第7章 英雄の帰還 



 無事に帰りつくことが出来るのは、真の英雄だけだ。


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 僕たちは


 その真実を

 噛み締めていた。


 何かを得たいならば

 等価値で支払え。


 何かを守りたいならば

 失うことを覚悟せよ。




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 僕たちの前に現れたのは巨大な扉だった。こんな大きな扉じゃ僕らが力を合わせても到底開きそうにない。いくらデュラーさんやクックバレンさんが力持ちだとしてもだ。お城の城門ならテコの原理を応用して持ち上げ、左右それぞれに一人ずついる城門係りの兵がレバーを回して鎖を巻き上げていた。そういう仕掛けは大抵内側にある。



「僕の読む物語にも、こんな不思議な扉はよく出てくる。必要なのは力じゃない」



 パシファムさんが呟いて、僕らも頷く。肝心なのは僕ら全員が揃っているということ。それ以外の条件で扉が僕らを拒むなんてことはきっとないはずなんだ。何故なら僕らは、呼ばれて来たのだから。この先にきっと僕らを呼んだ主が待っている。



 僕は扉に掌をあてた。



「僕はロイ・ⅠⅥ・ミルカ」



 名前を与えられることに意味があるなら、それが揃うことは一つの魔法みたいなものなんじゃないだろうか。


 皆も扉に触れて次々名乗った。



「私はゾドット・Ⅲ・ロムです」


「ミラン・Ⅱ・リュートよ」


「デュラー・Ⅳ・バァナだ」


「パシファム・Ⅴ・ムーマだよ」


「マーキス・Ⅶ・ティンクベル」



 それから、全員の視線は自然とまだ突っ立ったままのクックバレンさんに注がれた。



「俺か? 俺もやるのか」



 驚いた顔をしてからクックバレンさんは仕方なく手を伸ばした。



「クックバレン・Ⅰ・ウィーアだ」



 溜め息混じりの名前のあと、巨大な扉は僅かに振動して僕の掌はくすぐったくなる。左右に開くかと思ったのに、ゆっくり音をたてて上がる。辺りの岩が崩れてこないのが不思議だった。



「ロイ。ぽかんとしてねえで行くぞ」



 上ばかり見ていたから、クックバレンさんに小突かれてしまった。扉の向こうに拓けた空間は随分明るい。淡く光る水晶の柱があちこちに立っていた。


 僕らは恐る恐る扉の下をくぐって中へ進んだ。全員が通ると扉はまた閉じてしまう。辺りの様子を見た限り、僕らは広い部屋に閉じ込められたようだ。


 そして部屋の奥に誰かがいた。寝そべっている巨人。彫刻か何かだと思ったら欠伸をした。



「やっと来たか、あんまり遅いからうたた寝をしてしまった」



 のんびりと話すその声を、僕たちは知っていた。アストリアの魔法の地図でマーキスのからかい歌を歌ったのも、僕に【Ⅵ】を逢わせてくれたのも皆彼だ。




「よく来たね、【七人の英雄】――正確には『今回に限り六人になってしまった英雄と、かつての英雄』だけど、まあそんなことはどうだっていい」



 寝そべったまま。起き上がる気配がない。勿論彼が立ち上がろうものならば顔は高い場所になりすぎて見上げるのは大変だろう。



「一応自己紹介したほうがいいかい、名前はないが便宜上は神様ってことにしてる」


「……神様?」


「便宜上は、ですか……」



 純粋に聞き返す僕と、突っ込んで聞きたい風のゾドットさん以外にも、あちこちから微かな感情の息遣いが漏れていた。


 困惑。どうせバックヤードでのことだ、今さら何が起きても僕らは素直に受け入れるしかないが、よく知る【神様】という言葉は、つまりは何を示すのかまるでわからなかった。目の前に実体をもって現れた神様は、僕らの思う神様なのだろうか。



「国や地域で信仰も変わるだろう。だから俺が神だといっても必ずしもお前らの思う神と一致はしない。が、お前たちの世界は俺の気持ち一つで容易く滅ぶ――そういう意味で神を名乗る。個人的には魔神の方が響きが好きだ」



 普通の人間であるはずはないから、神様であるというそこは理解出来る。バックヤードでの不思議な出来事は、すべて彼が用意したんだろう。


 そして、僕らの世界は、彼の意思でどうとでもなる程度のものなのか、と……話の規模が大きくて驚くという感情もいまいちわかない。



「決まった姿はない。お前たちとスムーズに対話するため今は人間を模した形にしている」



 そう話す間にも次々違う人の顔になる。どんな形も仮の姿ということだろう。



「以前遊び心で幻獣の姿で英雄の前に出たが、人間の言葉を話すに一番適した形はやはり人間でな。あんまり近く似せすぎても威厳がないらしいから大きさだけは変えている」



 これまで何度も英雄を迎えてきた神様らしい試行錯誤の結果、今の姿に落ち着いたのだろう。


 もしかすると外見に限らず、喋り方や人格すら、決まったものはなく、ただ今僕らに接するためにとりあえずの形をとっているのかもしれない。わざとだらしなく砕けて見せている、もっと崇高なものでありながら――それは一つの可能性だ。


 僕らは黙って話の続きを聞いていた。



「特に質問もないようだ、本題に入ろう」



 神様は僕らの頭の中まで覗いて、一人一人の理解度に満足しているようだった。声で話しているけれど、それは音以外の何かが頭に入ってくる感覚だ。





「今から英雄には最後の試練を与えなきゃならないんだけど、その前にまず、事の経緯から話そうか」



 試練と聞いて、僕は緊張で体がむずむずし始めた。でもその前にまだ何か話があるらしい。



「昔。世界は、そうお前たちの住む世界だ――世界は常に破壊と争いで恐慌を来していた」



 多分誰一人言われた意味がわからなくて、僕も神妙な顔付きになる。理解しようと必死に話を聞いているはずなのに、イメージがわかない。



「ああ、いいんだ、わからないのは良いことだ。お前たちは【戦争】を知らない。混乱した世の中など見たこともないのだからな」



 神様は僕らの足元に氷のような画面を作って、そこに映像を映し出す。いつの時代か、どこの国か、まるでわからないけれど、見たこともない服を着た人々が次々に登場した。


 目まぐるしく時代が変わるのか、別の景色になっていくというのに、どの人々も争っていた。時には素手で殴りあい、罵倒し、時には馬に乗って武器を持ち、時には機械仕掛けの兵器を操り。憎しみや怒りや哀しみが聞こえてくるような、どれも壮絶な景色だ。大人も子供も関係ない。神様が言った『破壊と争い』とはまさにこのことだ。



