第20話:「私は無条件で信頼するぞ!」

 二人が宿舎を出たのは、すでに黄昏時だった。

 橙色の夕陽が二人が通り掛かった無人の運動場を照らし出していた。周恩来は毛沢東を先に行かせながら、自分は顔を伏せつつ李之龍との会話を思い起こしていた。

 「ちょっといいか」

 周恩来が沈みがちな声でそういうと、毛沢東はその場で足をとめ、振り返って彼を見詰めた。

 「うん? 何か話か?」

 「うん……」周恩来は呟くようにいった……「さっきのことなんだけど、お前にちゃんと謝らないといけないと思ってね」

 「謝る?」

 「もしお前があの場にいなかったら、僕は最後には喧嘩別れしてしまっていたところだろうと思ってね」

 「お前が言いたいのって、つまり実際のところ李之龍の話は信用できないってことか?」

 「彼を信じていないわけじゃないよ、ただ彼は先輩に対して偏見を持っている。今回の件はそのことが影響していると思うんだ」

 毛沢東は不満そうに口を尖らせた。

 「まだそんなことを言ってるのか? 之龍同士がお前の『先輩』をコケにしたことが忘れられないって?」

 「そういうんじゃないよ。僕は彼がめちゃくちゃ言ってるっていうんじゃなくて、もっと別の方向から今回の事件を見直しているってだけさ」

 「別の方向?」

 「彼の供述を聞いてから、今回の事件はまるで見えざる手によって醸成されたもののような気がしているんだ。先輩が今回の件に関わっている可能性は大きくないと思う。先輩は自分から僕に、現段階では聯露容共政策を維持すると言っていたし、それに今は北伐のために猫の手も借りたいぐらいな状況なわけだ。仮に一万歩譲って、先輩が僕たち小組を片づけようとするとしても、今このタイミングを選ぶことはあり得ない。北伐は先輩に言わせればとても重要な任務なんだ。彼女が北伐の進展に影響が出るようなことをするとは思えないんだよ」

 毛沢東は声を発することなく、両手を腰の後ろにまわしながら、静かに周恩来の分析に耳を傾けていた。

 「同時に、李之龍同志が言っていたことも事実には違いない。あの命令状が実際に存在するかどうかという前に、彼は汪精衛の命令を受けたということを供述している。もし彼が嘘を吐いているとしても、汪精衛に確認すればすぐにばれてしまうような嘘だ。彼がそんな低レベルな嘘を吐くとは思えないだろ」

 「あっ! 分かったぞ! 今回の事件は汪精衛が裏で糸を引いているって考えてるんだろ」

 「有り得る話じゃないかな。彼が中山艦に何をさせようとしていたかはともかく、それはただの口実に過ぎない。もし彼が事前に事の運びを先輩と協議していたら、先輩が中山艦を引き留める道理はない。僕には彼の目的が何か分からないけど、今回の件にはもっと別の目的があると思うね」

 「ふん! もしそれが本当の話だったら、私はあいつを絶対に許さないからな!」

 「これは僕の憶測に過ぎないよ。確証も得られていないし、他に人がいないから君に話しているんだ。他所でこんな事言うなよ」

 「分かってるよ! 私のことをバカにしてるのか!」

 周恩来は少し気まずそうに頭を掻きながら、こういった……「まあ、要するにその……これだけの事を知ることができたのも、君が間に割って入ってくれたお蔭ってわけだ。感謝してるよ」

 毛沢東は僅かに顔を赤くさせた。

 「か、感謝なんてしなくていいし! 私はただ、こんなくだらない事件のせいで同志たちが傷つけあうのなんて見ていたくなかっただけだ! そもそもそんな事を言えば、お前が最初から李之龍同志の話を信じていれば、喧嘩なんか起こらなかったんだからな」

 「どうかしてたよ……先輩の右腕として働いているっていう職業病だろうけど、相手が誰であろうと、話を鵜のみにするってことができないんだ。だから彼を疑ってかかっているように見えるんだろうな……」

 「それじゃダメだぞ。信頼とは態度だ。もしお前が同志を信じないというなら、同志たちだってお前のことは信じてくれない。同じ志を抱いた同志たちの間ですら、彼らの信頼を掴むことができないなら、どうやって見ず知らずの人間の信頼を勝ち取るっていうんだ? どうやって私たちの理想に共鳴して貰えるんだよ?」

 「それは……」

 周恩来はとっさに言葉が浮かんでこなかった。彼には普段騒いでいるだけだと思っていた彼女が、突然別人になってしまったように思えて、反駁することもできなくなってしまったのだった。

 毛沢東は周恩来が驚きの表情で自分を見詰めているのに気付くと、軽い歩調で彼の前まで近づいて、こういった……「私はお前のことを信じてる。お前だけじゃない、私は全ての同志たちを無条件で信じることができるんだ」

 「無条件で信じるって……李之龍同志を信じるみたいにってことか?」

 「その通りだ。たとえ彼が小組に加入する時の儀式にちょっと顔を出したぐらいの関係だとしても、私は無条件に之龍同志を信頼する。きっと彼も同じように信頼しているだろうからな」

 「ふむ……」

 最近は彼女とよく一緒に行動していたせいで、周恩来はゆっくりと忘れかけていた事実があった。

 彼の目の前にいるこの少女は、自分の面倒をみる能力すら持っていないようで、仕事の態度だって普通の人間とは差があるが、それでも彼女は共産主義小組の創設者なのだ。

 彼女の心中にある理想的な社会を宣揚するため、彼女はこの乱世の時代に漕ぎ出す決心をして、様々な方法で彼女と同じ理想を抱いた人間や、彼女の理想に感化された人間たちを呼び込んで来たのである。

 周恩来もまた彼女の理想によって改変された人間の一人だった。

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