第26話 番外編 —— Science Fictionを書こう3 ——

どうすればSFを書けるのだろう。そのための思索の試みの3です。

このエッセイは、次のスライドを元にしています。


Science Fiction を描こう2

https://docs.google.com/presentation/d/1UPiz9vS-EUR_Dy9FfCuADCCez-bFV2V6j6FHZLPrPO8/edit?usp=sharing


Science Fiction を書こう4

https://docs.google.com/presentation/d/13BU8Wa46auIYr2TkoPy9kJgNagMASlKY_U6UKT9phws/edit?usp=sharing


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 本題に入る前に。

 スライドでも、「Science Fictionを書こう1」でも、「Science Fictionを書こう2」でも、登場人物についてとくに触れていませんでした。この点を疑問思う人もいるかもしれません。それは、登場人物もガジェットの一種ととらえているためです。登場人物をガジェットと同列に扱うことには抵抗がある人もいるかもしれません。これは、私自身が論の基盤をプロップのファンクションに置いているためです。プロップのファンクションにおいては、登場人物の「機能」に注目した分析がなされていました。ですので、登場人物もガジェットの一種ととらえているというよりも、ガジェットも登場人物と同列に扱かっていると言うほうが正確かもしれません。


 では、本題に入りましょう。「番外編 —— Science Fictionを書こう2 ——」で、「還元」の例をと書きましたが、むしろ「還元」の逆をまず見てみるのがわかりやすいかもしれません。


 まず、「学園恋愛もの」を考えてみます。校則や教師による障害であるとか、属するグループに関係して近付き難いとか、すれ違いとか、思い切れないとか、あるいは学校が違うとか、いろいろな要因によって成立するかと思います。

 では、障害とかなんとかそういうものをなにか別のものに置き換えてみましょう。ここでは単純に「距離」にしてみましょう。この場合であれば、地上と衛星軌道とか、地球と月とか、地球と火星とか、太陽系とほかの恒星系とかに置き換えられます。

 「距離」以外にも、同じような効果として扱えるものはあります。社会階層、思想の違い、それに国の間で戦争状態にあるなども、「距離」と同じような効果となります。

 というところで、想い合う若い男女が、片方が地球にいて、片方が火星にいたとしましょう。さらに火星やその先の小惑星帯からの資源を地球に送っている状況だとしましょう。そして、その状況に不満を持った火星側が、資源を送るのを拒否し、そこから外交の問題が発生したり、あるいは戦争状態になったとします。火星側が取れる最後の手段としては、地球への帰還を諦め、帰還用の宇宙船を兵器として使うことなどがあるでしょう。


 2つめとして「戦争」や「戦記」を考えてみましょう。まぁ、これは上の「学園恋愛もの」に書いたのと同じようにできます。火星に居住する人を火星人と呼んでもかまいませんし、あるいは火星からは離れて、地球に起源を持たない宇宙人であってもかまいません。


 3つめとして「文通する男女」の話を考えてみましょう。その交流の手段は、手紙でなくてもいいかもしれません。メールやSNS、あるいはより高度な通信機器に変えてみましょう。あるいは、仮想現実を通して交流しているというのもあるでしょう。


 4つめとして「富士山が噴火した」話を考えてみます。近隣住民はずっと昔から覚悟していることですが、逃げ場がありません。逃げ場がないという範囲を広くして地球としてみましょう。ここに、好戦的な意図を持ち、恒星間を越えて宇宙人がやって来たとします。地球人には逃げ場がありません。


 とりあえず4つ挙げましたが、書き換えの前と後でなにがどれほど変わっているでしょうか。なにも変わっていません。この書き換えの方向を逆にすると「還元」になります。距離を縮め、規模を小さくし、それでも変わらない「機能」に「還元」します。


 では、なにもかもが「還元」できるのでしょうか。「機能」すら無視すれば、なにもかもを「還元」できます。ただし、それではもとの話が持っていたものを無視することにも繋がります。つまり、「還元」できない、あるいは「還元」してはいけない場合があるわけです。それは、登場するなにかが、「機能」を持っている場合です。「機能すら無視すれば」と書きましたが、それは「還元においては機能は無視しない」という意味でもあります。ですので、すくなくとも私や、この「SFってなんなんだろう?」の立場としては、なにかが「還元」を拒む「機能」を持っているなら、それを無理やり「還元」することはしません。ただし、繰り返しになりますが、「還元」を拒む「機能」が必要です。