「人間という生き物は不思議なもので、」



 足元の惨劇に飲まれていた僕らは、神様の声に我に返った。



「知性を持ちながら、欲に駆られ、大挙して世界を蝕む」



 最初は誰かの個人的な問題も、多くの人を巻き込んで大きな力になっていく。一度動き出したうねりは、誰にも止められず、加速した。


 大地も森も湖も動物たちも、人間の起こした争いでその姿を消していく。誰がこんな世界を許すんだ。僕が神様ならきっとこんな世界は終わりにしてしまう。



「お前たちの役割は、世界の秩序を守ることだ」


「次代の地図を持ち帰るだけなら、俺がただ三大国に地図を送りつければいい」


「バックヤードへ来たお前らは、ここで絶望を乗り越え、世界へ帰ったならば、今後の一生をかけて世界に秩序を広める。それが何より大切な仕事だ」



 なんと僕らは、地図を持ち帰る以外にも役割があったらしい。地図はついでの用事になるらしい。


 魔法の地図が必ずしもリレーのバトンではないのなら。それは同時に、もしかしたらこれまでに帰還者がゼロだったこともあるかもしれないことを示唆していた。地図を持ち帰れず途切れた場合にも、次の英雄たちは問題なくバックヤードへ来れたのだ。



「人選はした。お前たちは学んだことを伝える【語り部】になりうる人材だ。それなりに発言力も知恵もある。説得力もあり、暴論を振るわない――それはちょうどいい」



 僕にどんな発言力があるかはまるでわからないけれど、僕はただ神様の言葉を聞く。神様が言うんだからそうなんだろう。



「今から与えるのは俺が好きなスタンスのコンプライアンスだ。意味は遵守、『しなければならないと決められていないが、行なったほうが良いと思われることを積極的に行い、しては駄目だと禁止されてはいないが行わないほうが良いと思われることは厳に慎む』


 法や罰があるからではない。


 私利私欲に走りがちになる前に、社会全体を見回すというただそれだけのことだ。別に難しいことではない。だがこの何気ない気遣いを忘れてしまうと秩序が失われ、やがてこんな風に争いへと発展するそれが【人間】だ」



 神様は手をかざすとたくさんのことを僕たちに植え付けた。魂に上書きされるもの。内容はなんとなくわかるだけで、なんとなくしかわからない。


 それでも僕らは、神様のいう秩序を持ち帰り、そのスタンスを遵守するために、人々に伝えなくてはならない。


 父さんがよく僕に宿題を出したように。今はわからなくともいつかわかるようになる時まで。


 人生で見聞き体験する様々な点は線で結ばれ面を持ち、やがて立体になる。いつか、何か、わかる自分へ。



「僕たちが争いを知らないのは、もう長いことこうして過去の英雄たちがその大切さを伝えているからなの? 百年に一度、必ず誰かが選ばれることで繋いでいるからなの?」


「そうだロイ・ⅠⅥ・ミルカ。お前たちの世界は秩序が保たれ安定している。だが人間は忘れる生き物でもある。だから百年毎に必ず、英雄は選ばれる。個人にどんな事情があっても絶対にバックヤードへ来なければならない。三大国は英雄の事情を全力でサポートする義務がある。この取り決めに背くならば俺が世界を滅ぼすことになっている」





 それまで黙っていたミランさんがか細い声でいった。



「英雄が発表されて、私、辞退させてもらえるようお願いしたんです」



 ある日突然、英雄に選ばれ、世界の裏側へ旅立つことになった僕らは。きっと誰一人自分が選ばれるなんて夢にも思わなかっただろ。それまでの日常を突然、やめろなんて言われて戸惑わない人間は多分いない。僕やマーキスはこどもだから、自分のことだけ考えればいいけど、大人は仕事だってあるし、ミランさんはお母さんを独り、残して来た。



「私の母は体が不自由でずっと私が面倒をみていたから。私がいなくなっては暮らしていけないと……思い込んでいたの」



 虚ろになっていくミランさんは、いつかの僕のようだった。まるで呪いを吐き出すような重たい声で。



「国王陛下が、母の世話をしてくれる施設を優遇してくださり、それまで見せたこともない笑顔で母はその暮らしを受け入れたわ」



 まるで嘘のよう。



「私が毎日、一人で世話をしてきたの。私じゃなければならないと信じて。私の人生は母のためにあったの」


「なのに、」


「私がいなくなって母は幸せになった」



 ミランさんの絶望は、ここにあった。僕は息を飲む。いつも優しくにこにこと笑ってくれたミランさんとはまるで別人の、でも本音を隠さないミランさんだ。



「私なんか、元の世界には不要だわ」


「なにを、いって、るの……ミラン、さん」



 ギクリと背中に冷たいものが走る。皆で帰ろうって言ったのに、ここまで力を合わせてやってきたのに。



「僕なんか、元の世界には不要だ」


「俺は、元の世界には不要さ」


「私は、元の世界には不要なんです」



 信じられない想いで僕は皆を振り返った。いつの間にどうしてだろう、皆が闇に堕ちていた。虚ろな呟きだけを繰り返す。



「皆、一体どうしちゃったの!?」



 おののいて叫ぶ僕に、静かな沈んだ声でクックバレンさんが言った。



「これが奴らの本音だロイ。誰も世界に帰りたいなんて奴はいない。俺とお前を除いて」


「どうして? だって……だって」



 混乱した僕はマーキスの青いローブを掴んだ。



「マーキス、君は違うよね?」


「……僕は、父さんが望む完璧な魔法使いにはなれない……」



 血の気が引いた。マーキスは誰より完璧だった。皆の憧れだった。幸せそうだった。羨ましかった。なのに。



「兄さんたちのようにはなれない」




 僕はクックバレンさんの言葉を、頭の中で反復した。


 それから、今までたくさん神様が教えてくれたこと。



【Ⅰ】は特別だということ。


 皆絶望を抱えていること。


 僕とマーキスがこの先も互いに絶望させあう存在だということ。



 目の前で暗い顔をしたマーキスは、それだけで僕の絶望を誘う。だって、クラスで一番のマーキスは、僕にだって憧れだったんだ。マーキスには僕を認めてほしくて、大嫌いは大好きの裏返し。なのに、



