4「修羅覇道編」


「アタシの命が欲しいってんなら、最初からそう言いなさいよ。紛らわしい」


 眼下に倒れ伏した青年の姿を見下ろしつつ、やれやれと言った様子で嘆息する凛音。

 言動の内容に反して、その事実を知って尚、彼女の態度は落ち着きに満ちていた。


「最初から……それ以外の事は、言ってはいない、筈……なんだが……」


 漸く解放された気管から酸素を供給する事が叶い、肺と心臓が人生を謳歌するのを感じながら、ガルドは地に倒れ伏した己の身体を起こす。

 彼が着用するオリーブ色の野戦服のあちこちに砂埃が付着している。口内にも幾分か入り込んでしまった様で、砂の硬質感がもたらす違和感が気持ち悪い。


「だけど、この身体をくれてやるわけにはいかないわ」


 実に情けない状態の刺客を睨みつけ、凛音は片手を己の胸元へと置くと、まるで良家の令嬢がそうするかの様に、その名の如く凛とした声で宣言する。


「幾ら貴方が、未成熟な肢体を解体する事に性的興奮を抱くようなペドフィリアでも、ね」


 その言動にはあらぬ誤解も含まれていたが、最終的な青年の目的からすれば、当たらずも遠からずであった。


「……理解したよ。基本的に、人の話を聞かないタイプなんだな、君は」


 変態的性癖を持つ異常性愛者と言う誤解は青年としても否定したい所であったが、これ以上話がややこしくなるのも面倒なので、反論はしないでおく。


「少し違うわ。貴方みたいな変質者とは、まともに取り合う気が無いってだけよ」

「変質……ぐぬうっ……」


 最早少女の中で、青年の存在は変質者と言う立場で確立されてしまっていた。

 己に悲しく突き刺さる言論の暴力に、ガルドの心も次第に崩れそうになって行く。


「き、君は、自分が命の危機に晒されていると言うのに、何だか随分と余裕じゃあないか」


 何とか平常心を保ち、彼女との邂逅時からずっと少女に対して感じていた違和感を問いかける。


「もしかして貴方、新米?」


 そんな事も解らないのか、馬鹿なの? 死ぬの? と言った表情で、凛音はガルドに心底呆れた表情を向ける。


「どこの業界でも新人どうてい相手って言うのは面倒な物なのね。勉強になったわ」

「おい。新人って文字に、妙なルビを振るんじゃない」

「余りにも面倒だから、もう帰っても良いかしら。ウチの母さん、仕事柄規則には厳しいの」

「自分の命を狙われる事よりも、母に怒られる事を恐れるとは……」


 ペースを全く崩さない少女の様子に、ガルドは半ば関心の念を覚えつつあった。

 物怖じ一つしない少女の精神力は、一体どれ程の硬質さを持っているのであろうか。


「だってさあ、貴方ね。こんな風に殺害対象と無駄なやり取りをしている時点で、とてもベテランって感じには思えないって」

「それは」


 痛い所を突かれたとでも言うかの様に、ガルドは押し黙ってしまう。


「その、何というか、うむ」

「何よ、気持ち悪いわね」

「……怖いんだよ」

「は? 怖い?」

「他人を手にかけるのが、怖いんだ」


 若干の後悔を感じさせる様な声質で、彼は己の内情を吐露する。


「ハッ。なぁにそれ。ヒットマンなのに? 人を殺すのが怖い?」


 この状況で殺しが怖いと宣う刺客に対し、少女は「全く意味がわからない、ちゃんちゃらオカシイんですけど」とでも言いたそうな表情で青年を煽る。


「それって何、ネタのつもりなの? そんなんで人殺し家業としてやっていけているわけ?」

「確かに俺は、この手の仕事には向いていないと、常々自分でも痛感している……」

「そんな簡単に認めないでよ。プライドすら無いっての?」


 気のせいか、大きな青年の身体が、段々と小さくなっている様に感じられる。

