第11話 紅鯱

 みやびたちが潜伏する草むらの五十メートルほど先。川沿いの大気が無理やり捻じ曲げられるように、ギュルリギュルリと擦過音をたて、闇が回転し始めた。

 

 みやびの顔が引き締まる。腹ばいで前方を直視したまま、手元の革ケースのジッパーをゆっくり下げた。


「ははーん、あれが雍和とかって呼んでいる、対象物ね」


 まったく緊張感のない声で珠三郎が口を開く。


「シッ! 聞こえるわよ」


「これだけ距離があれば大丈夫ぶだよお、みやびちゃん」


 みやびは十文字槍の真紅の柄を握り、膝立ち体勢になった。


「へええ、これがこの前話していた、みやびちゃんの武器なんだ。カッコいいねえ。

 オッ、先端の刃先には普通の金属にはない、美しい光沢があるじゃん。どれどれ」


 珠三郎は眼鏡のツルを指で押し上げ、まじまじと十文字槍をながめる。


「ちょ、ちょっとお、何してんのよ、タマサブ」


 グオンッ! 川べりの一部分が大きく揺らいだ。


 みやびは珠三郎を無視して立ち上がると、右手に持った槍の柄を軽く振った。

 シュインッ、と仕組まれていたロッドが伸び、全長三メートルの長槍に変じた。


 ねじくれて歪んだ大気が、和紙を墨で染めるようにさらに黒くなる。


 みやびはこれまでに三度、雍和と対峙し、いずれも葬ってきている。

 すーっと流れるように、みやびの身体が音もなく前進した。右手に持つ十文字槍は、まだ自然体の構えだ。


 ぐおぉん! 川沿いで不気味な咆哮があがり、空中の一部を引き裂くように黄褐色の二本の腕らしき影がのぞき始めている。

 ヌヴァ、と両腕のあいだから、頭部が飛び出した。真っ赤に燃える双眸が浮かびあがる。


 みやびは一気にスタートダッシュをかけ、走り出す。十文字槍の柄に左手をそえ、加速しながら上段に構えた。


 まさにその時だ。


 みやびの研ぎ澄まされた聴覚が、飛来音をとらえた。速度を落とさずに右手前方の草の上に転がった。

 鋭い眼差しで、みやびはふり返る。


 みやびが直進しようとした先の草原が、鋭利な鎌で切断されたように先端が消滅していたのだ。あのまま走っていたら、みやびの足は膝から切断されていたであろう。


 みやびは片膝をついたまま、周囲を素早く見渡す。


 闇から生まれ出る前に葬ろうとした雍和が、完全に姿を現した。

 二本足で立つ化け物は、太い両腕をふり上げ天を仰ぎながら、耳を覆いたくなるような不気味な唸り声で吠える。


 みやびは雍和を視界に捉えたまま、油断なく気配を探った。

 雍和が、刃物などの武器で攻撃してきたことは一度もない。であるならば、別の敵がいるはずなのだ。


「あなたさまですのね、この子たちを手にかけているのは」


 静かな若い女性の声が、みやびの整った眉をしかめさせた。

 この世に誕生したばかりの雍和の横に、いつのまに現れたのか女性が立っていたのだ。

 みやびはその女性を注視する。

 星空に照らされた地面に立ち、神社にいる巫女の装束をまとっていた。真っ白な衣に、真紅の袴姿である。黒い髪は肩までまっすぐ伸ばされ、前髪は額を隠すように両目の上で切りそろえられている。


(まるで、おばあさまのお部屋にある、ガラスケースに収まってる日本人形みたい)


 みやびは思った。


 日本人形と違ったのは、その顔だ。愛らしい大きな二重の目元、高い鼻梁、笑みをたたえたような桃色がかったくちびる。


(アタシとタメくらいの年齢かしら。それに、ハッキリ言ってかわいさもタメね! いったい何者?)


 他人を褒めないみやびが称えるほど、美麗な少女であった。


「じゃなくて、アンタ、誰よ」


 みやびは十文字槍を構え直し、立ち上がった。


「名乗るほどの者ではございませんのですが。魔奏衆まそうしゅうがひとり、紅鯱とお呼びいただければ」


 せいてんそうの会で鹿怨にひれ伏していた巫女、紅鯱は丁寧に頭を下げた。


「マソーシュー? ベニシャケ? なによ、鮭を使った新しいスィーツのことかしら。あんた、パテシエですか」


 みやびは真剣に訊いた。


つづく

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