第3話 天使の枷

 結架が集一に本名を打ち明けたのは、五回目に二重唱をした日だ。そして、それは最後の日となった。

 その日、スカルパ教授は持ってくるべき楽譜を間違えたと言って席を外した。ふたりは、なんとなく黙っていた。

 集一の視線を追った結架は、彼が見つめている鞄に気がついた。黒い大型の鞄。楽器のケースだろうか。しかし、結架は内心、首を傾げた。彼の美声は、声楽家に相応しい。たしかに声変わりというリスクはあるが、これほど のびやかに、綺麗に歌えるのだ。声楽教師のエリザベッタ・フェリーチェとマルティーノ・ペッラが、放っておく筈がない。きっと、世界的な歌手になるだろう。

 ──そう、なんの妨害もなければ。

 結架の首筋を、冷たい風が吹き抜ける。

 ──やっぱり、話しておくべきかしら。

 数秒間の後、彼女は意を決して話しかけた。

「シュー。そう呼んでも、よいのかしら」

 彼の視線が結架のほうを向く。

「どうぞ。本名は違うけれど」

 優しい声音に、結架の胸が震えて痛む。彼女はかろうじて声まで震えるのを堪えた。

「ごめんなさい。本名は教えないで。失礼を承知でお願いするけれど、それが、あなたの安全のためなの。教授は、生徒の本当の名前を覚えることが殆どないから、わたしは こうして、あなたに会える。あなたが本当はマシューでも、ジュードでも、翔太さんでも、わたしは驚かないわ」

 集一が首を傾げる。顰められた彼の眉を見て、結架の胸の痛みが鋭くなった。

「こうして一緒にレッスンするのが、危険だとでもいうようだね」

「そうよ。危険だわ。わたしがこのレッスンを楽しみにしているから、なおさらに」

 音楽院で、教授かラウラから離れてはならず、二人とエリザベッタ・フェリーチェ以外に接触してはならない。

 ほかの学生たちのレツィオーネを見学するのは良いが、姿を見られてはならない。

 特別講義クラスに近づいてはならない。

 結架は、三つすべての禁止事項を破ってしまっている。

 ──あのときも、そうだったわ。

 全身から血の気が引いて、立っているのが、やっとだ。

 ──知られなければ、大丈夫。

 言い聞かせながら、両足に力をこめる。

「スカルパ教授は、このレッスンが、わたしたちには有益だと信じているけれど、そうではないと感じる存在もあるの。わたしは、その指示に逆らえないから……」

 集一の眉が跳ねあがった。

「まるで、神さまだ」

「ええ。ある意味では、神さま以上よ」

 ふたりは、それぞれに心が強ばった。

「それなら、どうしてレッスンを受け入れるんだい?」

 禁じられているのに。

 結架は頬が熱くなった。

 彼との二重唱が、魂を恍惚とさせ、肉体を高揚させる。この世の悦びと、あの世の愉しみを、すべて集めて与えられるかのような瞬間。

「それは……」

 思ったままを口に出すのは、結架には躊躇われた。

「さっきも言ったように、わたしがレッスンを楽しみにしているから」

 すると、集一の眼に力が こもったように見えた。

「それって、悪いことだろうか」

 一瞬、結架の言葉がつまる。

「いいえ。でも、好ましくないわ。わたしは、たくさんのひとを不幸にしたから」

 一人の意に沿わぬと、まるで天が結架を罰するかのようなことが起こる。それが結架自身に降りかかるのであればよいが、周囲の人間に及んでしまうのは耐えられない。

「僕も不幸にしてしまうとでも?」

 それこそ、全身から、すべての血を一瞬で抜かれるような恐ろしいことだった。

「不幸にしたくないの。絶対に」

 初めて強い語調で告げ、彼女は まっすぐに彼を見つめた。

 集一が表情を和ませる。

「よく わからないけど、このレッスンを秘密にしたいことは、理解できるよ。最初の日に、教授にも言われたんだ。他言無用だって。僕としては、天使とレッスンしていることを自慢したいくらいだけどね」