 僕が「一緒に帰ろう」ということすら、君を絶望させていたのかい。




「さあ。ロイ・ⅠⅥ・ミルカ。最後の試練といこう」



 感情を含まない残酷な声は、まるで止まることなく進む時間のように無情だ。神様だからか。



 僕はゆっくりマーキスから神様へと視線を移した。



「絶望を乗り越える。それが英雄たちが元の世界に帰るための条件だ。【Ⅰ】は導く者。絶望を払え」



【Ⅰ】は導く者。かつてクックバレンさんが挑み、六人は元の世界に帰れたのだろうか。どうしてクックバレンさんだけが今もバックヤードに残っているのだろう。失敗すれば僕もクックバレンさんと同じように、一人取り残されるのかな。


 クックバレンさんはただじっと傍観している。



 僕は今まで当たり前だと信じて疑わなかった。元の世界に帰りたい、皆もそうだと思っていた。


 でもそうじゃなかった。



(試練……最後の試練。絶望を払え……? 僕が?)



 何が正しいかすらわからないのに。僕が一人で立ち向かわなければならないんだ。涙ぐんでいる場合じゃない。



「──やっぱり。皆で一緒に帰ろう」



 僕なりに考えた末の結論は、一周回っただけで変わらない。



「待ってて、マーキス」



 僕は一度マーキスから離れ、神様の側から皆を見た。一人一人全員が生きる気力をなくしたように項垂れている。





「一見それはいずれも素晴らしい肩書きばかりだ。


 平和な国を治める王族。誰よりも献身的で母親想い。厳格な王国騎士。貧しい人間も見捨てない医師。由緒正しき魔法使い。真実の探求者。


 しかし本当にそうだろうか。



 ――さあ。裁きの時だ。【Ⅰ】の名を持つ開拓者よ。お前の審判を聞こう」



 神様はそう言って、頬杖をついたままやや挑戦的な笑みを浮かべた。対する僕が泣き出しそうでも、神様は真剣だ。


 黙ったままのクックバレンさんは腕を組んで目を閉じた。わかってる、僕は一人で頑張らなければならない。


 皆を元の世界に帰すんだ。



 一度ゆっくり息を深く吸い込んで、気持ちを落ち着ける。


 大丈夫、


 寒くもないのに手足が何故か震えて、拳をきつく握る。


 大丈夫、


 一番端にいたゾドットさんの前に行く。



「ゾドットさんの絶望を教えてください」



 ただでさえ小柄で色白の体は、ますます小さく縮こまって頼りなく見えた。ボソボソと何か呟いていたゾドットさんが顔をあげる。



「――いのち、」



 神経質そうだった三角の目は今は殆ど開いていない。



「命を救いたかった」



 ゾドットさんの願いは命を救うこと。ただ、たくさんの命を救いたくて勉強をし医師になった。医師になれば命は救えると思ったのだ。けれども医師はより多くの死を目の当たりにした。救えない命がたくさんあった。ある時は幼子がその幽かな灯火を絶し、母親は咽び泣いた。医師は自分が責められているようで居たたまれなかった。それから何年も母親の泣き声が耳から離れない。



「だからもう、私は帰る宛てなどないのです」


「そんなことない」



 僕は静かに否定した。



「ゾドットさんは僕の命も救ってくれた。救えなかった命もあっただろうけど、きっと救った命もたくさんあるんだよ」



 どんなに手を尽くしたって、神に祈ったって、病気の進行を止められないことはある。でも哀しみに囚われるあまり、感謝や歓びの声まで聴こえなくなってしまった。



「思い出して。元気になってありがとうと言ったひとのこと」




 ゾドットさんはぽろぽろと涙を溢し、震えだした。



「私は……私は……!」


「帰ろう? ゾドットさんがいない間にも病気のひとはいるんだから」




 何度も何度も頷いて泣き続けるゾドットさんに僕は、お礼を告げた。



「助けてくれてありがとう」



 そして隣のパシファムさんの前に移動した。



 パシファムさんはぼうっと上を見上げていた。天井は暗い岩があるだけ。



「パシファムさんの絶望を教えてください」



 諦めたように今度は下を向いた。



「皆が争うんだ」



 パシファムさんはただ穏やかに過ごしていたかったのに、陰謀めいた場所に長年暮らしていた。それは幼い頃から始まっていたけれど、パシファムさん自身が漸くその事に気付いたのは大人になってからだった。



「王位継承者が三人いるんだ。僕の国は平和だから表立った争いなんかはないんだけどね、後見人たちは自分の息が掛かった者を『正当なる継承者だ』とつまらないことに躍起になって……」