 この少女と絡んで以降、全く良いとこ無しなガルドは、自身の不運さを悔いるのであった。


「と言うか、そもそも勘違いをしているようだが、俺はヒットマンじゃあ無い」


 先程から少女が自身の事をヒットマン、ヒットマンと呼んでいた事が気になり、青年は訂正する。


「じゃあ、何だってのよ」

「そ、それは」


 そこで再び押し黙ってしまうガルド。


「他人の命を狙う人間が、ヒットマン以外の何だっての。言ってみなさいな」


 まるで極道者が恫喝するかの如く、今にも青年に食って掛かりそうな勢いで、少女が問う。


「すまない。機密事項だから言えない」


 流石の青年も、己に与えられた役割と言う物を忘れる事は無く、自身の正体に関しては口を噤んだ。


「ヒットマンじゃあないのに、アタシの命が欲しいと? それっておかしくない?」

「事情がある。できれば君には詳しい事情を知られぬまま、亡き者になってほしい」

 青年が少女を見上げていた己の顔を、彼女の頭上よりも更に上――すっかり日も暮れ、星々が輝きを見せ始めていた夜空へと向ける。


 夜空には真円を描き、清浄な白き輝きを放つ満月が浮かんでいた。


「全ては、そう。月の、未来の為に」


 そして青年はそんな月を見上げながら、かろうじて少女にも届く程の小さな声で、そんな言葉を呟いた。


「……月? アタシの命とお月様に、何の関係があるの」


 唐突に青年が呟いた突拍子も無い一言が、得体の知れない恐怖を煽る。

 理解の範疇を越えた青年の言葉は、凛音の平常心に対して少しばかりのヒビを入れる要因となる。


「お喋りが過ぎた様だ」


 青年がおもむろに、立ち上がる。

 その巨体が再び少女の前へと対峙し、凛音を見下ろす。


「すまないが、今度こそ本気で君の命を貰う」


 そう言うと青年は、腰に携えていた一本の無骨な刃物を取り出した。

 刃物――どうやらナイフらしきそれは、一般人の凛音でも知っている果物ナイフの様な物とは全く違い、最早包丁と遜色の無い程の大きさを持っていた。

 所謂コンバットナイフと呼ばれる代物を青年は片手で構えると、その切っ先を凛音の眼前へと近付ける。 

 刀身の金属が、月から発せられた光を反射した事で鈍い輝きを発し、凛音の瞳へと侵食する。

 銀色の表面に己の顔が映り込むのを確認した所で、少女もある程度の危機感を覚えた様であった。

 彼女の額から一筋の雫が流れ落ちる。


 しばしの静寂がその場を支配する。

 お互いの吐息の音しか聞こえない様な状況で、二人はそれぞれ、己の鼓動が激しくなって行くのを感じていた。


「……なんか、貴方のあまりの情けなさに、同情の一つでもしてあげたいけれどさ」


 そんな静寂を先に打ち破ったのは、凛音であった。


「残念だけど今の所アタシには、わざわざ自分から殺しに応じる様な、自殺願望は無いのよね」


 少し震えた声で、それでも彼女は己に向けられた恐怖に抗い、勇敢にも青年に対抗する。


「逆に君に自殺願望があれば、違う意味で躊躇ちゅうちょしそうになるがな」


 青年は漸く己のペースを取り戻せた事に少しばかりの安堵を覚えつつも、この先どうやって少女を手に掛けた物かと悩んでいた。

 ここまで堂々と相対してしまっている以上、この少女が唐突に大声を上げると言う可能性もあるだろう。

 そうなってしまえば任務の隠密性は意味を失い、組織の事も明るみに出てしまう事態もあり得る。

 そもそも白月凛音とこうして接触し、長く会話でのやり取りをしている時点で、既に隠密と言う面では失敗なのであるが、結果さえ良ければ問題はないだろうと、ガルドは自身を納得させた。


