第28話:「あんな変態と結婚するなんて!」

 周恩来は汪精衛がいってしまうのを見届けると、蒋中正の元に歩み寄った。

 「先輩、大丈夫ですか……?」

 蒋中正は言葉を返さなかった。周恩来は彼女の様子を見て、緊張しながら彼女の正面にまわった。

 彼はそこで、蒋中正の表情をはっきりと目にすることになった。

 彼女が普段みせている自信に満ちた表情はすでにそこにはなかった。彼女はただ唇を固く結んでいるばかりで、顔色は蒼白になり、深く落ちくぼんだ目は充血しているのだった。兵士たちの前でイメージを保つため、彼女は努めて自分の情緒をコントロールし、嗚咽の音さえ漏らさないようにしていた。

 他の人間が見れば、今の彼女は事件の善後策に頭を悩ませているように映ったことだろう。けれど周恩来には、この表情が、彼女にヨーロッパ留学に出掛けることを伝えた時に彼女が浮かべたのと同じ表情として移ったのだった。

 (先輩、涙を見せないように耐えているんですね……)

 周恩来の心中で、ある種の言葉にできない衝動が沸き起こった。

 (余計なことを心配している場合か! 男ならやる時は一気呵成にやっちまえよ!)

 この時、彼の脳裏には毛沢東がさっき彼を責め立てる時に口にした言葉が蘇って来た。

 (先輩のこんな姿は、このまま見ていられるものじゃない……!)

 そして、彼は考えを巡らせる暇もなくこう口にしていた……「先輩、報告することがあります。お時間を頂けますか?」

 不意に彼がそんなことを口にしても、蒋中正は頭を振ってこう答えるだけだった……「話があるならここでしろ」

 「いいえ、これは一刻を争うことです」

 蒋中正は驚いて彼を見詰めた。そして彼の真剣な面持ちを目にし、尋常でないことを認めると、戸惑いながらも頷き返し、周恩来と一緒に軍営を離れることになった。

 「毛沢東、お前はここに残って情報整理をしてくれ! 戻ったら報告頼むぞ!」

 「えっ? ちょ、ちょっと……」


 二人が校長室に戻ると、周恩来はドアにカギを下ろし、すぐに口を開いた……

 「先輩、ここでは僕と先輩の二人だけです。僕に話してください。一体何が起こっていたんですか? あの変態は一体あなたに何をしたんです!」

 「翔、翔宇! ま、まずは落ち着いたらどうだ?」

 「僕は冷静ですよ! いえ、仮に冷静でないとしても、今の先輩よりはずっとマシです!」

 蒋中正はまた唇を噛むことになった。周恩来はこう続けた……

 「話してください! 今の先輩の姿は、とても見ていられませんよ!」

 そう言われても、蒋中正は黙ったままだった。

 彼は静かに彼女が口を開くのを待った。

 しばらくして、彼女は勇気を振り絞ってこういった……

 「……もし、私が汪精衛の妻となることが中山女史の遺志だと言ったら、お前は信じるか?」

 「やっぱりその事が関係していたんですね……」

 「やっぱり?」

 「すみません。実は僕が校長室の外で控えていた時に、先輩とあの変態の会話が聞こえて来てしまったんです。けれどドア越しだったので、会話の詳細は分からないままでした。先輩が、どうして結婚などするわけがあるか、って怒鳴ったところだけが聞こえたぐらいで……」

 「盗み聞きしてもいいなんて言った覚えはないぞ」

 「すみません」

 蒋中正はそれ以上責め立てるようなことはせず、顔を伏せたまま、左手で腰に帯びた「中正」をきつく握り締めていた。苦痛の表情を浮かべながら、彼女はこう続けた……

 「さっき汪精衛が私に言ったのは、私が奴の伴侶となって、共にこの国家を管理していく、というのが、中山女史の遺志だという話なんだ……」

 「まさかそんなことが……」

 「私はずっと考えていたことがある。これは奴が考え出したゆさぶりに過ぎないんじゃないかと。奴は私にとって中山女史がもう一人の親のような存在であることを知っている。だからそんな戯言を弄して私に打撃を加えようとしているんじゃないかと……だが、一方で私はこうも考えてしまうんだ。そのせいで心が不安に苛まれる。ほんとうのところ、中山女史はどう考えていたんだ? もし奴の言うことが本当に彼女の意志だったら、私は一体どうすれば……」

 蒋中正が不安そうに内心を打ち明けるにつれ、彼女の肩は震え始めていた。

 「私だってここが正念場だということは理解している。今、精神を集中させ、しっかりと今回の暴動の善後策を練らなければならないと。けれど、私にはできない、できないんだ……くそっ、私は一体どういればいいんだ?」

 周恩来は彼女の弱弱しい姿を目の当たりにすると、これまで感じたことのない憤りを抱くことになった。

 彼の内心は火が放たれたようになった。

 「先輩は絶対にあんな変態と結婚するべきではありません!」

 彼は自分自身の立場も忘れて、そう叫んでいたのだった。

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