて鏑木を待っていた。膝には愛犬のルイを乗せ、その背を撫でてやっていた。

 蘭子を見た瞬間、鏑木は大きく両手を広げて破顔した。

「やぁ、蘭子さん。今日もまた格別にお美しい。今をときめくスター女優を百人集めても、あなた一人分の輝きにもなりますまい」

 しかし、蘭子の態度は素っ気なかった。

「惟光様、女優とは卑しい身分の女がなるものでしょう。あくまで支援者パトロンあっての商売、舞台を下りれば殿方にこびを売らねば生きてゆけぬと聞きました。そのような者たちと、妾を一緒になさらないでくださいませ」

 氷のように冷たく気取った返事に、鏑木もたちまち憮然ぶぜんとする。

「あなたを侮辱するような意図はありませんよ。ただ蘭子さんの美貌に、敬意を表したかっただけです。まさか『女優』に目くじらをたてるとはね。どうしてそういちいち突っかかるのです。可愛げない」

「……」

 可愛げないと言い切られ、蘭子は押し黙る。

 確かに彼女は美しかったが、それ以上に人を寄せ付けない鉄壁の冷たさがあった。自身も最近ではそれを自覚し始めていた。否、それは故意の冷淡ではない。これまで使用人以外の人間を知らなかったゆえに、他人との距離が上手く掴めないのだった。

 それに蘭子は、最近鏑木と慣れ合うことに警戒の念を持っていた。

 探偵を雇うまでもなく聞こえてくる鏑木の過去は、偶然では片づけられない危うさを孕んでいるような気がした。彼に対し、地震や火山噴火を察知して逃げる動物のような、本能的な忌避すら感じていた。いずれは夫婦となって睦み合う仲だ。こんなことではいけないと自分を戒めながらも、蘭子の表情は石のように固かった。伯父の忠次の弁ではないが、やはり結婚は早計すぎたかもしれない。だが、大々的に婚約を発表してしまった以上、結婚を取りやめるのは難しい。

 主人の不安を察したのか、ルイが鏑木に向かってキャンキャンと吠えた。ルイは咲だけでなく、鏑木にも懐かなかった。

 鏑木は、蘭子の膝の上で吠えるルイを忌々しげに見つめた。

「ルイ、お黙り」

 視線を感じて蘭子が叱ると、ルイは吠えるのをやめた。鏑木は気を取り直し、エスコートするための右手を差し出した。

「さぁ、女性は愛嬌ですよ蘭子さん。愛嬌がなくてはどんな美人も台無しです。どうか私の前では笑ってください。それから、俗な知識を披露するのもよくありませんね。女性は黙って男の話を聞き、時々相槌を打つ位が丁度良いのです」

「それではまるで人形ではありませんか。妾は……いいえ、もう止めましょう」

 こんなところでいさかっていても仕方ない。

 蘭子は諦めたように首を振り、鏑木の手を取って肘掛け椅子から立ち上がった。

 それが会話の切り上げの合図だった。ルイを控えていたさくらに預け、ダイニングルームに入る。

 これから始まる晩餐に、少し不穏なものを感じながら……。

 

 

