第15話:「冤罪ですよ!」

 (あの時は、まるで先輩を一人日本に残していくような気持ちだった……)

 日本で過ごしていた一年の間、二人は睡眠時間以外、ほとんど一緒に行動していたのだった……演習、授業、甚だしきは連休も一緒にあちこちを見て回っていた。

 彼らはあの一年間に、壊しようもない堅い友情を培っていたのだ。彼女はまた周恩来の家族を除くと、初めて自分を字で呼んだ女性ともなっていた。

 この時代、人々は本来の名前の他に、自分の家族や恋人、特に親しい友人にだけ呼ばせている字を持っていた。周恩来の場合は「翔宇」というものだ。他人の許可なく、字でもって呼びつけることは、極度に失礼な行為とも考えてられていた。

 (『気にするな。これはお前にとってチャンスだろう。お前はもっと大きく前進して、国のために力になるんだ。私のことなんか気にしてお前の将来を間違えるなんてことはあっちゃならないぞ』)

 当時の蒋中正はそんな風に言っていたものの、彼は彼女を捨てて行くのだという感覚は払しょくできなかった。その感覚は、ずっと彼の心に刺さったままとなっていたのだった。

 「よし。お喋りはここまでだ。お前も用事があってこんな所まで来たんだろう?」

 彼が昔の記憶にふけっているのを見抜いたかのように、蒋中正はわざとそんな風に話を現実へと引き戻した。

 「李之龍に関することです」

 蒋中正は「李之龍」という名前を耳にするや、思わず眉をひそめ、顔をこわばらせた。

 「彼は先の任務で功績を立てたばかりです。どうして突然憲兵に捕らえられるなんてことに……」

 「勝手に軍艦を動かし、謀反を企てた可能性がある。理由はそれだけで充分じゃないか?」

 「な、なんですって! なんだって彼がそんなことするっていうんですか?」

 周恩来は信じられないという面持ちで蒋中正をみた。

 「翔宇、その問題に答える前に、先に中山艦が今どこに停泊しているか確認してみたらどうだ」

 「中山艦は広州城の母港に引き返したんじゃないんですか?」

 蒋中正は頭を振ると、彼の目の前の床に腕を突き出し、指で床板を突いてみせた。

 「違う。ここだ。黄埔軍校の軍港内にある」

 驚きで目を見張っている周恩来を無視して、蒋中正はこう続けた……

 「私としても原因を知りたいところだが、中山艦が広州城からここまでやって来たのは事実だ。それだけで軍艦を勝手に動かしたという罪状になる。軍校に対して事前連絡もなく、また深夜に停泊してきたわけだ……そうだ。お前が私に恵州での戦闘報告を行っていたあの時だ。奴の目的は現時点では不明だが、最悪の場合、私としては反乱の罪で全ての乗員を処刑することも考えている」

 「そんなことはするべきではありません! きっと冤罪です! 考え直してください!」

 「私は可能性を口にしたに過ぎないよ。事件が発生してからまだ数時間しか経っていないし、明らかになっていない点も多すぎる。今は憲兵が奴を取り調べているところだ。私は憲兵からの報告を待って、処理を検討したいと思っている」

 「分かりました。先輩、一つ頼みたいことがあります。私に今回の件の調査を任せてくれませんか」

 「お前だって私がそんなことを許可するとは思っていないはずだ。お前の考えは明らかだからな」

 「先輩!」周恩来は激情も露わに、体を前に乗り出した。「あなたは僕がどんな人間かご存じのはずです! たとえ僕が共産主義小組の人間だとしても、決して私情を挟むことは有り得ません!」

 「お前がどう考えていようが、他人から見れば同じことだ。そんな基本的なことも分からないというのか?」

 「で、ですが……」

 「ですがじゃない、すでに私が決めたことだ」蒋中正の頑なな口調の中には、このやりとりを煩わしく感じているような響きが含まれていた。「今回の調査は憲兵に一任してある。この件に関してお前は……」

 「そういうことでしたら、僕としても先輩の決定を尊重します。ですが、それでも僕は

独自に調査を続けるつもりです」

 「翔宇!」蒋中正は声を荒げていった。「今日のお前は一体どうしてしまったんだ? 普段の冷静なお前はどうした?」

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