sakura

伽藍

第一章  覚醒

プロローグ

 ――甘い蜜の香りがする。

 踏みしめた地面は彩りに溢れ、満ちた空気は鮮やかな。

 そして何より、勝利の後のこの園ははっとするほどに美しかった。

 ただこの時のために、全てを捨てた。

 兄弟とも呼べる者達を殺戮し、己を神と慕う民達を駒同然に。

 ――それが果たして我が魂に何を齎したか。悔恨。慙愧。悲哀。否、どれも違う。であれば歓喜かなどと、そんなものを覚えるほどに、既に正常ではなかった。

 何も。何も無い。何も感じない。何も思わない。無、それこそはこの凄惨な運命が齎したものであり、残酷なる宿命が残したものである。

 或いは。全て、己すらも捨てることをこそ、勝ち残った者の定めと言うか。

 こんなはずではなかったのに。そう言えばいいのか。果たして誰に。

 世界に。樹に。神に。己に。――始まりの一人に?

「――これを、飲めばいいんですよね?」

 男はひそやかに問う。一面の花畑に、応える者はない。だが彼は確かに応えを受け取ったようで、ふと微笑んだ。

「ええ……でも、ね。私は……私は、もう『決断』しました」 

 ――或いはそれは「逃げ」であろうと、そう糾弾する者は何処にもいない。

 目前にそびえたつ雄大な世界樹の幹。それに突き立った人ほどの長さもあろうかという針が、一つの硝子の彫像を磔刑に処している。

 かつてコレは、人であった。人であることを捨て神となった。その成れの果て。

 いずれ男が行き着く先。

 硝子の中には、美しく桃色に光る、氷で出来たような硬質の花が一輪、咲いていた。

 男はそれに手を伸ばす。無論のこと、その指先は硝子に阻まれて――、

 するり、と。指先がその胸を撫でた刹那、彫像は、粉々に砕け散った。

 ヒラヒラと煌く破片の雪。その中、花が変わらず浮いている。

 男はそれを両手で恭しく掬い上げると、徐に口元に運んで、躊躇なく、飲み込んだ。

 そして――再生と喪失が、再び始まった。

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