第11話言葉とSF

 これは、SF読みだからというだけではありませんが。

 今どきだと、全部ひとまとめで"CONLANG"と呼ぶのかな。作品の中で、架空の言語が使われることがあります。SFだけでなくファンタジーにもあります。現実にもいろいろ国際補助語としての案とか、個人の趣味とかでたくさんあります。このあたりもトールキンは化物というかなんというか。

 虚構の中では単なる雰囲気作りという面もありますが、まじめにやろうとすると労力の割にどれほど報われるのかは疑問が残ります。「1984年」の設定が、バランスとしてはいいのかもしれません。でも、それはやられちゃっているわけですが。「1985年」の方にも似たものがあるので、作品名だけ挙げておきます。

 CONLANGに対して、日本語とか英語とかを自然言語と呼ぶわけですが。昔、計算機に自然言語の間での翻訳をさせるさいに、クリンゴン語を中間言語として使うなんていう話もあったりしました。えと、クリンゴン語はスタートレックに出てくるクリンゴン人の言葉です。クリンゴン語がCONLANGだから優れているとかそういう話ではありません。ともかく共通に使える何かが欲しかったというあたりです。

 このような感じで、言葉そのものについてどうにかしようという試みについては、「どうなんだろうな?」と思われる方もいるかもいれません。言葉そのものが、何か崇高なものと思われている場合があるようにも思います。まぁ例えばの話としてですが、辞書に書いてあるのは意味なのでしょうか? 意味が書いてある辞書があったら、日本語の辞書だとしても、そして高価だったとしても、間違いなく世界中で売れます。おまけに文法なんてのもあります。小中高で日本語や英語の文法を叩きこまれた方も多いと思います。あれ、「学校文法」とか「規範文法」というやつです。それらを否定はしませんし、役には立ちます。ですが、言葉は「使われているものこそが言葉」と、だいたい考えます。「正しい日本語」とか、「美しい日本語」というような表現はどうなんだろと思います。「1984年」にせよ、「1985年」にせよ、「正しい英語」というものがどうたらこうたら。

 あ、そうだ。漢文で返り点とかあったじゃないですか。あれって英語を読む時にも使えると思いませんか? 実際にあったというか、試みた人はいたみたいです。まぁ英語は、ドイツ語がいろいろと中国語化してるようなものとかどうたらこうたら。

 「人工の言葉なんて」というのでしたら、宮沢賢治だってエスペラントにどうたらこうたら。まぁエスペラントは時期が悪かったというか、そういう時期だから出てきたというか。

 そんなことをもやっと考えていると、まず普通に使う際の表記の方法をもっと工夫できるんじゃないかとも思います。文章を読んでいると、たとえば「AとB」というような場合があったとして、さらにたとえばBの方がえらく長かったりすると、「Aと並べられているBの範囲ってどこまでなんだろ?」というようことで悩むことがあります。

 ちょと違うかもしれませんが、「私は妻の兄弟と従兄弟と食事をした」で考えてみます。

 「妻の兄弟」は、いいでしょう。「従兄弟」って妻の従兄弟なんでしょうか? 私の従兄弟なんでしょうか? 「妻の兄弟」、「従兄弟」、「食事」は「と」でつながっていますが、それってみんな同じ格なのでしょうか?

 もうね、こう思うんですよ、「{」とか「[」とかを使って、はっきりわかるように書いたらいいんじゃないかって。例えば:

「私は{妻の兄弟}と{従兄弟}と食事をした」とか、

「私は{妻の[兄弟と従兄弟]}と食事をした」とか。


 面倒くさいでしょうか? いやぁ、それだったらLispというプログラミング言語なんて、人間が構文解析してるわけです。もう括弧が多くて多くて。童謡の「静かな湖畔」なんて、別名「Lispの歌」なんて呼ばれているとかいないとか。「カッコ」を連呼しますからね。

 あるいは、こちらのプログラミング言語もありますが、字下げを活用するとか:

「私は妻の兄弟と

   従兄弟

 と

 食事をした」とか、

「私は妻の兄弟と

     従兄弟

 と

 食事をした」とか。


 あるいは「これこれだが。どうたらだ」と、「これこれだ。が、どうたらだ」あたりは使い分けるのに微妙な場合があるようにも感じもします。

 「そ、それは日本語だから…… 論理的な英語なら」という話も出てくるかもしれませんが、こういう話もあります。

 例文: "Everyone loves someone."

 これ、誰が誰を愛しているのでしょうか?

 そんなことを考えていると、実際の人間同士の会話は、声だけで行なわれているのかという疑問も出てきます。そうでないとしたら、もっと他のチャンネル(モダリティとも言います)を活用したっていいんじゃないかと思います。

 えーと、映画で、両手の人差し指と中指を立てて、何かを言いながら、その両手の人差し指tと中指をワニワニさせるジェスチャ(なのかな?)を見たことがある方もおられるかと思います。例えば、「レーザーを使うんだよ。レーザーを」と言いながら、「レーザー」と言う時にワニワニさせるわけです。一般的なのかは知りませんが、これ、人差し指と中指で「”」を表していると聞いたことがあります。なのでセリフで言っているわけですが、文字にするとこんな感じなわけです。「”レーザー”を使うんだよ。”レーザー”を」。

 なら、もっと声と手話のハイブリッドのような言語があってもいいんじゃないかと思います。もしそういうものがあるのなら、それは文字表記の際にも何がしかの影響をあたえるでしょう。「私は妻の兄弟と従兄弟と食事をした」の場合も、その例にできるかもしれません。

 もっとも、声だけでも実は案外多くの情報を提供していて、日本語では文字にする時に「、」をどこに打つかに、抑揚の情報が影響している例もあるようです。ふんふん。「、」に影響しているんですね。

 「本当ですか」とだけ書かれていたとしましょう。これは疑問なのでしょうか? それとも納得かなにかなのでしょうか? 「?」と「。」も文字として現れていますね。

 だいたい、「、」も「。」も明治になってどうたらこうたら。

 なら、なぜ、「{」や「[」を使ったり、インデントを使ったりしてはいけないのでしょうか?

 「{」や「[」とか、インデントとかということを書いていると、聞こえてきそうな気がするのは、「文学的情緒」云々というような話ではないかと思います。でも、この程度で失われるものって「文学的情緒」なんでしょうか? もしそうだとしたら「具象詩」の立場っていったいどうなるんだろうと、少し思わないわけでもありません。

 読みやすさと書きやすさのバランスが難しいとは思います。ですが、文法を読者にだけ期待するというようなものはどうかと思いますし(言い過ぎではありますが)、句読点の類でどうにかするとか、もともとが無理があるのではないかとも思います(「{」も句読点で云々はともかく)。小説でももっといろいろな可能性が試されてもいいように思います。もし、曖昧さを残したいのであれば、記号とかを使わずに、曖昧さが残るように書けばいいだけです。あ、それだと曖昧さがあるかもしれないという情報は残っちゃいますね。

 そうすると、そこから、新しい文体のようなものが生まれるかもしれません。

 「なろう」で、どう書いたら、意図しているものが誤解されずに伝わるかというところで悩まれている方も多いと思います。そこは、「現在の表記方法に、そもそも課題が残っている」と考えてもいいように思います。独自の表記を使っても、伝わらないとしょうがないので、そのうちにできるであろう合意に期待します。

 文字でどう表すか、文としてどう表すか。それも大事です。でも、もっと積極的に言葉に向かっていってもいいように思います。言葉そのものも開拓地なのです。SF読みは、そう思っています(まぁ私は)。 (「感動とSF」での「読めない」というのが、すこしこの辺りに関わるのでした。)

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