 ロココ調式の豪華な調度品で飾られたダイニングルームは、家具、壁紙に至るまで眩しい程の純白で統一されていた。

 長いダイニングテーブルの上には、磨き上げられた銀器が並べられ、中央に置かれた白磁の花瓶には見事な胡蝶蘭こちょうらんが活けてあった。

 蘭子と鏑木は黙って着席し、気まずい空気の中、食事が始まった。

 銀のトレイを持った咲が入ってきて、二人の前にスープ皿を置いた。皿の中には琥珀こはく色のコンソメスープが入っていた。

 蘭子はスープをひとさじすくって飲んだ。そして、「ん」と怪訝な声を上げた。

 もう一度スープを飲んだ。やはり味は同じだった。彼女はおもむろにスプーンを置くと、背後に控えていた咲を呼んだ。

「咲、これは何」

 咲は、澄ました顔で答えた。

「コンソメスープですが、何か」

「そんなことはわかっています。この味はどうしたのかと聞いています」

「はぁ」

 咲は理解できないのか、困惑の色を浮かべた。

 蘭子は咲を見据えたまま、重ねて尋ねた。

「このスープは誰が作ったの」

「……いつも通り君塚料理長でございますが」

「いいえ、君塚はこんな得体の知れぬ風味にはしません。惟光様もいらっしゃるというのに、よくもこんな下品なものを。早く下げなさい」

 咲は蘭子の険のある声に恐縮し、おろおろと視線を泳がせた。

「大変申し訳ございません、お嬢様。すぐに厨房に申し付けまして作り直させます」

「そうね。早く行きなさい」

 蘭子は、入口をちらりと見て咲に退出を促した。

 そのまま咲がスープ皿を持って、おとなしく出て行けば蘭子もそれ以上咎めなかっただろう。

 しかし、今夜は違った。

 何を思ったのか、咲は引き下がらず、蘭子の目を見つめて挑発的に言い放った。

「ですが、お嬢様。今夜は調理法を変えたわけではございません。いつも通りの味つけのはずです」

「……」

 まさか使用人に反論されるとは思わず、蘭子は言葉を失った。

 しかも相手は、雇って一ケ月ほどの女中である。

 蘭子の命令には従順である咲の、初めての反抗に驚いてもいた。業務の慣れからくる慢心だとしても、客の前で主人に恥をかかせるような言動はあり得ない。

 真向いで、二人の会話を聞いていた鏑木もはたと手を止めた。彼も、何故咲が突然蘭子に逆らったのか理解できなかった。

 蘭子が少し語気を強めて言った。

「何を言っているの。幼い時からこのスープを飲んでいるのよ。妾の舌は誤魔化せません」

「恐れながら、お嬢様のご体調によって感じ方が違うだけでは……」

「……お黙りなさい。口答えは許しませんよ」

 蘭子は叱咤の意味を込め、ナプキンを外すとテーブルにパンと叩きつけた。

 そこに鏑木が助け船を出した。彼は彼で先程の控え室での不愉快なやり取りから、心中で蘭子の鼻を明かしてやりたい気持ちがあった。

 ここで窮地の使用人を助けてやれば、屋敷内での自分の株は上がるはずだった。

「蘭子さん、どうしたんです。大きな声を上げて」

 すると咲は逃げるようにテーブルを回り込み、鏑木の側へ行くとその場にひざまづいた。

「鏑木様、どうかお助けくださいませ。お嬢様はスープの味をわかってくださりません。このままでは……私の上司である料理長が罰せられてしまいます」

 咲の懇願に、鏑木は安心させるように微笑んでみせた。

「わかった。私が話してあげよう」

 鏑木はスプーンを持ち、急いでスープを一口飲んだ。

 彼も何度も君塚の料理を味わっていたが、蘭子の言うような風味の違いは感じられなかった。

 ……強いていうなら少し苦味があるくらいか。

 彼は調理する際に、アクを取り切れなかったくらいにしか思えなかった。

「確かに、前回飲んだ時より味付けが濃くなったような気がする。しかし、私は気にならない。蘭子さん、あなたは少し神経質すぎやしないか」

 蘭子は使用人に良い顔をしようとする鏑木に、怒りを通り越して呆れた。

「維光様、女中を庇うおつもりですか」

「スープの味を彼女に当たっても仕方ないだろう。これは料理長の責だ。よし、私が厨房に行ってこよう」

 しかし、蘭子は鏑木の提言をぴしゃりと撥除はねのけた。

「あなたがそのようなことをする必要はありません。この家の主人は妾です」

「だが、蘭子さんが厨房に行くわけにもいかないでしょう。かといって、料理長を呼びつけて叱るのも見苦しい。食事が不味まずくなる一方です」

 鏑木は、些か乱暴に椅子から立ち上がった。

 すると咲は、鏑木の腕にひしと縋りつき、蘭子には見えないよう鏑木の腕を柔らかな胸に押しつけた。厳しい女主人の懲罰に怯えているのか、まなじりには薄らと涙が浮かんでいる。媚るような上目遣いは、明らかに鏑木の同情を誘っていた。

「鏑木様、お止め下さい。良いのです。私が如何様いかような罰でもお受けします」

 弾力に富んだ胸の感触に、鏑木の声は少し上擦うわずった。

「咲、君は……」

 テーブル下の痴態を知らない蘭子は、主人の威厳を保ったまま冷厳に言い放った。

「咲、よい覚悟だこと。維光様、その者は妾の食事係です。口出しは無用です」

「蘭子さん、弱い者いじめはおやめなさい」

「弱い者いじめなどしておりません。さぁ、惟光様。席におつきになって」

 そう言われても、鏑木も今更引き下がれない。決然と、首を真っ直ぐ横に振った。

「いや、それは承服できない。彼女を助けるまでは」

「なんですって」

「蘭子さん、あなたも私の妻になるのなら、もっと下々の者に寛大になりなさい。たかが前菜一皿の話じゃないですか。ここは許してあげなさい」

 蘭子の頬が怒りで薔薇色に染まった。唇を噛み、ドレスの裾をぎゅっと握る。

「そうですわね。仰る通り、たかが前菜一皿の話です。……そう、妾が思い違いをしておりました。あなたに綾小路家の繊細な味はわかりませんわ。おわかりになるのは、せいぜい芋のスープの、芋の格の違いくらいでしょうね。馬鈴薯ばれいしょ男爵様」

 蘭子の厭味いやみに、今度は鏑木の顔がさっと青ざめる。

 「田舎者」とそしられたのには彼も我慢できなかった。

「蘭子さん、いずれは夫となる私に、よくもそんなことを」

 鏑木は低く呻きながら蘭子を睨みつけた。が、蘭子も一歩も引かない。

 二人は数秒の間、睨み合った。

 やがて、蘭子は椅子から立ち上がり、無言のままドレスをひるがえしてダイニングルームを出て行った。これ以上は何を言っても無駄と思ったのか、鏑木との食事自体を放棄したのである。

 出て行った蘭子と入れ替わりに、さくらが入ってきた。

 彼女は主人がおらず、また咲が鏑木に縋っている状況が呑み込めず、二人の顔を交互に見た。

「咲。鏑木様。一体、何があったのです。お嬢様はどちらに」

「……」

 二人が答えないのを見て、さくらも何か察したのだろう。早々に部屋を出ていく。

 パタパタと階段を駆け上がっていく音がした。二階の蘭子の部屋へ様子を見にいったに違いなかった。

 不意に、ダイニングルームにダンと大きな音が響いた。

 咲が音をした方を見ると、鏑木が怒りの形相で右腕を壁に叩きつけていた。

 振動から窓がギシギシと音を立て、カーテンが揺れた。

「……毛唐め」

 鏑木は腕を震わせながら、低く罵倒した。蘭子の容姿に対する、差別と偏見を凝縮したような一言だった。

 彼の腕の震えが収まるのを待って、咲が案じるように問いかけた。

「鏑木様、大丈夫でございますか。お水をお持ちしましょう」

「ああ、頼む」

 鏑木はほとほと疲れたのか大きく息をつき、ポケットからハンカチを取り出すと何度も額を拭った。

 

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