 誰が王になろうとそんなに変わらないのに、とパシファムさんは呟いた。



「僕はそんな継承候補から早く外されてしまえばいいと思うんだ。何の役にもたたないろくでなしだと、遊んでばかりいれば皆も諦めるんじゃないか、って」



 けれど、誰が王になっても変わらない。音楽や物語に耽るばかりでも、後見人たちにはかえって好都合。自分の意志を持たない人間は扱いやすいのだ。



「僕はもうあんなところには帰りたくないんだ」


「だからここで同じ物語を読み続けるんですか」



 本は何度でも読める。でもそこに書かれた物語は変わらない。



「……争いは嫌なんだ」



 物語は僕も好きだ。パシファムさんの気持ちはわかる。でも。



「じゃあ国民はどうなりますか」


「え?」


「パシファムさんの国の国民の人たちは、しっかりした人に王様となってもらいたいはずです」



 出来れば後見人に左右されない責任感のある人に。僕ならそう願う。



「他の二人の王位継承者とは話しましたか。二人はどう思っていますか。どんな人ですか」


「……あんまり、よくは知らない」


「ちゃんと知ってください。次の王様になるのに一番相応しいのは誰なのか。国民を任せられる相手なのか。二人が頼りなければパシファムさんが王位につくしかありません」


「僕が王位に?」


「そうです。争いを嫌うパシファムさんならきっといい国を守ってくれます」



 穏やかで優しくて、僕の知るパシファムさんはとても落ち着いている。



「誰が王様になっても。国と国民のために力を貸してください。パシファムさんは素敵な人です」



「だけど」



 言い淀むパシファムさんはやがて小さく首を横に振った。



「そうだね。ロイの言う通りだよね」




 ゾドットさんの持つ、ウァルフガンの地図が光りだし神様が漸く体を起こした。胡座をかいて座り直しパチパチと間延びした拍手をする。



「お見事だ。ウァルフガンの地図は二人の帰還を認めると言っている。二人は英雄としてこれから先も頑張ってくれよ」



 ゾドットさんとパシファムさんは一度僕を振り返り頭を下げた。



「ありがとうございます」


「君のおかげで目が覚めたよ」



 もう暗い陰りはどこにもない、凛とした眼差しだった。迷いが晴れたからかいつも以上に優しく見えた。



「パシファムさんとゾドットさんなら、きっと大丈夫。辛いことがあっても自分を信じて」



 楽しいことばかりの人生なんかより、それは大切で。誰かを想う強さを忘れないでほしいんだ。



 神様が二人に次代の地図を渡し、二人は光の中に消えていった。これで‐元の世界‐ウァルフガン王国へ帰れたのかな。



「いい調子だな」


「多分僕がこどもで皆が大人だからです」



 こどもなんかの前でいつまでもうじうじはしていられない。普通の大人なら、そんな理性が働くんだろう。


 クックバレンさんは盛大に溜め息を付いた。



「俺は激情からあいつらを突き放した。帰りたくない奴は帰らなきゃいい、と。俺は一人で帰る! ってな」



 それはきっと僕の知らない前の話。



「クックバレンさんのそういう男らしいとこ嫌いじゃないです」


「褒めても何もでねーよ」



 僕はクックバレンさんに背中を叩かれ、デュラーさんの前に進む。


 今回のメンバーの中で、一番男らしいと僕が思うデュラーさんが抱えている絶望を、僕なんかがどうにか出来るものか不安だ。


 いや、


 不安や迷いは今はいらない。


 皆が元の世界に帰るために、今は弱気になんてなれないんだ。




 デュラーさんは絶望にうちひしがれるというよりは険しい顔をしていた。何か胸のうちで自問自答をしているのか、口は頑なに閉ざされている。


 大人が真剣に考え事をしているときには、こどもは声をかけてはいけないって母さんたちはよく言った。でもね、今は僕が【Ⅰ】だから、こどもだからって引き下がれないんだよ。こどもだからこそ言えることもあるはずなんだ。



「デュラーさん。デュラーさんの絶望を教えてください」


「――それは出来ない」



 僕は驚いた。ミランさんもマーキスもゾドットさんもパシファムさんも、つまりデュラーさん以外の皆は、素直に教えてくれたのに。



 身を乗り出し、神様がデュラーさんを覗き込む。



「絶望の闇にあって、周りが見えない状態だから、普段は心の奥底に閉じ込めている闇を、簡単に吐き出す。――本来なら、な」



 神様も不思議そうにデュラーさんを見ている。


 僕の心は焦り出す。



 デュラーさんの抱えている絶望がわからないままでは、僕になすすべはない。


 語れない理由がある、それは何?



 神様は言った。


『一見それはいずれも素晴らしい肩書きばかりだ』


 平和な国を治める王族。

 誰よりも献身的で母親想い。

 厳格な王国騎士。

 貧しい人間も見捨てない医師。

 由緒正しき魔法使い。

 真実の探求者。


『しかし本当にそうだろうか』



 皆、自分の立場に不安や不信をいだいている。だからこそ絶望しているんだ。


 パシファムさんは王族だった。

 ゾドットさんはお医者さんだった。



 デュラーさんは――


「デュラーさんは王国騎士ですね?」



 僕は必死に考えながら、言葉を繋いだ。



「そう、かつては。誉れ高き王国騎士であった」


「だが、今は騎士勲章も剥奪された、ただの囚人。騎士を名乗ることは出来ない」



 眈々と語るデュラーさんに、怒りや哀しみの感情は見られない。事実をただ語っている。


 デュラーさんは自分の絶望を教えることを拒んだのだから、騎士勲章を剥奪されたこととは別に、何か言えない絶望がある。



「言えない理由があるんですよね。――それって、今もデュラーさんが『心は誉れ高き王国騎士だから』なんじゃないですか」



 瞬きもしない僕が真っ直ぐ見据える先。デュラーさんは僅かに息を飲む。



「王国騎士は、王族と国を護る騎士。とても気高き騎士道がある。自分個人より、常に大義を優先する――。


 デュラーさん。僕に話せないのは、デュラーさんが今も国や王家の人を護っているから、だから黙秘するんじゃないですか」


「それって、立派な王国騎士でしょう!?」



 何も答えないデュラーさんに僕は畳み掛けた。否定をしない、それは肯定。デュラーさんは、不意に小さく笑った。



「そんなふうには考えたことはなかったな」



 どんな事情で失脚したのか、幽閉された理由は恐らく国や王家のため。


 腕に今も痛々しい手枷の跡が付いている。



「英雄に選ばれ、牢は解かれたが――王国騎士には戻れない」



 ゆっくり痣を撫でてデュラーさんは苦笑した。



「誉れ高き心のまま、新しい人生を歩んでください。デュラーさんならきっと、誰かの助けになる」


「手厳しい、さすがは魔法使い様だ」



 冗談を呟く瞳はもういつもの落ち着いた光を湛えていた。



「あと、一緒にミランさんを助けて」



 今もさめざめと泣いている、ミランさんのことを見る。泣いてる女の人の扱いは、僕だけじゃ荷が重そうだ。



「俺が過去と向き合っている間に、一体何があったんだ」



 どうやらデュラーさんは、ミランさんや他の皆の話も知らないようだった。


 僕は大まかに事情を話した。特にミランさんのことを。僕や【Ⅵ】のことも。



「……そうか。俺は牢に投獄されている数年の間、ずっと考えた過去だから案外さっぱりしたものだが。日常的に抱えていたのならさぞかし辛いのだろう」



 僕にはデュラーさんの闇だって想像すら及ばない途方もないものに思えた。


 もうすっかり闇を感じさせないデュラーさんは頼もしい。



 二人でミランさんの前に立つ。



 昔僕が人前で泣くのは赤ちゃんみたいで恥ずかしいって言ったら、おばあちゃんが本当に泣きたい時には我慢いらないと教えてくれたんだ。涙で癒せるものもあるのだから、って。



