犬神夫婦

カイエ

犬神夫婦

前口上

震える少女を目の前に、犬神(おれ)は心の中でうなった。

(一体なんじゃ、こりゃ?)

確かに今年は大きな台風も来ず、雨も少なかった。

饑饉とまではいかなくとも、例年に比べると不作だったと思う。

農家も商人たちも、きっと困ったことであろう。

(だからといって、いくらなんでも、これは)

村人たちは、きっと何か勘違いしているのだ。

確かに、この鋭い牙、いかにも獰猛な爪、巨大な体から発する獣の臭いで、悪しきものをこの山に近づけぬ役割は果たしている——おれにはその気はなく、単にここに住みついているだけなのだが——村人たちにとっておれは、魔を退ける守り神である、とまぁ言えなくもない。

自分で名乗ったことは一度もないが。

だから、村人たちからの善意の贈り物(供物)は、四の五の言わず頂戴している。

毎年、雨期のあとには、おれの住むこのほらに、村人たちはどっさりと食い物を持ってくる。

それなりの役割は果たしていると思うし、おれだって腹は減る。

(にしても、これは)

不作だったのはわかる。

天候に恵まれなかったことにも同情はする。

(でも、それはおれのせいじゃないし)

別におれが天候を左右させているわけではない。

そういうのはいわゆる天の神様のなさることであって、地べたに生きる犬神にそんな力があるわけがない。

だが、どうも村人たちは「犬神の機嫌が悪いせいで雨が降らないのだ」と思っているらしい。

(まいったな、こりゃ)

犬神は、その獰猛そうな目を気まずそうに伏せて、

「あ、あ、あの、あたし、かえで、と、いいます、その、」

捧げ物に混じっていた、10歳くらいの女の子をどうしたものかと悩んだ。


これが、犬神とその妻、楓との出会いであった。


『帰れ』

最初にかけた言葉がこれだった。

今まさに、目の前にいる現実離れした巨大な猛獣——おれのことだ——に食われようとしていた少女は、きょとんとした顔をした。

『悪いが、食い物と交換されてきてくれ』

少女は、ぽかんとしながら一言、「でも」と言った。

『なんだったら、交換じゃなくてもかまわない。今年の供物は少なくても我慢する。だから帰ってくれないか、申し訳ないのだが』

言いながらおれは、気まずくなって目を逸らす。

言われた少女の方も、気まずそうにモジモジと目を伏せる。

なんとも申し訳ない気分にさせられる表情である。

「あのあの、でもですね、あたし、庄屋さんに、素直に食われてきてくれと頼まれてまして……」

少女は、帰ると村の長に叱られるから、自分を食ってくれ、と言った。

(ええー……)

犬神はうなる。

うすうす気づいてはいたが。

(やっぱり「食え」ってことなのか……)

これ(娘)を?

おれ(犬神)が?


自慢じゃないが、おれは人を喰らうような特殊な趣味は持ち合わせていない。

それはまぁおれも犬(の一種)でもあることだし、肉は確かに好きだが、野菜も果物も木の実も、年に一度は、供物のおにぎりなんかも食う。

栄養が偏らないように気を遣っているのだ。

肉ばかり食うと毛並みが悪くなるし、怒りっぽくなったりもするのだ。

というか、人は食わない。申し訳ない。

「その……庄屋さんは、もしかすると食われずにすむかも、とも言っておられまして」

おお、さすが村長。おれが人肉食いの変態じゃない可能性も考えてくれたか。

犬神はすこしだけホッとした。

『そうだな。うん、お前を食う気はない。いや、決してお前が不味そうといってるわけじゃあないんだ。気を悪くしないで欲しいんだが……すまないが、帰ってくれないか』

そう言うと

「で、その場合、犬神様は、あたしを妻として求められるかもしれないと……」

(ええー……)