 さて、「還元」の際に考える必要があることはどんなことでしょうか。いくつか例を挙げてみましょう。

 まず「巨大ロボット」あるいは「巨大戦闘ロボット」。「還元」するわけですから、その見た目 (小説であっても) そのままとしてとらえることはしません。「巨大ロボット」あるいは「巨大戦闘ロボット」として読まれるためには、「巨大ロボット」あるいは「巨大戦闘ロボット」が「巨大ロボット」あるいは「巨大戦闘ロボット」である役割や機能が必要です。「巨大ロボット」あるいは「巨大戦闘ロボット」以外のなにかであってはならず、「巨大ロボット」あるいは「巨大戦闘ロボット」でなければならない役割や機能です。

 ここでは、「作者がそれを書きたいから」というのは理由になりません。「巨大ロボット」あるいは「巨大戦闘ロボット」でなければならない役割や機能こそが問題です。

 その役割や機能が存在しないのであれば、「巨大ロボット」あるいは「巨大戦闘ロボット」や、それをとりまく環境は、このように「還元」できるかもしれません。

   宇宙→海

   宇宙船や宇宙基地→空母

   巨大ロボット→戦闘機

 あるいは、こうも「還元」できるかもしれません。

   宇宙→海

   宇宙船や宇宙基地→商船や軍艦

   巨大ロボット→カッター(船の)やダブル・カヌー、アウトリガー・カヌー

 「巨大ロボット」あるいは「巨大戦闘ロボット」をダブル・カヌーなどに「還元」することには違和感があるかもしれません。ダブル・カヌーに「還元」したとしたら、「巨大ロボット」あるいは「巨大戦闘ロボット」の武装は、ただのライフルに「還元」されたり、弓矢に「還元」されるかもしれません。

 しかし、その違和感は「巨大ロボット」あるいは「巨大戦闘ロボット」のみを「還元」の対象としているためです。「還元」は、上のようにその対象だけで済むものではありません。対象となるものをとりまく環境をすべて巻き込んで行なわれ、あるいは行ないます。

 そして、「巨大ロボット」あるいは「巨大戦闘ロボット」が「還元」されるのであれば、「巨大ロボット」あるいは「巨大戦闘ロボット」でなければならない役割や機能は存在しないことを意味します。

 「宇宙」は上でも触れたので飛ばして、人間サイズの「ロボット」を考えてみましょう。そのロボットは「ロボット」である理由があるでしょうか。「ロボット」である役割や機能はあるでしょうか。例えば、特殊装備をした人間であるとか、あるいは異文化圏から来た人であってはいけないでしょうか。それらであってもいいのであれば、「ロボット」である理由、役割、機能はないことになります。すなおに、特殊装備をした人間や異文化圏から来た人として済んでしまう話であり、「ロボット」として登場させる理由はありません。

 異文化圏と書きましたが、これについては「異星人」であっても同じことが言えます。「異星人」としての役割や機能はあるでしょうか。ないのであれば、「異星人」として登場させる理由はありません。

 同じことが、「距離」、「場所」、「出来事」、「その他の各種ガジェット」についても言えます。それがそれでなければならない理由、役割、機能がないのであれば、それらはそれら以外の、おそらくはおおむねより原始的であったり、より普通の物事に「還元」できることになります。


 ここにおいて、疑問を呈する人もいるでしょう。つまり、野田昌宏氏による「SFはやっぱり絵だねぇ」という言葉です。これは、野田氏のSFへの入り方によるものかもしれません。それに対して、「SFってなんなんだろう?」は物語論、ナラトロジー、記号学/記号論、神話学からの視点と言えるでしょう。

 ここのところのバランスは必要でしょう。しかし、「SFってなんなんだろう? ―― 異質との邂逅 ――」で書いたように異質を求めるのであれば、「絵」に描ける具象であること、あるいは具象としての「絵」に納まることからは離れる意思が必要でしょう。