 任務達成の可否も勿論不安ではあったのだが、そんな事よりもガルドが不安に思っている事がある。


――果たして自分は本当に、この少女を殺す事ができるのであろうか。


 よりにもよって、人を殺す事に対して恐怖を覚える青年が、己よりも年下の少女の生命を奪う。

 その事実が青年の中を渦巻き、葛藤となり、彼の行動を押し留めていた。


 青年が中々動きを見せない事に気が付いた凛音は、少しだけ落ち着きを取り戻す。


「それにさ。多分貴方、アタシ相手だと後悔する事になるよ」

「今以上の後悔があるとすれば、最早俺に立つ瀬は無いよ」


 最後の抵抗とでも言わんばかりの少女の一言。だが、そんな事を言われても、青年も今更後には引けない。


「だって、アタシには――」


 凛音がそこまで言いかけた時である。

 今まで少女と青年の間を吹き抜けていた空気の流れが、一変した。

 何やら只ならぬ気配を察知し、青年が長年の軍人生活で身に付いた勘のような物で、場の雰囲気の変化を感じ取る。


(な、何だ? この恐ろしい圧力は……)


 凍てついた様にピリピリとした何かが、風を通して青年の肌に突き刺さる様な錯覚を与える。


(何処からこんな、不気味な威圧感が?)


 尋常では無い空間の変異に、青年が警戒感を露わにする。

 凛音に向けていたナイフを構え直し、辺りに視線を巡らせる。


「何? 貴方、どうしたの?」


 白月凛音はそんな青年を眺めつつ、彼の突然の豹変具合に不審そうな表情を浮かべていた。

――彼女は何故そんな平常でいられるのか。この異変が少女には感じ取れないというのか。

 青年が思考の片隅で、そんな疑問を抱く。


 一際風が強くなる。

 まるで恐るべき何かの来訪を予見するかの様に、空気が、世界が、警鐘を鳴らしていた。


「リンちゃん」


 透き通った、少女の声が辺りに響き渡る。


「――その人、誰?」


 その声は、妙に冷たく、凍てついた空気を伴う声質であった。

 決して大きくはない、か細く繊細な問いかけが、周囲の音を一瞬にして消し去った。


――威圧。この平和ボケした日本と言う国の中で、日常では決して感じる事の無い、殺気にも似た何かが辺りに漂う。


 見られている。

 誰だ? 一体誰に? この只ならぬ気配の正体は何なのか。

 この圧力は尋常じゃあないと、ガルドは更に緊張感を強くする。

 もしや、別組織のエージェントが、白月凛音の身を狙っているのか。

 少なくとも先程までは、この場所で彼以外に彼女を狙っていた人間はいなかった筈。

 彼女の存在とその〝特殊性〟は、いわゆる"裏側"の世界では、既に果てまで知れ渡り、浸透し始めている。

 即ち、青年以外にも少女の身柄を狙う勢力が存在していても、決しておかしな話ではないのだ。


 異常の答えは、彼が相対する白月凛音の後方、その数メートル先に、静かに立ち尽くしていた。


 公園の入り口の辺り――そこに、一人の少女が立っていたのだ。


「うげっ」


 潰れた蛙が発する様なユニークな発声を以って、目の前の少女が驚きの声を上げる。

 白月凛音もまた、己の後方から発せられた声に気が付き、身体を背面方向へと向けていた。


「誰だ? 君の知り合いか?」


 突如出現した、新たな来訪者の少女。

 凛音の反応を見るに、どうやら彼女の知り合いの様ではあるが、果たして何者なのか。


「アタシの、友達よ」


 何故か「マズい状況になった」と言う様な表情を浮かべつつ、凛音はそう述べた。

 どうやらあの少女は、凛音の友人である様なのだが、等の凛音の反応は何かがおかしい。

 得体の知れない大男と相対し、生命を狙われている状況で自身の友人が現れたとなれば、この状況に友人を巻き込んでしまう事を心配すると言うのならば頷ける。

 だが、凛音が見せた彼女の様子は、どうやらそう言った不安とは別種の物である様だった。


「ふ、冬香ふゆか。あ、あんた、今日は放課後用事があるって言っていたのに」


 凛音に冬香と呼ばれた少女が、一歩一歩此方へと近付いてくる。

 彼女が履く靴の底と地面が接触する度に、公園に音が響く。

 只の足音の筈なのに、異様な重さを持った音であった。


(この威圧感は、あの娘から、なのか?)