そんな特殊な。

というか、おれの大きさを考えれば、妻は無理があるだろう、常識的に考えて。

『すまぬ。それはもっと無理だ。いや、決してお前に魅力がないといってるわけじゃあないんだ。気を悪くしないで欲しいんだが』

いやもう、ほんと申し訳ない。

心の中でそう謝りながら、そっと頭を下げた。

こう見えてもおれは気を遣う性格なので、目を合わせるのも苦痛なのである。

返品などと言われて、娘が傷つくのではないかと、気が気でないのである。

少女は肩を落として、頼りなさげに説得を始める。

「でもほら、あたしきちんと体も洗ってきましたし、汚くないですよ。まだ若いから、食べてみれば柔らかくて、肉汁もたっぷりで、美味しいかもしれません」

……げー……。

『すまん、無理』

「……じゃあ、あたしはどうしたらいいでしょう」

情けない顔をして少女が言う。

『犬神が、人はいらぬから、おむすびと交換してくれと言っていたと伝えてくれ』

「あたし、おむすびと交換されるんですか」

娘がますます情けなそうに、眉をハの字にする。

いやもう、ほんと申し訳ない。

『考えてもみろ、お前だって、会話できる相手を食うのは気が引けるだろう』

いいわけしてみた。

「はぁ、たしかに魚とかが普通に言葉を話したら、食べるのは嫌かもしれません」

『だろう?だれだってそうだよな。ははは』

「そりゃあそうですよね、あはは」

二人して笑った。

もうおれのことを怖がるのもばからしくなったらしい。

が、少女はすぐに必死の表情でおれに詰め寄って言った。

「じゃあ、あたしどうしたらいいんですか!」

『村へ帰れ!』

娘がしょげる。

「……叱られませんかね」

『どうして食われるのと叱られるのとで天秤にかけるんだ……。普通食われる方が嫌だろう』

「でも、庄屋さん、あたしのこと大事にしてくれましたし」

『おれのごはん替わりにされてるじゃないか』

「いえ、それは……」

『いいから帰れ。いらぬといったらいらぬ』


とりあえず追い返した。

娘はとぼとぼと、寂しそうな足取りで、たまにこちらを振り返りながら帰って行った。

振り返るたびに、おれは作り笑いをして見せた。

作り笑いしながら思った。

あの庄屋は一体なにを考えとるんだ。


少女が帰ると、そこには去年の半分以下の量の供物が残された。

(まぁ、別にもともと食うに困るわけでも無し)