 このように「還元」されてしまうにもかかわらず、多くのSF作品にはそれらが現われます。それは、書き手が書きたいから、読み手が読みたいからという理由も存在するでしょう。それは、一つには、「それらを導入すればScience Fictionになるという誤解」が存在するとも言えるでしょう。あるいは「それらに対しての、想像力の欠如」であったり、「書きたい/読みたいのは理解の及ぶことがらであるが、その趣向を変えたい 」ということもあるかもしれません。それらであるなら、そもそも「書き手/読み手の能力と志向の問題やそれらの欠如」と言えるでしょう。それは別の言い方をするなら——厳しい言い方になりますが——、「書き手/読み手がScience Fictionをはじめから舐めている」とも言えるでしょう。

 この点については、「娯楽なのだから、気楽な方がいい」という意見もあるでしょう。なぜ「娯楽なのだから」となるのでしょうか。この点がそうであるならという条件がつきますが、考えを変える必要があるでしょう。「娯楽とは思考であり学ぶことである」と考えましょう。そして、もし「内容が難しければわかりにくいし、面白くない」と思うのであれば、「理解できるように勉強すればいい」だけの話であるにすぎません。


 さて、本題の最後になりますが、「推理小説における論理」と、「Science Fictionにおける論理」について考えてみましょう。推理小説(の一部)は論理的と評されることもあります。それは、Science Fictionにおける論理と同じものでしょうか。推理小説であれば、 (基本的には) 犯人が存在することはわかっているでしょう。ならば、あとは、わかっていることに答えを出すだけにすぎません。それは論理ではなく、手続きであるに過ぎません。この区別を明確にしましょう。これはネタバレなどとも関連した話です。そして、もちろん話の構成とも関係します。

 広く言うなら、推理小説に限らず、「サルから受け継いだ情緒などを異常に重視することから決別」しましょう。そして「(日本文芸における) 自然主義とその流れを汲むものは不要」だと言い切りましょう。


 唐突ですが、上でネタバレと書きました。いわゆる「ネタバレ」を気にする人もいるだろう。ほかの文芸ならいざしらず、SFにおいてはネタバレを気にするのは、考え方の方向がすこし違うだろうと思う。「番外編 —— Science Fictionを書こう1 ——」に書いたが、SFにおいては結末は結論ではない。ネタバレ大いに結構。作品に対する理解を早いうちから準備できるというものだ。読み手であれ書き手であれ、それは歓迎するものであって、避けるものではない。また、どこかの媒体においてネタバレがあっても、それはその人の理解であって、その人以外の理解ではない。

 SFにおいては、読み手には「何を読み取るか」の自由がある。だが、それは別のことも意味する。ある人にとって、ある作品を読む時であるのかどうかという問題だ。それは単純に、読んでも理解できないという場合もあるだろう。しかし、読み手に準備ができているならば、書き手が書いたこと以上のものを読み取ることもできる。その点において、SFと科学と哲学は密接に関係している。

 情報工学およびその他を見てみれば、80年代や90年代に空想され、あるいは極めて初期の研究や提案が、現在実用化され、あるいは実用化の手前にある。80年代や90年代のそれらと、現在のそれらは無関係ではない。提示されたもの以上のなにかを読み取った人がいたからだ。要は「おもしれ〜」と興味を持ち続けた人がいたからだ。この例の場合であれば、そう思った人は「未来を見せられてしまった」と表現してもいいだろう。その人にとっては、その未来は「そうなることがわかっている未来」だ。その人はその未来に向けて進むしか選択肢はない。なぜなら、「そうなることがわかっている未来」を知っているからだ。そのように、現在にそして未来へと繋がる。

 「番外編 —— Science Fictionを書こう1 ——」で「以上、問題提起を終了する」と書いたように、また「番外編 —— Science Fictionを書こう2 ——」で「『疑問』や『思索』の主体は読者や視聴者です」と書いたように、SFにおいてはネタから先はもともと読者のものであり、作品本体はネタを読者に提供する準備だ。