 彼女の頬が、これ以上ないほど紅潮した。

「天使なんて……わたしは ちがうわ……」

「ほかに、どう呼べばいいか知らないんだ。教授がきみをユイカと呼ぶのも、本名かどうか怪しい。それに、きみは天使に見えるよ」

「……あなたこそ」

 俯き加減に上目づかいとなり、小さな声で言うと、集一は声をたてて笑った。快活に、屈託なく。

「僕が? まさか。そう言うのは、きっと、きみだけさ。そんなことを、もし僕を知っているひとが聞いたら、さぞ、驚くだろうね。僕は学校も脱走するし、父親に背いて留学するし、品行方正とは真逆の人間だから」

 ──天使が父親に逆らった?

 結架は大きく目を見開く。

「お父さまに逆らっていらしたの?」

 それで、どんな罰も不幸もないのか。

 なんて羨ましい境遇だろう。

「シュー。あなたは幸せね。背くという選択肢を もてるのは、それほど普通ではないわ」

 すると、集一の笑みが薄れた。

「背いて、それが認められればね」

「背くことも認められないより恵まれているわ。違って?」

「ユイカ。きみは背けないの? それとも背かないの?」

 痛いところを突かれた。

 そして、彼の呼ぶ自分の名前に、結架は震えあがった。

「背けば、周囲が不幸に満ちるの。シュー、お願い。もう、わたしをユイカと呼ばないで」

 もうすこしで悲鳴になりそうな声。

 今度は集一が、目を見開いた。

「ユイカなの? 本当の名前がユイカなんだね」

 彼女は、ぎゅっと目をつぶり、両手を組むと、全身で震えながら大きく息を放つ。

 何故なのかは分からない。

 スカルパ教授は結架の名前を正確に覚えた。結架としては、誤った名で覚えてくれたほうが、どれほど ありがたかっただろう。

 しかし、もう打ち明けるべきだ。

 結架は震える唇から声を絞りだす。

「……そうよ。わたしは、折橋おりはし結架というの。教授にチェンバロを師事しているわ。でも、音楽院の学生ではないの。教授が とりはからってくださって、自由に音楽院に出入りさせていただけているのだけれど、正式な生徒ではなくて、彼の個人的な弟子なのよ」

 蒼白な顔をしたまま、彼女は説明した。そして懇願した。

「シュー。わたしのこと、誰にも何も話さないでくださる? それが、危険を避ける方法だと信じてくださるかしら? わたし、本当に、あなたが心配なのよ。だから本当の名前も、あなたに知ってもらったの。いつでも、わたしを避けることができるように」

 まっすぐすぎる結架の視線に、集一は たじろぐ。それでも彼は、反射的に彼女に逆らった。

「理由も聞かずに、言うとおりにできないよ」

「わたしは自分で友人を選べないの。選べば、その友人を傷つけてしまう。もう、何人も、ひどい目に遭わせたわ。もう二度と、あんな思いはしたくない。お願い。わたしから、安心して、あなたとレツィ──レッスンする喜びを保証する唯一の方法を取りあげないで」

 集一の表情は真剣で、結架の言葉を誠実に受け止めていそうだった。しかし、彼は こう言った。

「きみが自由になるために、僕は協力できる。そんなふうに怖れなくても よくなる」

 あまりの衝撃に、彼女は よろめいた。

 そんなことになったら。

 なにが起こるか、想像もしたくない。

「だめ! シュー、わたしから、わたし自身を剥ぎとるようなものよ。それは、絶対に、だめ! あなたの」

 そこで、扉が開いた。

 困惑の表情をしたスカルパ教授だった。

「シュー、困ったことになった」

 彼は一言、英語で告げると、今度は結架にイタリア語で言った。

「彼が、レツィオーネに気づいてしまった。きみと学生の一人を一緒に学ばせていると知って、もうじき ここへ やってくる」

 結架は脊髄反射的に動いた。なにを思う余裕もなく、無言でチェンバロから離れ、集一の手をとり、部屋を飛び出す。

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