 啜り泣くミランさんの瞼は真っ赤になっている。涙の数だけ心の傷は癒えただろうか。



「ミランさん。一緒に帰ろ」


「……帰る場所なんかないわ」


「あるよ。ミランさんのお母さんも待ってるよ」



 さめざめと泣き暮れるミランさんに、心が痛む。



「僕の母さんだって、笑って見送ってくれたよ。励まして背中を押してくれたよ。でも僕らがいなくなってきっと後から泣いたと思う」


「…………」



 ミランさんはじっと黙って僕の話を聞いた。



「僕らが戻らなかったらもっと泣いちゃう」



 俯いたまま、涙を拭う。



「僕も会いに行くよ。ミランさんのお母さんは僕のもう一人のおばあちゃんでしょ。【Ⅵ】が会いたがってる」


「ほんと? ……でもアストリアからポータまでは遠いわ」


「もっともっと立派な魔法使いになれば、そんなのひとっ飛びさ」



 僕がおどけると、ミランさんが笑った。



「ロイは優しい子ね」



 抱き締めて頭を撫でてくれる。



「ミランさんほどじゃないよ」



 その様子を見ていたデュラーさんが柔らかく目を細めた。



 ウィングルドの地図は光りだし二人の周りに円を描いた。



「これはなぁに?」



 驚くミランさんに神様が言った。



「さあ、ウァルフガンに続きウィングルドへの路も開いたぞ。新たに二人の英雄の帰還だ」


「――ロイ。お前も無事に帰れよ」


「そうよ。お母さまによろしくね」



 神様に新しい地図を渡され、二人は慌てて僕に別れの言葉を投げ掛ける。大丈夫。僕は闇に飲まれやしないさ。



「元気でね」



 大きく手を振って見送る。


 そしてバックヤードには神様と僕ら三人が残った。



「今回のアストリアの地図は帰還者を二名、――連れてきた人数までしか帰せない」



 神様の言葉に僕は首を傾げた。



「じゃあ二名という人数以外の制限はないんだね?」


「そういうことになるね」



 百年前の英雄、クックバレンさんも元の世界に帰ることが出来るチャンスらしい。



「おい。まさかお前。よせやい、俺なんざ」


 顔色を変えたクックバレンさんが僕に詰め寄る。


「クックバレンさんも帰りたいでしょ」

「馬鹿を言うもんじゃねえ。これはお前たちの分の切符だ。俺だって帰れるもんなら帰りてえが、お前らが犠牲になることはない。こどもが帰らない親の気持ちが、どれだけ辛いかお前らにはわからんかもしれんが、俺は」


「僕がバックヤードに残るよ。」



 辺りの岩の壁に綺麗に反響する声。マーキスが亡霊みたいに佇んでこっちを見ていた。



「偉大な魔法使いは、骨身を削り勉学や研究に励み、大事の際には大衆を救うことを躊躇わない――己の命と引き換えにでも」



 見る者がゾッとするくらい、マーキスの目は据わっていた。



「魔法使いは自己犠牲をいとわない」


「マーキス、」



 声をかけることすら躊躇われる濃い闇。マーキスの呟く言葉が魔法に覆われている。



「父さん。僕はティンクベル家の名に恥じない立派な魔法使いになります」


「おじさん。立派な魔法使いってどういうこと?」


「父さんたちの言う通りにしていれば、立派な魔法使いになれるんだね」



 まるでそこに誰かいて、いやそれは過去の記憶だろう。マーキスはおじさんたちに告げたんだ。そしてガクリと一度項垂れ頭を振った。



「僕はロイのように


 自分自身の判断で、立派だと思う魔法使いになりたい――」



 閉鎖された空を見上げて、哀しみを歌う。マーキスの周りを黒い蝶のような影がいくつか舞った。


 制約と強制、伝統ある絶対を強いられる不自由な完璧に、マーキスの心は張り裂けそうだ。



「僕には自由はない。許されない。我が儘だ。


 ロイ。君は元の世界で、真実立派な魔法使いになってくれ」



 笑顔でそういうマーキスに、僕は声が掠れた。



「僕は。君を置いてはいかない」


「そうだそうだ。お前ら二人はちゃんと親元に帰りやがれ」



 クックバレンさんが腕を組んでマーキスを睨む。マーキスも不敵な笑みでクックバレンさんを見た。



「クックバレン、ウィーア。アストリアでウィーアといえば、ウィーア大銀行。経済の基盤を支える一族だ。百年前は銀行屋を金貸しと呼んだの?」


「銀行以外に誰が金を貸すんだ」


「僕らの時代では銀行の他にもあるよ。別名借金取りと言って、お金を返せないひとの土地や財産を奪っていくんだ」



 クックバレンさんは顔色を変えた。険しい表情だ。



「そんな酷い金貸しがあるか!」


「あるんだよ。……もし、あなたがアストリアに帰れたなら、そうはならないかもしれない。ウィーアの名を聞いた時から、僕はそう考えていた」



 マーキスは袖から出したタクトの先で黒い蝶たちを弄ぶ。



「……っ、しかし、しかしよ」


「あなたはアストリアに帰るべきひとだ。アストリアの貧富の差を埋めることが出来る」



 歯を食い縛るクックバレンさんを見て、僕はふんわりと笑った。



「僕もクックバレンさんには、ちゃんと元の世界‐元の時代のアストリア‐に戻ってほしいな。難しいことはよくわからないけど、今のアストリアでは家無しのこどもたちが大勢、橋の下で暮らしてるんだ」