 どんどん強大になって行く、謎のプレッシャー。


(まさか、そんな馬鹿な事が)


 信じられない事ではあったが、その発生源は少女――冬香が発していると見て、間違い無い様であった。

 彼女が別勢力の人間ではないのならば、その圧力は――果たして誰に向けられた物なのか?

 刻一刻と、ガルドに感じられる圧力が強くなって行く。 

 少女が歩を進める度に、まるで空間が歪曲しているのではとでも感じさせる位に、恐ろしい圧迫感が増していく。


――最早疑いようも無い。


 この状況で、凛音が全く何も感じていない事からも明らかであった。

 迫りつつある少女が発する威圧感は、他ならぬ、ガルドに対して向けられていた物だったのである。


「うん。もう用事は終わったの」


 やがて冬香が凛音の前へと辿り着き、足を止める。

 相変わらずの恐ろしい気配を青年に向けて発したまま、冬香は実に可愛らしく、慈愛に満ちた表情で凛音に微笑みかけた。

 彼女の発する声は若干の幼さを残し、柔らかな静謐さを感じさせる物であった。

 表面上だけを観察すれば、天使の様な雰囲気である。

 だが彼女は、そんな聖母の様な表情を浮かべながら、まるで悪魔の様な恐ろしい重圧感を発していたのだ。

 ガルドは生まれて初めて、異性の、それも年下の少女と言う存在に対し、本物の『恐怖』と言う感情を覚えていた。


「今朝、リンちゃんの下駄箱に入っていたラブレターがあったでしょう?」

「え? あ、ああ、うん。そう言えば、そんな物もあったわね」


 友人である筈の少女に対して、凛音は何故かしどろもどろな様子で応対している。


「即行であんたに奪われて、中身を見る暇も無かったけれど……」

「差出人を探しだしてね、校舎裏に呼び出して色々と"決まりごと"を教えてあげていたの」


 少女――雪見ゆきみ冬香ふゆかは、白月凛音の幼馴染にして、親友であった。

 彼女は一見すれば清楚で大人しそうな雰囲気を纏わせている。

 黒く肩よりも下ほどまでの長さを持つ髪。前髪は切りそろえられており、所謂パッツンスタイルになっている。

 顔は凛音と比べると童顔であり、小動物の様な保護欲を感じさせる物であった。

 身長は凛音よりも若干低いが、その肢体の発育は小柄な見た目に反してかなり良い。

 同年代の凛音と比べても、明らかにスケールが違う。

 そう。凛音のちっぱいとは比べ様も無い程に、彼女のバストはド迫力の素晴らしきでっぱいであった。


 まあ、今の状況でそんな事はどうでも良い事なのであるが。

 取り敢えず、ガルド好みの見事なナイスバディの持ち主だったのである。


「おめでたい事に、あのクソ野郎……」


(え? クソ野郎?)