 「実は……」というようなタイプのネタであれば、それに対してのネタバレを読み手も書き手も避けたがるというのはわからないでもない (私はどういうジャンルであれ、だいたい気にしないが)。だが、そういうタイプのネタというのは、結末であるというよりも結論であると言えるか、結論に近いものと言えるだろう。そして、SFにおいて結末は結論ではない。つまり、SFを書くならば、そういうネタ、あるいはそのネタがそういうネタになってしまう構成を見直す必要があるだろう。あるいは、「実は……」というのは、「こんなこともあろうかと」と同じく、単純に古い。


 ところで、先日某所にて「昔、ファンタジーの後にディストピアものが流行った。今度もそうなるか?」というような話題があった。「今回は、そうはならない」とは言えないのだが、その話題については当時の世界情勢を考慮に入れる必要があるだろう。

 どういうことかに触れる前に、ちょっと確認しておこう。まず、当時流行ったのはディストピアものだけではなかった。ポスト・アポカリプスものも張り合っていたように思う。

 というあたりで、想像がつくだろう。要は米ソの対立があったということだ。その対立そのもののよしあしはともかくとして、その対立によって「世界はわかりやすかった」とは言える。もちろん、「わかりやすかった」理由には、今ほどに情報化がなされておらず、そのために個人が知ることができる世界が「狭かった」というものもある。

 また、「1984年」はオーウェルの作品であり、オーウェルはイギリス人だったわけだが、そこに描かれる「ビッグ・ブラザー」のポスターは、いわゆる「アンクル・サム」を意識しているようにも思える。「アンクル・サム」のポスターとして有名、あるいは典型なのは、「アンクル・サム」が描かれ、“I WANT YOU FOR U.S.ARMY”と書かれたものだろう (これは第一次世界大戦時、1917年のものがネット上の某所にて確認できる)。絵柄や文言に違いがあっても、オーウェルが「アンクル・サム」を知らなかったと考える理由もないだろう。

 「アンクル・サム」のほかにも当時あたりの英国首相の言動も、なにも影響を与えていなかったわけではないだろう。

 とは言え、「米対ソ」のあたりを細かく言えば、それより遡って、旧ロシアあたりの赤化の頃から「われら」などが書かれている。なので、米ソの対立はわかりやすさの要因として必要ではあったのだろうが、それに先行して旧ロシアあたりが当時の世界から見れば自分から進んで危険視されるようになったとも言える。

 では、現代ではどうだろうか。「イスラム対その他の世界」など、「米対ソ」と同じようにわかりやすい世界だろうか。そうではないだろう。すくなくとも情報化により、「イスラム」とまとめて言ってしまうのには無理があることを私たちは知っている。

 そのように考えると、現在のファンタジーの次にディストピアものが来るとしても、それは当時のようにわかりやすいディストピアではないだろう。そのようなディストピアものは、当時のディストピアものより歴史を遡り、それ以前のディストピアものに先祖返りするかもしれない。つまりは自国あるいは自分が知っている世界に対する風刺である。

 あるいは、多極化した世界を反映したディストピアものになるかもしれない。その場合、失なわれてしまった「わかりやすい世界」ではなく、現実の「わかりにくい世界」を反映したものとなるだろう。

 もっとも、そのどちらであれ、それはライトな作品以外での話となる。ライトな作品であれば、当時のディストピアものの雰囲気を継承したものが来るかもしれない。

 なんにせよ、一つの可能性としては環境保護過激派であるとか環境保護原理主義というようなものが、対立の一派として出て来るかもしれない。まぁ、これはもうあるわけだが。あるいは、科学をより強く批判する一派が出て来るかもしれない。もちろん、これももうあるわけだが。

 ただし、「ファンタジーの次にディストピアが来る」かどうかについては人の行動による影響が大きい。多くの人がそう思って書き、あるいは読めば、おそらくは実際にそうなるだろう。なので、私としては、どうなるかはわからないとしか言えない。


 最後に、こう言いましょう。「宿」と。「SFとは思想である」ならば、その思想の根幹にこそ宿ります。神は細部になど宿りません。細部に宿るのは人の為すこと、つまり執筆の技術、技法でしかありません。


 以上で、3回に分けた「Science Fictionを書こう」を終わります。

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