 意外と【こども思い】のクックバレンさんだから、地面に膝を突いて頭を抱えた。



「でもお前らをこんな場所に、身代わりになんか」


「クックバレンさん。僕たち魔法使いだよ?」



 僕が言うと、マーキスは高々とタクトを振って僕の知らない呪文を唱えた。



「な、お前らっ」



 慌てるクックバレンさんに問答無用で襲い掛かるマーキスの魔法は、アストリアの魔法の地図でクックバレンさんを吸い込もうとしている。



「ふざけんな、こんな」


「大丈夫。マーキスのことは僕に任せて?」



 クックバレンさんは泣いていた。大人のくせに抗えない屈辱か。アストリアへ帰れる喜びか。失敗への懺悔か。



「──俺は絶対、絶対アストリアを救う!」



 力一杯叫んでクックバレンさんは消えた。そのあとは恐いくらいの静寂、僕とマーキスが視線を交差させる。


 一瞬でも気を抜いたら、クックバレンさんのように無理矢理強制送還されてしまうかもしれない。僕の手にもタクトは握られていた。



「ロイ。魔法で僕に勝てると思ってるのか」


「敵うわけないじゃないか」



 そんなの、火を見るよりも明らかだ。



 緊張で手に汗を掻いているのがわかる。タクトの先が震える。


 王様気取りの青いローブは、力で僕を捩じ伏せようとはためいた。耳がとらえる呪文も、聞いたことがないのでは予測がたたない。



(魔法で戦うなんて)



 嫌だよ、マーキスと戦うなんて。



 たくさんの光の矢が降り注ぐ。僕は光をねじ曲げる壁を目の前に作った。いくつかの矢は軌道を変えて四方に散ったけれど、一本だけ僕の頬を掠めて肌を切り裂いた。


 焼ける痛みが走っても、足を止めれば次の攻撃が来る。僕は駆け出す。



 マーキスの目的は僕を元の世界に帰すこと。


 僕の目的は、マーキスの闇を払って一緒に帰ること。


 アストリア行きの切符は一枚だ。



 結論から言えば、僕はマーキスには敵わない。魔法で彼を凌ぐ術はない。速度も威力も種類も、どう足掻いたって勝てない。



 マーキスの攻撃に僕は後手の防戦一方、それすら上手くは決まらずぼろぼろになる。



「マーキス。君は僕の友達だ」


「友達はこんな風に君を傷付けたりはしない、いい加減、目を覚ましたらどうだ」



 目を覚ますのは、君の方だ。僕は必死に走り、座り込んでいる神様の後ろにまわった。



「ロイ。神様を楯にするなんてどういうつもりだ」


「君こそ。神様の前で戦うなんてどういうつもりだい」



 肩で息をしながら、僕は活路を探す。



「太古の昔から神前試合は繰り返されてきた。戦いが嫌なら尻尾を巻いて元の世界へ逃げ帰ればいい」


「それは出来ない。女王陛下のお言葉を君は忘れたかい」



 マーキスはタクトを構えていた腕を下ろした。



「いいや? 忘れてはいない。でもすでにアストリアに帰還出来るのは一人だけだ。どちらかが残るのだから、もう協力も信頼も必要ない」


「僕はそうは思わないよ。君を帰して、僕も帰る。僕はミスチェンバーとも約束した」



 ポタポタと頬から落ちる血が、僕のローブの肩口を紅に染める。そういえば赤いローブの魔法使いは見たことがないな。お城の騎士は赤いマントだった。


 息を整えながら、僕はそんなことをぼんやり思った。



「ミスチェンバーって、誰のことだい」


「さてね。君のことを心配してた可愛娘ちゃんだよ!」



 マーキスだって、誰か好きな娘がいるんだろ。ほんとは帰りたいに決まってる。



「どちらが帰っても絶望が残るんだ。誰かが悲しむんだ。だから、二人で帰ろう」


「何度も同じこと言わせるなよ。アストリアには一人しか帰れない」



 マーキスの状況判断は冷静だ。現状から対策を練る。だけど。



「君は諦めているからだろう。だから、使のは君だ」



 現状なんか、打破しなきゃ。願いは叶わない。



 僕は神様の周りに、ぞろぞろとアストリアの騎士を出現させた。といっても形を真似ただけの魔法人形だ。今の僕に出来るのはこんなところが限界だろう。


 突如現れた人形たちに驚いて、マーキスは、目をあちこちに動かす。



「君に。何が出来るっていうんだ!」



 僕の姿を見つけられないマーキスがきょろきょろしながら叫ぶ。



「出来るさ! 僕らは魔法使いだ」



 可能性を諦めない。ゼロではないなら、叶うまで続ける。そんな簡単なこと、何故君は諦めてしまえるんだ。



「……っ、君は」



 マーキスが顔を歪めて肩を怒らせる。



「君は、どうしてわかってくれないんだ!! 僕は君を救いたいだけなのに! こんな場所に君を残して帰るなんて絶対嫌なのに!」


「わかるさ」



 マーキスのすぐ後ろで僕が呟くと、マーキスはハッとして振り返った。赤いマントの騎士に紛れてこんな近くまで接近したなんてことよりも、マーキスは僕の言葉に驚いたのかもしれない。



「僕も同じ気持ちだもの」



 マーキスの目はもう闇を宿してはいなかった。たくさん僕を攻撃したのもほんとは辛かったのだろう。泣き出しそうな目が、懇願する。



「お願いだ。地図は君が使ってくれ、ロイ」



 お父さんが望む立派な魔法使いになる絶望より、僕を一人バックヤードに残して帰る絶望のほうが君の中では大きくなってしまった。それが嬉しくて僕は笑顔で言った。



「ありがとうマーキス。


 地図は、僕が使うよ、君に」





 一瞬安心したように表情を緩ませかけたマーキスがぎょっとした時には、僕は力一杯マーキスを突き飛ばしていた。


 僕に伸ばすマーキスの指先がスローモーションで遠ざかる。


 アストリアへの地図は眩い光でマーキスを飲み込み、僕を呼ぶ絶叫も、最後の絶望を焼き付ける瞳も、みんなみんななかったみたいに、跡形もなく消えた。





 バックヤードの洞窟に、ただ一人となった僕はその場にへたりこんだ。ついに全員、元の世界へ送り返すことが出来た。




 ホッとしたのか、無意識に呟く。



「神様は間違ってなかった」



 僕たちは、何度も絶望させあう存在だった。


 マーキスのあの顔。僕はどんなにか君を絶望させたろう。今頃になって僕の両目からぽろぽろといくつも涙が落ちた。恐かったし辛かったけれど、僕は最大限に頑張ったと思う。顔の傷は痛むけれど、心ほどじゃない。



