第16話 伊佐神の予知能力

 伊佐神は禁煙して八年になる。しかし、いまこの時ほど禁煙を後悔したことは、ない。

 全館空調は管理されており、室内はクールビズ基準に則った温度が常に保たれている。

 伊佐神は真紫色のスーツ姿で、うすい青色レンズのサングラスをかけているのだが、その下の両目は極度の緊張のため一点を見据えたままである。

 

 本社五階の社長室。

 約百平方メートルはある室内は、用途によって仕切ってあった。

 伊佐神は来客と応対するための一番大きな部屋で、デスクに向かって座っている。英国ジョージアン王朝時代の家具様式を、現代風にアレンジしたデスクであり、上質なマホガニーの突板と本格的なグレージング仕上げが、高級感を引き立ている。


 壁には備え付けの書架があり、経済の専門書から純文学まで幅広い書物が並べられている。

 デスクには最新型のパソコンが二台設置されていた。


 部屋の中央には八人がゆうに座れる高級革ソファに、デスクと同じ材質のテーブルが置かれている。

 南に面した窓につるされたブラインドカーテンの隙間から、朝の光が差しこんでいた。


 伊佐神は机上に置かれたコーヒーカップには手をつけず、ただじっと座っている。

 ソファに深く腰掛けて陶器のソーサーを左手に、右手でゆっくりとコーヒーを口元に運んでいるのは、みやびであった。


「へええ、社長、いいPCパソコン使っているなあ」


 突然耳元で声をかけられ、伊佐神はビクンッと身体を硬直させた。何の気配もさせずに、いつの間にか珠三郎が伊佐神のすぐ隣に立って、机上のパソコンを見入っているのだ。


「い、いつの間に。

 ああ、これはわたくしが、仕事で使用するやつでございます」


「社長、株式や先物のトレーディングもやっているんでしょ」


「へ、へい」


「この悪環境の中で、結構稼いでいるらしいじゃん。たいしたものですなあ」


 珠三郎はグヘヘヘッと笑いながら、伊佐神の肩をポンポンと叩いた。血の気の多い部下が目にしたら、思わず袋叩きにしてしまうような気楽さだ。


「お、お褒めいただきやして、恐縮っス」


 しかし伊佐神は、かなり年下の珠三郎に言われたことが嬉しいいのか、頭をかいた。


「んー、そうだな。この計算式を」


 珠三郎は伊佐神の横に立ったまま、身体を器用にねじり、机上のキーボードを打ち始める。その指の動きは、映像フィルムを高速回転させているような、とんでもない速度であった。

 伊佐神は革張りのチェアからのけぞるような態勢で、驚愕の表情を浮かべている。


「フーン、ンンン、フフーンン」


 珠三郎は奇妙な音階の鼻歌交じりで、最後にエンターを押下した。


「よいしょっと。社長は、株式の信用取引やってるんでしょ」


「え、ええ」


 伊佐神はパソコンの画面を、食い入るように見つめている。


「ボク、株式投資は趣味じゃないから運用はしないんだよーん。だけどね、パソコンソフト開発は趣味のひとつですう」


「存じあげて、おりますが」


「アルゴリズムを使う投資方法は多々あるけど、来週早々に相場が始まったら、そのデスクトップに〈ラブリー・みやび〉っていうアイコンを出してるから、起動してみてみて。

 グフッフッ、信用取引に関わる買い建ちに売り落ち、から売りに買い戻しを、瞬時に保証金枠いっぱいまでドンドンやってくれるよう。

 しかも、あまり目立たないように売買してくれるから、証券監視委員会に要らぬ腹をつつかれることもないように、ちゃーんと考えてありますよう。

 社長の持ってる財力でそのソフト使えばさ、アッと言う間に、ねっ」


 珠三郎はニヤリと不敵な笑顔を浮かべ、伊佐神の肩を肘でグイグイ押した。


「えー、アタシがなんだってえ」


 みやびは飲み終えたコーヒーカップをテーブルに置いた。


「みやびちゃんの、アルバイト代をアップしてもらう交渉なんだよーん」


 珠三郎の言葉に、みやびの大きな瞳がキラリと輝く。


 コンコン。社長室の入口ドアがノックされ、きっちり五秒後にガチャリと開かれた。


「社長。ナーティ白雪さまがお見えでございます」


 洞嶋は一礼をし、後方に立つ巨大な来客に入室をすすめた。


「お待たせしちゃって。本当に申し訳ないわあ、藤吉さん」


 外側に開かれた入口ドアの幅いっぱいに、巨体がのっそりと入ってきた。

 直後、伊佐神は間違いなく見た。ナーティの姿が現れ、みやびと珠三郎と同空間の存在になった瞬間のことだ。

 バチイッ! そのいびつな三角地帯に、あの日夢で見た、薄緑色の閃光が走ったのを。


~~♡♡~~


 洞嶋は社長室に設置してある給湯室から、新たに淹れなおしたコーヒー四つを器用にトレイに乗せ応接ルームに運んだ。

 テーブルをはさんで、右側に伊佐神、ナーティ。左側にみやび、珠三郎と並んでソファに腰を降ろしている。


「失礼いたします」


 洞嶋はひとつずつ、丁寧にソーサーに乗せて湯気に薫るコーヒーを置いていった。伊佐神は胃腸が弱いため、真夏でもアイスコーヒーは飲まない。


 セーラー服姿のかわいい女子高生、太った河童のような不気味な若者、そして相撲取りかと勘繰るゲイバーのママ。


 秘書室長という表の顔で社長を守護してきて、早や三年。数々の修羅場をくぐりぬけ、大抵の事には動じない肝の据わった藁人形のレイも、さすがに目の前の珍客には驚いている。