 だからこそ、そんな小動物系ロリ巨乳っ子が、得体の知れない異様な圧力を発していた事、そして存外にも口汚い表現をした事で、ガルドは驚きを隠せずにいた。

 冷や汗が流れ落ちる度に溢れ出しているのを感じる。


「ううん、彼と来たら……リンちゃんに手を出そうとしておきながら、私に呼び出された事で変に勘違いをしていたみたいでね」


 青年は知らなかったが、彼女には、この街の中では知らぬ者はいない程の、有名な逸話が存在する。


「彼ったら、待ち合わせ場所に現れた時、凄く浮かれていたの」


 とびっきりの笑顔で、冬香は凛音に微笑みかける。

 だが、青年には見えていた。

 笑顔の裏に見え隠れする、恐ろしいまでの負の感情が。

 全く笑っていない、彼女の目が。


「とっても、嬉しそうに」


 ガルドは恐る恐る冬香の姿を観察してみる。

 凛音と全く同じ制服を着こなしたその姿に、何処か違和感を覚える。

 紺色のブレザー。その袖口の部分が、何やら――赤い。

 そう。彼女達が履くスカートの布地の色の様に、赤い何かが付着していたのだ。


「凄く、不愉快だったわ」


 少女は、心の底から嫌悪感を露わにした声で、そんな言葉を吐き捨てた。

 その声色は、先程までの少女染みた彼女の声からは想像できない程に、憤怒と怨嗟にまみれていた。


「でもね、すぐに彼も、快く状況を理解してくれたよ」


 少し前の暗い声が嘘だったかの様に、一瞬で声色が戻る。

 その様子を後ろから眺めていたガルドは、切り替えが一瞬であった事に対し、恐怖を覚えた。


「具体的には、こう」


 冬香は突然、勢い良くすぐ傍に立てられていた電信柱を片手で掴んだ。

 そして次の瞬間。ガルドが目を疑う様な光景が、彼の眼前で繰り広げられる事になる。


(え!? ちょ、な!?)


 軋みの音をあげ、電信柱が細かく小刻みに揺れているのだ。

 常識的な世界観では絶対に有り得ない光景が、生み出されている。


 電信柱を掴む、少女の華奢な腕を眺めるも、全く変化は無い。

 ただ、少女は平然と電柱を掴んでいるだけであった。

 しかし、彼女が柱を掴む手を軽く握りしめたかと思うと、あろう事か、手の平の圧力が物質を歪ませて行く。

 全く少女の腕は力を込めている様には見えない。

 だが、その様子に反して、電信柱が人の身が生み出すとは思えない破砕音を発していく。

 そして最後には、一際甲高い音が響いたと同時に、コンクリートの一部がその場から“消えた”。


 冗談ではない。確かに消えたのだ。


 消えたコンクリート。果たしてかつて電信柱の一部であった物体は何処に行ってしまったのか?


(何だ、これは。俺は、夢でも見ているのか)