「太陽の光を求めて伸びる草花のように、世界へ帰ることを当たり前だとする【Ⅰ】でありながら。ロイ。お前は最後まで他人を優先した」



 神様はいつの間にか僕らと同じ普通の人間の大きさでそこにいた。僕は涙を拭って神様に向き直る。



「それは多分違うと思う。僕が【Ⅰ】だから。その役割を第一に考えただけで。【Ⅰ】が特別だって言われていなければ、率先して動けたとは思わない」



 周りは大人ばかり。同じこどものマーキスはエリート。どうして僕が、彼らに甘えず頑張れただろう?


 役割を与えられたからだ。



 それももう、これで終わり。ゾドットさんもパシファムさんもデュラーさんもミランさんも、クックバレンさんも、マーキスも。皆元の世界に帰った。



「そうしてお前は、このバックヤードに残った」



 僕はしばらく神様の顔を眺めてから、クスクスと笑いだした。



「【Ⅵ】を連れてウィングルド領のポータに行くよ」


「それは元の世界に帰るということか」


「そうだよ」



 神様も僕をじっと見ていた。



「神様は僕らの世界の物をバックヤードに出せるでしょう?」



 方眉を上げて神様は続きを促す。



「何冊か、向こうの本を調達したいんだ。魔法書だよ」


「お前はどうしてそれができると思うんだ」



 イエスもノーも言わないまま、神様は僕から目を離さない。



「チェチェトの葉は春風の丘にしか生えない。こんな岩の洞窟に育つわけはない。僕らが知っているものなら、必要になればバックヤードに出せた……違うかな」


「違わない。ガキだと思って見くびっていた」



 神様は何もない空気から二冊の魔法書を取り出し僕に差し出した。



「俺に媚びもせず、自力で帰るんだな」


「自分で出来るかもしれないうちは、神様にお願いしちゃダメだ。頑張ることをやめてしまったら、自分の価値を下げてしまう」



 それも昔、おばあちゃんが言ってた言葉。僕はバックヤードに来てから随分たくさん思い出の言葉たちに救われた気がする。



「今日の僕が無理でも、明日の僕を信じる」


「ここに時間の概念はないぞ?」


「言葉のあやだよ」



 ──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────── 



 それから恐らく、長い年月をかけてその魔法を習得した。




 というのも、バックヤードには時間の概念がないから、どれだけ長い時間も一瞬前も違いはない。飲まず食わず寝ず休まず、ただひたすらに魔法に没頭できたことは、幸運だった。



「幸運? 違うな、好都合と書き直せ」



 神様が何か言っていたけれど、重要な情報ではなさそうだったから僕は聞き流した。



「必要なものは揃ってると思う」



 僕は魔法書を何度も確認して、一人でぶつぶつと呟く。


 時空間を超えて元の世界に帰る魔法は、まだ誰も成功させていない。理論だけが記された魔法書は、チェンバー魔法学院の図書室に物語の本と同じ扱いで並んでいる。


 その魔法書によると、二つの世界を結ぶ【一つの物】が、そこに存在している必要がある。



 向こうからでは、こちらに何があるかわからないだろう。でもこちらにいる僕は、あちらに何があるか知っている。


 例えば、フェアがくれたお守りの人形。フェアの前髪でできているこれは、二つの世界にあるものだ。



「材料は揃えた。あとは僕の魔力が足りないこと……」


「何かが欲しいならば代価が必要だ。お前はお前に支払える何かを手放すんだ」

「うん。ちゃんと考えてある」


 山積みの問題は一つずつ解決していく。目を閉じて集中すればいつかのマーキスたちの歌声が頭の中に蘇る。チェンバー魔法学院の合唱団の歌声も同時にイメージする。まるで目の前で今、皆が歌っている。