 しかしそんな感情はおくびにも出さず、耽々と秘書としての役目をこなしていく。


「失礼いたしました」


 洞嶋は最初に出していたコーヒーカップ三つをトレイに乗せ、お辞儀をすると社長室を退出した。


 社長室は完全防音のうえ、窓はすべて防弾ガラスを設置している。

 静まりかえった室内には、空調の音がやけに大きく聞こえる。室内用の芳香剤はあるが、ナーティの香水が匂いを凌駕していた。


 伊佐神はゴクリ、と喉を鳴らした。

 今日、ここへ三人を集めたのは伊佐神である。自分が口火を切らねば、と焦っているのだが思考と舌の筋肉がかみ合わず、しゃべることができないのだ。


 それも、そのはず。

 目の前に座る三人は、この国を厄災の危機に包みこまんとする雍和に対して、唯一撃退し葬ることのできるチカラを持つ者たちであるからだ。


 この国の人々は、まだ誰も気づいていない。

 まもなく経験したことのない恐怖が、幕を開けようとしていることを。

 全貌を知っている、いや予知する能力を持っているのは伊佐神だけなのだ。


 幼いころより勘が鋭い子だと言われていた。

 勉強はできた、というよりもテストに出る問題が事前にわかってしまうのだ。

 家の稼業が嫌いで、だから大学は首都圏を選んだ。N市へ帰るつもりはなかった。

 経済学部を卒業し、外資系の証券会社へ入社したのもその理由による。


 その頃から伊佐神は、先を視ることができるチカラを自分は持っているのではないか、と思うようになっていたのである。

 試験勉強の時と同じように、株式相場がどう変化していくのかが先読み出来てしまうのだ。


 予知能力を確信したのは、先代組長が抗争で命を落とした時であった。


 六代目組長、つまり伊佐神の実父で、たったひとりの肉親が亡くなるということを、夢の中で視てしまった。そして夢が現実になったのだ。


 稼業は忌嫌っていたが、実の父は厳しくも優しい面を持っており、伊佐神は心の底では尊敬していた。父は子分たちからも、随分と慕われていた。

 その親が、無残な姿に変わり果てる予知夢を視てしまったのだ。


 血のつながった肉親の死を、事前に知ってしまう。

 伊佐神はあわてふためき、取るものも取りあえず首都圏からN市へ新幹線で向かった。しかし、父親の死を止めることはできなかったのであった。


 先を視ることはできても、未来を変えることはできなかったのだ。


 伊佐神は自分の異能力を初めて呪った。知らなくていいこと、知りたくないことでも視てしまうチカラを。


 そして雍和の出現およびみやびと出会う、一ヶ月ほど前のことだ。

 伊佐神は経験したことのない、全身が引き裂かれるような、想像を絶する苦痛に見舞われた。

 三日三晩、高熱にうなされ病院のベッドの上でもがき苦しむ。

 配下の幹部たちは寝ずにつきそうも、担当する医師は首をかしげるだけであった。原因が不明なのだ。


 幹部の中には医師にドスをちらつかせながら、なんとかしろと脅す輩もいたが、医師には点滴を打って寝かせておくしかできることはなかった。


 四日目の朝。

 伊佐神はまるで何事もなかったかのように、目覚めたのであった。

 熱でうなされながら未来を視ていたということを、寝ずの看病をしてくれていた多賀にだけは話した。

 この国が、阿鼻叫喚あびきょうかんの地獄に変貌していくさまを、克明に説明する。


 多賀は伊佐神の語る話を聴きながら、熱のせいで悪夢を観ただけだと思ったことは口には出さなかった。


 普通の人に、そんな世迷言を信じろというほうが無茶であった。


 伊佐神は退院後、自宅で療養しながら何度も視た夢を反復する。


 父親である六代目が惨殺される未来を感知しまった時には、絶望一色に塗りつぶされた幻影しか予知できなかったのであった。


 ところが今回は、さらに深い闇色が次々わいてくる中に、三つの小さな光を見つけたのだ。

 光は周囲の闇が侵食しようとすると、輝きを増し、逆に闇を吸収していく。だが絶対的に暗黒の力が勝っているようであった。

 光はそれぞれが勝手に動いており、自分の周囲のわずかな闇しか吸収できていないのだ。


 伊佐神はそれをなすすべもなく、傍観することしかできなかった。いらだち、焦り、憎しみといった負の感情のみが伊佐神にまとわりついてくる。

 三つの光はバラバラのまま、巨大な暗黒に取り込まれようとした時だ。


「ひとつになるんだっ。ひとつになって、戦えぇ!」


 伊佐神は負の感情を振り払うように、叫んだのであった。


 その声に呼応するかのように、三つの光は互いに引かれるように近づく。

 光が、正三角形を作った。三角形の各頂点となった光は、光度が増していく。

 みるみるうちに、伊佐神も直視できないほどの輝きに変わった。闇を拭い去るように、光の三角形が暗黒を吸収していくではないか。


「これは、未来を、変えられるのか? そういうことなのか?」


 伊佐神は夢の中で悟った。


「あの光だ。三つの光を捜しだせば、この国が地獄に変わる前になんとかできるかもしれない」


 握り拳を突き上げ、伊佐神は叫んだ。


「俺の力はこのために授けられたのだ。三つの光を捜し、闇から生まれしものを叩きつぶすんだ」


 伊佐神はそこで四日目に目覚めたのであった。


つづく

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