これでも神の一種だ。犬の一種でもあるので腹は減るが、食わないと飢えて死ぬというわけでもない。

今年不作だったなら、量が少ないのも仕方ない。文句を言う気もない。

頂いている身で文句を言ったりしたら罰が当たるというものだ。

神様の一種なのに誰が罰を当てるのかはわからないが。


それにしても、まいった。いくら供物が用意出来ないからといって、なにも人間の娘を差し出さなくてもよさそうなものだ。

ガツガツガツ。

うむ、旨い。やはり人間の作るものは、手が込んでいて旨い。

普段腹が減ったら魚やら小鳥やら木の実やらを自分で採って食っているわけだが、おれには人間のように「調理する」という発想がない。

道具も調味料もないし、そもそも火がおっかない。

だから年に一度の供物は、おれにとって年に一度のご褒美みたいなものだ。

『この塩だけのおむすびがまたなんとも』

旨い。人間の肉がこれより旨いなんてことあるはずがない。

そんなことを思いながら、自分では作れない年に一度のご馳走に舌鼓を打っていると、

「あのー」

と、後ろから声が聞こえた。

ぶばふ、と、年に一度のご馳走(塩むすび)を吹き出した。

そこには先ほどの娘が、申し訳なさそうに立っていた。

『なにしに帰ってきた!』

思わず怒鳴ったが、すぐに気を取り直して、親切面を作る。

『あ、もしかしておむすびを持ってきてくれたのか?』

つい先ほど自分が口走った「おむすびと交換されてきてくれ」という言葉を思い出して、少し期待も込めてそう言ったが、娘は首を横に振った。

「その……やっぱり食われてきてくれと頼まれまして」

おれは何とも言えない悲しい気持ちになった。

これほどまでに食いたくないと言っているのだ。

おれにだって、断る自由くらいあっても良さそうなものだ。

『なんでおまえたちは、嫌がるおれに人を食わせようとするんだ』

「いえ、やはり最上級の捧げ物は、人間の娘だろうという話になりまして」

『……最上級でも、おれが食いたくないんだから、無理に食わせないでくれ』

まいった。

『村長め、何を考えてるんだ』

「いえ、本当は庄屋さんの娘さんが捧げ物になる予定だったんです」

少女はすまなさそうに言った。

「お嬢さん、あたしより美人ですし」

『誰でもいいが、食いたくない。あと食うのに顔は関係ない」

それに、この娘も、別に顔はまずくない。……ちょっとぼんやりした印象の顔だが。

って、待てよ。

『ん?じゃあお前、村長の娘の身代わりにされたんじゃないか』

「そうなりますね」

『お前、親は?』

「物心つく前に、流行病で死んじゃったらしいです」

おおぅ、とおれはうなった。

このうすぼんやりした娘に、そんな悲しい過去があろうとは。

同情の涙を禁じ得ぬ。

『身よりがないからって、身代わりに食われてやることはないだろう!』

村長め、自分の娘が可愛いのはわかるが、酷いことをする。

とっちめてやる。

「いえ、それは」

娘は、おれの言葉を否定した。

なんでも、犬神の食事役に立候補したらしい。

『なんで、また』

「だって、庄屋さんはずっとあたしを大事に育ててくれた恩人ですし、「庄屋の家から娘を差し出す」ということに決まったとはいえ、別にお嬢さんでもあたしでも、どちらでもいいことになりますし……」

『おれの気持ちも考えてくれ。食わない自由もあるはずだ』

おれの訴えは耳に届かないらしく、娘は話を続ける。

「それに庄屋さん、泣いてくれましたよ。申し訳ない、ありがとうってお礼も言われちゃいました」

娘は「うひひっ」と変な声で、嬉しそうにニヤけて見せた。

その顔をみて、おれは納得した。

たしかに、つい親切にしてやりたくなる雰囲気を持った娘だ。

なるほど、こりゃあ大事に育ててもらえただろう。

……とはいえ、受け取るわけにもいくまい。

『その、申し訳ないんだが、娘さんや』

「楓です」

『楓よ、帰ってもらうわけにはいかぬだろうか……正直どうにも、お前を見ても食欲は沸かん、気を悪くしないで欲しいんだが』

「それはその……困ります」

『なんで』

「だって、庄屋さん、あたしが帰ってきたとき、村人にずいぶん叱られてましたから」

『……えらく立場の弱い村長だな』

言われてみれば、気の弱そうな、人の良さそうな親父だったような記憶があった。

「どうしても食べてもらえないなら、仕方ありませんので、どこか近くで自活しますけど」

どう考えても無理っぽかった。

『……返品は不可?』

「不可ですねぇ……すみません」

楓は申し訳なさそうな顔をして頭を下げた。


しかたない。


おれは、今からするべきことのために、神通力を使うことにした。

『返品不可、でも食いたくないなら、残される方法は一つしかないな……』

そう言って、おれは、人間の男の形に変化して見せた。

若い人間の男の姿。しかし耳と尾だけは残した、娘どもに受けそうな当世の流行の風体である。

自分でもなかなか色男だと思う。

人型になったおれは娘に言った。

『しかたない。では、お前を妻としよう』

感動的な場面である。

ところが、

「えー」

楓は酷く気が進まない顔をした。


おれは不安になった。

昔は「江戸に出たってもてそうな色男だ」と囁かれたおれだが……もしかして流行が変わって、酷く野暮ったく見えているのではないだろうか。

てっきり喜ばれると自惚れていたおれは、肩を落として言った。

「……この顔は嫌か」

楓は気まずそうな顔で答える。

「そうではなく……」

どうにも変な娘だった。

「せっかく犬神様なんだから、犬の形してるほうがいいと思います。その……なんだかそれだと役者さんみたいで……」

おれは拍子抜けして、またがっくりと肩を落とした。

「あ、あの、気を悪くしたならすみません……」

「あー、いや、おれも人型でいるのは体力がいるんで、元の姿のほうが楽なんだが」

そう言って、もう一度犬の姿に戻る。

変化は一瞬。

楓はその姿を見てあからさまにホッとした表情になる。

「そっちのがいいです。どうも色男風なのは、いけ好かないというか」

そう言って、近づいてくる。

『……変な娘だ』

「すみません。……こんなんで申し訳ないんですけど、お嫁にもらってくれますか?」

楓はおれの胸元(自慢の真っ白な胸毛がモサモサに生えている)に顔を埋めて言った。

不覚にもちょっとときめいてしまった。

『獣臭いだろう』

「庄屋さんちで飼ってる、犬のシロのにおいがします」

『……それなんか微妙』


かくして、犬神と人間の夫婦が誕生した。


おれは楓に、その気があれば八百万の神の一人となって、おれと永遠に生きることも出来ることを説明したが、それをあっさりと断った。

犬神の妻になるという希有な体験はまぁいいが、永遠にそれが続くのは嫌なんだそうだ。


うむ、なんかわかるような気がする。

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