「短い間だったが楽しかったぞ」



 神様がほんとか嘘かよくわからないお世辞を言った。



「僕がいなくなったら淋しい?」


「すぐまた次の英雄が来る。ここはそういう場所だ」



 そう言って差し出すのは次代アストリアの地図。僕は神様から受け取った。



 頭の中の大合唱はいよいよ盛り上がって僕の気持ちや魔力を高めていく。


 指で禁書の文字をなぞった。これはローバー学長やケイミラー先生が管理していて本来なら僕らが読めない魔法書だ。



 さあ、行こう。



 夢を見るように、思い描いた。フェアは僕がいなくなって寂しさや不安に耐えきれなくなった頃、僕からの手紙の封をあけただろう。


 僕の魂の状態を映す契約書が、魔法ショップ、ベルランカで見られる。手紙にはそのことを書いたから、僕が闇に落ちればフェアたちをたちまち不安にさせたに違いない。


 ずっと見ている。そう思ったから僕は頑張れた。


 こんなにかかってしまったけれど、どうかあれから、さほど変わらない時間に帰れるだろうか。マーキスの哀しみは一秒でも早く止めてあげたい。



 僕のせいで、いっぱい辛い想いをさせたね。



 いつか、世界中に届けたい。僕らのことを。世界のことを。


 だから、元の世界に帰ったら僕は本を書くことにするよ。



 長い長いお話になりそうだ。


 タイトルは……『Ⅶ』。君の名前。そして僕と【Ⅵ】の新しい姿。ここで出逢った仲間。




 さあ、始めよう。秩序と僕の明日を。



 君に再会できたら。僕はまた声をあげて泣いてしまうだろう。そこがどこだろうと、止まらないほどに。


 でも、いいよね。



 それだけのことはしてきたよね。





 いざ。光のなかへ――。




 ≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡


 † エピローグ




 朝の陽光ひかりが射し込んでくる。暖かい。人肌の温もりのお布団は心地好くて、いつまでも包まれていたい。そんな僕の気持ちを無視して騒がしい足音がした。



「お兄ちゃん? いつまで寝ているの!」



 部屋に入り込んで来た妹は、きっと仁王立ちで僕を見下ろしているんだ。布団の上を跳び跳ねる小猿は軽すぎて僕の微睡みを妨げない。



「今日はチェンバー魔法学院の入学式なのよ!」


「それは知っているけど、まだ時間はあるじゃないか」



 僕は布団の中へ潜り込もうとしたけれど、フェアの唱える呪文に僕のささやかな幸せは吹き飛ばされた。



「見てみて! 似合う?」



 チェンバー魔法学院の制服に身を包んだフェアがくるりと回った。



「似合うに決まってるだろ。僕が似合うものはフェアにも似合うよ」



 長い髪だけトレードマークで、他は僕とおんなじだ。



「女の子の制服よ。とんがり帽子もあるんだから」



 ローブを羽織ってしまえば女子の制服も男子の制服も見分けはつかない。そんなせいか今年から、女子にはとんがり帽子が贈られた。噂では去年入学した生徒のなかに、男女を間違えた【お間抜けさん】がいたらしい。噂じゃなくても知ってる。ティンクベル家の御曹子だ。



「まあ、帽子なんかなくたって、誰もお前を男だなんて思わないよ」


「そんな心配してないわよ。可愛いでしょ、ってこと!」



 随分ご機嫌だけど、妹は自分の立場がわかっているんだろうか。僕は心配になってきた。



「スピーチは大丈夫なの?」


「ええ、バッチリよ。お兄ちゃんは、お話をどこまで書いたの?」



 フェアは僕の机の上に出しっぱなしの原稿を覗き込んだ。



「もうすぐ書き終わるよ。僕がバックヤードから帰還するところまで昨夜書いたんだ」


「また夜更かしして!」


「僕のことより、今日はお前だろ」



 呆れた僕に、フェアはあかんべをしてみせた。



「スピーチくらいできるわよ」



 新入生代表に選ばれてしまったことへのプレッシャーはないんだろうか。



「ベルランカの店長も入学式を見に来てくれるんですって」



 フェアはしばらく魔法ショップベルランカでアルバイトをしていたから、店長のおじさんとはすっかり仲良しだった。



「女王陛下がお越しくださるんだぞ」




 メイルゥ・フィハネス女王陛下が、国家魔法術士にして宮廷魔法使いのカルスス様とストリィ様を連れてご列席されるというのだ。なぜならば、女王陛下はフェアの後見人であらせられるからだ。




 約束したとおり。無事にバックヤードから帰還した僕らは、女王陛下からご褒美を賜った。


 僕は妹のフェアが、チェンバー魔法学院に通えるようにお願いした。そしたらこうなった。



 僕が帰還した時、場所は旅立ちと同じアストリアのお城だった。でもそこにマーキスの姿はなく、僕が女王陛下に状況を訊ねようとした時、マーキスが帰還した。つまりずっとあとにバックヤードを発った僕はマーキスを追い越して先に帰って来たらしい。



 僕の名前を叫んで現れたマーキスに、僕が「おかえり」と言うとマーキスは大混乱していた。


 無理もない。僕は僕でマーキスを見た安心感から大泣きしてしまったし、記憶は定かではない。



 禁書で、一生分の自分の魔力を前借りした僕は、魔法の力を失ってしまった。


 でも、今も後悔はしていない。


 魔法使いではなくなっても、僕は僕だから。



 マーキスやフェアと、一緒にチェンバーには通えないけれど、他にもたくさんのことに興味がある。時々ケイミラー先生の授業の助手をしたり、モーガンさんに会いに行ったりしてチェンバーには足を運んでいる。



 それから、ウィーア銀行が孤児の支援活動をしている。その手伝いのボランティアも何度か参加してみた。ウィーアグループの代表のひとがクックバレンさんに似た面影のあるひとで、なんだか懐かしい気持ちになったんだ。



 今書いてるお話を書き終えたら、ひとりで旅に出ようと思ってる。


 おばあちゃんにも会いたいし、ミランさんたちにも会いに行く。何でもミランさんは、実家でお母さんとデュラーさんと三人で暮らしているらしい。手紙にそう書いてあった。


 パシファムさんやゾドットさんにも会いに行けたらいいな。





 甘い焼きたてのパンの香りが僕を呼ぶ。父さんと母さん、フェアと肩に座る小猿のパン。


 当たり前の日常が、特別な日常に感じる。朝食を食べていると、いつもより少しだけ早い時間にベルがなった。玄関には花束を抱えたマーキス。



「やあ、おはようマーキス。今日は早いね」


「そりゃあ今日は特別な日だから」



 僕がマーキスと話していると、間にフェアが割り込んできた。



「マーキスくんはお兄ちゃんに近寄らないでっ」



 フェアとお揃いの僕の顔には、傷痕が残ってしまった。僕は気にしてないけれど、フェアは未だにマーキスに当りがキツい。こうして毎朝マーキスが謝罪に通っているのに、フェアはにこりともしないでマーキスにだけ冷ややかな視線を送る。



「マーキス。フェアのこと頼むね」


「勿論さ。僕がちゃんと面倒をみるから――」


「私、マーキスくんに助けてもらわなくても平気よ!」



 でも花束はちゃんと受け取るフェアに、母さんも苦笑いだ。




 世界はきっと、僕一人欠けたくらいではどうにもなりはしないだろうけど。あの時皆が、自分は世界に不要だと嘆いたけれど。


 力をなくしたって、僕にはまだまだやり残したことがある。



 君がもしいつか、闇の心に触れて絶望していても。


 自分から世界を愛そう。もっともっと。




 ねえ神様。


 次の英雄たちが困っていたら。この本を届けてね。



 僕にだってできたから。


『ちゃんと皆で帰っておいで。』






 

           7  魔法少年と最果ての地図 …… the end.











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