 笑顔の少女が握り潰した拳の中に、何やら不釣り合いな物体が包み込まれている。

 目を凝らしてよく見てみると、それは――丁度掌に収まる位に砕かれた、コンクリートの塊であった。


 冬香と呼ばれたもう一人の少女は、信じられない事に、生身の人間の握力だけで電信柱を砕いてしまったのだ。


 胴体を繰り抜かれた事で、電信柱が無残にも地面に倒れ伏していく。

 数秒後、腹の底から響く重厚な音を発して、人々の生活の要である筈の物体が一本、ご臨終した。

 そんな異次元の映像が、ガルドの視覚に入り込んで来たのであった。


「こんな感じで、ね。ちょっとグワシッとやったら、ちゃあんと、解ってくれたの」


 少女は今までで一番の微笑みを、その可愛らしい顔に浮かべていた。

 だが、その目は一切笑っていない。

 瞳孔は開きかけ、瞳からは光が失われている。

 要するに、凄く怖い。その一言に尽きる。


 ガルドは知る由も無かったが、前述した通り、雪見冬香にはとある逸話が存在している。

 それは「決して彼女と白月凛音の間に『男』が入り込んではいけない」と言う物であった。

 白月凛音は前述の通り、人間離れした美しさを持つ少女である。

 当然の如く、その美貌に惚れ込んだ男も数多く、今までに何度も彼女にアプローチをかける人間が居た。

 しかし彼等は例外無く、凛音に告白した数刻後に、心の臓にまで刻み込まれた恐怖と、トラウマを抱き戻ってきた。

 数カ月前、凛音に告白した、ある一人の少年――K.K君(仮名)は語る。


「あれは、悪魔だ。漆黒の悪魔だ。くろがねの城だ。ゼェーット」と。


 K.K君(仮名)が凛音への告白の先に見た光景、それは。

 一人の少女――白月凛音の『唯一の恋人』を自称する、雪見冬香による『制裁』の光景であった。

 その光景は正に地獄と煉獄の狭間、輪廻転生すら覚悟する勢いの物であったと語るK.K君(仮名)は、状況を思い出しながら、恐怖の表情で失禁したと言われている。

 雪見冬香は白月凛音の友人であり、親友であり、幼馴染であると同時に――彼女に心の底からの愛情を抱く、自他共に認める百合少女であった。

 そして恋は盲目と言う言葉の通りに、彼女の行動には何事に置いても先ず、凛音に関する事柄が優先される。

 ぶっちゃけてしまえば、要するに彼女は、所謂『クレイジーサイコレズ』と巷で呼ばれるタイプの人間であったのだ。

 決して常人が関わってはいけない、この街の暗部。

 それは彼の有名な『竹取物語』において、かぐや姫に対し求婚してきた男共に、彼女が与えた五つの難題の様に。

 凛音を狙う男達の前に立つ、難攻不落の城塞。

 それが、雪見冬香と言う少女であった。


「お、おいおいおい! 何だ、あれは! どうやったんだ、今の!」


 状況に全く理解が追い付かないガルドは、酷く混乱していた。

 凛音の両肩を掴んで再び己の方向へと振り向かせると、そのまま彼女の体を前後にガクガクと揺らしつつ、状況説明を求める。


「コンクリートだぞ! 素手だぞ! 人間なんだぞ! 何であんな、バケットでも握り潰すかの様に、軽々と電柱が潰れるんだッ!?」

「ああもう、五月蝿い! 少し黙ってて! 今はそれどころじゃないっての!」


 しかし凛音は、そんな青年の縋るかの様な行動を両手で払い退けた。

 雪見冬香は元々はその見た目どおり、弱気で消極的な少女であった。

 彼女は幼少の折、よく近所の悪ガキ共にいじめられる事が多く、その度に幼馴染であった凛音に助けて貰っていたと言う。

 凛音に対する彼女の恋心は、この頃から既に芽生え始めていたらしい。

 冬香自身、そんな己の状況に情けなさを覚え、いつしか彼女は何者よりも強くなろうと決意したそうだ。

 少女は人知れず、様々な特訓を重ねて行ったと言う。

 護られているだけじゃあなく、自身も愛する彼女を護れる位に強くなりたい――

 そんな想いを抱きつつ、冬香はひたすらに修羅の道を突き進んだと伝えられている。

 果たしてどの様な過酷な修行の成果なのか、その結果身に付けたのが、電信柱をも軽々と砕く、謎の怪力であった。

 それは、一人の少女の健気な恋心が産みだした、奇跡の証明なのである。

 ファンタジーでもメルヘンでも断じて無い。これは紛れも無い現実なのだ。


「冬香、違うのよこれは! ちょっと落ち着いて!」


 誤解を解こうと、凛音が必死な形相で冬香に語りかける。


「この人が一方的にアタシの貞操を狙ってきて……! 決してやましい事は何もないんだから!」

「はあ!? て、貞操って一体何の話だ! いつの間にそんな話に!?」


 そして彼女の弁明は、青年と冬香の間に決して埋める事の出来ない溝を形成する、必殺の威力を秘めていた。


「そ、それに俺はどちらかと言うと、そちらのお嬢さんのでっぱいの方が、俺は好グボギャアッ」


 少しでも誤解を解こうと言い訳を口にした青年の言葉が、途中で悲鳴に移行する。

 何かが回転を伴って飛来し、青年の頭にクリーンヒットしたのだ。

 直撃を受けた青年の頭から鈍い音が響く。

 前のめりに傾く青年。その視線の先に、何かが硬質的な音を響かせて、地面とぶつかった。

 彼の頭から地面に落下した何かの破片は――先ほど冬香が砕いた、電柱の破片であった。

 少なくとも、彼が視覚で認識していた間、彼女の腕は全く動いていなかった。

 一体何時の間に投げたのか、全く判らなかった。

 その投擲の技術は最早、神速の粋にまで達しているというのか。


――何者だ、この娘。と言うか、本当に人間か?


 青年の額にやけに赤い脂汗が浮かぶ。

 どちらにせよ危ない人種である事に変わりはない。少女の身体から、悟りを開き達人となった拳法家のみが纏うと言う、闘気のオーラが発せられているような錯覚すら覚える。

 指先一つでダウンさせられそうな威圧感だ。気のせいか身体も巨大に見える気がする。

 そう言えば、この場所からはやけに北斗七星が綺麗に見えると青年は気が付いた。

 しかも北斗七星の直ぐ横、寄り添うように一層輝く星が見える。

 解りやすいまでに典型的かつお約束な「死亡フラグ」が目の前に迫っていた。

 青年は震える。全身、余すところ無く、出欠大サービスでバイブレート。

 何故、今までに様々な死線を潜り抜けてきた彼が、この様な醜態を晒しているのか。

 その理由は明白だ。

 少女が持つ威圧は明らかに“一線を越えた人間”のソレ。

 獣は自分よりも強い者の雰囲気を嗅ぎわけ、それだけで服従してしまうと言うが、その気持ちがよく解る。

 少女は王者だ。生態系では間違いなく頂点に上り詰める、何者にも劣らない、不敗のキング。

 場所が場所なら地下闘技場の様な所でオーガなんて名前を付けられ、地上最強の生物として君臨していた事だろう。

 要するに、彼が雪見冬香と言う少女に対し感じている悪寒の正体とは、種としての絶対的な違い、どう抗っても埋められない絶望的な性能差が織りなす恐怖であったのだ。


「ええ。そうよね。うん、解ってる」


 そう言う冬香の言動とは相反するかの様に、ガルドには何もかもが理解不能であった。

 完全に、彼は孤立無援の状況に置かれていた。


「リンちゃんの事は私、何よりも、外宇宙の果ての先よりも知っているもの」


 だがそんな状況に置かれつつ、一つだけ、確実にこの先訪れるであろう惨劇だけは容易に予想できる。


――死。絶対的な死。回避不能の惨劇。


 そんな血塗れの未来が、己に迫りつつある。


「リンちゃんに寄り付く悪い虫は、いっつも私が退治してきたんだから」


 少女が突然、ケタケタと不気味な笑い声を上げた。

 何がおかしいのだろう。

 何故、そんなに楽しそうに、嬉しそうに、狂気の笑い声を上げているのだろう。


「き、君。頼むから話を聞いてくれ。俺はただ、この子の命を貰いに」


 彼は焦った。

 その焦燥は、任務中に敵対組織に囲まれ、四面楚歌な状況に陥った時よりも数倍の物であった。

 その為か、自分の発言が何の言い訳にもなっていない事にすら、青年は気付く事ができなかった。

 まるで太陽とナメクジが相対したかの様な、そんな絶対的な差。乗り越えられない壁。

 彼は祈るような神など知らなかったが、この時ばかりは無神論者の彼も形の無い神に祈らざるを得なかったと言う。


「あー。もう駄目。あの子、あの状態になったら何も聞こえなくなっちゃうから」


 だが、祈りは通じない。


「どう言う意味だそれは。何が駄目だって言うんだ」


 この世に一方的な願いを聞き届けてくれる神などは存在しないのだから。

 無常で無慈悲で、だからこそ輝かしい。


 それこそが、世界の理なのだ。


「先刻からピーチクパーチクと五月蝿いのよ、この雀風情が」


 笑顔であった。

 少女は変わらぬ笑顔のまま、ドス黒い怨念を纏わせた声で、青年に対し、呪詛を放った。


「えっ?」


 一瞬、青年は己に向けて放たれた言葉の意味が理解できなかった。

 と言うか、少女の言動の変貌振りに、全く思考が対応できていなかった。


「私の大切な人に、貴方は一体何をしてくれているの?」


 どんどん空気が歪んでいく。

 青年に対して向けられた少女の邪悪が、際限無く増大していく。


(何なんだ、この娘! 表情は凄く優しいのに、この異様なまでの威圧感は何だッ!)


 微笑みと言う名の絶望的状況が青年に迫る。

 笑顔に溢れた地獄への誘いが、脳髄の奥底にまで否応無しに侵食してくる。


「身の程知らずのお馬鹿な駄犬には……ちゃあんと、躾をしないと、ね?」


 そう言うと、冬香は唐突にその場へと屈み込んだ。

 片腕を先程地面に沈んだ電信柱に手を伸ばしたかと思うと――

 次の瞬間、再びガルドが目を疑う光景が繰り広げられる事になった。


「よいしょっと」


 驚いた事に、少女は〝片手で〟、〝自分の身の丈の倍以上はあろうか〟と言う、倒れた電信柱の巨体を、細腕からはとても想像できない筋力だけで、いともあっさりと、それも軽々しく持ち上げてしまったのだ。


 そう、〝片手で〟。


「電柱を、片腕で持ち上げた……だと……!?」


 重力の法則とか物理法則とか――彼女はきっと、そう言った物をどこかに置き忘れてきたのかもしれない。

 自分よりも身長の小さな少女が、自分よりも大きな物体を軽々と掴み、持ち上げているという矛盾した光景を目の当たりにした青年の常識的な感覚は、麻痺を通り越して消滅寸前であった。


「リンちゃんは……」


 雪見冬香が電信柱を頭上に掲げる。

 力任せに勢い良く振り上げられたコンクリートの塊が、豪快な風切り音を発する。

 そして少女は、まるでオリンピックの槍投げ選手がそうするかの様に、電柱を構える。


 少女が何をしようとしているのか。

 そんな事は、電信柱の先端が己の方向へ向いている時点で、考えるまでも無く明白だと、ガルドは理解し、恐怖した。


「おい待てッ! 電柱は人に向かって投げる物じゃあ無い!」


 何と現実味の無い内容の忠告だろう。そもそも人間が電柱を持ち上げられるか、んなわけねー。

 青年は少女に向かい叫びながら、何処かヤケクソ気味な思考の中で、自身の言葉に対してツッコミを入れていた。


「やめて! お願いだから、はやく考え直しテ!」


 しかし、彼女に静止の言葉は届かない。

 少女の瞳には、既に潰れたトマトの様になった青年の未来しか見えていないが故に、青年の言葉は届かない。


「リンちゃんは、私のモノだッッシャアアアア!」


 そして遂に――少女の片腕から、青年の未来を奪う為だけに形成された、アルマゲドンが射出された。


「死ィネエエエエエエッ!」


 至近距離。避ける間も無く無慈悲に放たれた運命の矢は、閃光と化し、ガルドへと降り注ぐ。


「嘘だろ、本気で死……ッ!」


 死の間際、人間は今までの人生を走馬灯の様に振り返ると言う。

 それは自身の脳が意識を消失する前に、記憶に与えるつじつま合わせなのか。

 ガルドもまた、妙に長く感じられる時の中で、死に別れた両親、妹、そして――いつか出会った不思議な少女の事を思い出していた。


 ふと、失神寸前の意識の中で、すっかり蚊帳の外になっていた白月凛音はどうしたのだろうと辺りを見回してみる。


 彼女はちゃっかり、被害を受けない位の距離に逃げていた。


――こうして、ガルディア・ハイマンの一生は幕を降ろした。

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