あやかし殺しの三千院家

刀綱一實

第1話 ようこそ軍隊へ

あおい。こちらの側面・背面をつこうと、敵が動いている。こういう時はどうしたらいい?」


 背の高い男から呼びかけられた少年が、くいとその整った顔を上げた。手持ちのタブレットをいじると、航空隊から送られた画像が鮮明に浮かび上がる。少年はにこりともせず、ただ画像を見てうなずいた。


 ここは訓練場ではなく、本当の戦場だった。しっかりとした隊列を組んだ、少年の敵がはっきりと見える。瞼などないかのように大きく突き出た橙色の目が鋭く前方を見つめている。肌は緑、ざんばらな髪は目と同じ鮮やかな橙をしていた。その間から、漆黒の角が二本、天に向かって伸びている。今度の敵は鬼か、と少年は小さくつぶやいた。


 鬼たちの手には、彼らの腕の半分ほどもある大きな石斧が握られている。何度も実戦で使用されたことを物語るように、斧にはびっしりとどす黒い血がついていた。普通の人間が正面から彼らと向き合ったら、勝ち目はない。


「確かに列を組んで移動している。予備の歩兵を投入して戦線を伸ばす」

「ちなみにこれをなんと言うかな」

「延翼運動。親父、少し黙っててくれ」


 父が笑いながら息子を試す。少年は即答し、また画像に目をやった。傍らの父は、正解だよと言っておざなりに手をたたいてから少年──葵に意見する。


「しかし、予備隊にも限りがあるな。あくまでこれは戦争でなく鎮圧行動、兵が少ないからそこまで手が回っていない。数では向こうの方が上だ、いずれ回りこまれるぞ」

「確かに。正面で向かいあっている部隊も、鬼たちの勢いに押されて士気が落ちている。市街地が後ろにあると言うのに情けない。これも兵をケチった奴らのせいだ。いずれあの汚い尻を全て椅子から叩き落としてやる」


 無表情のまま、少年は非常に血の気の多い発言をした。傍らの父はぎょっとして、周りに聞こえないかと目を動かしたが、「安心しろ。盗聴器に拾われるような場所では言ってない」と少年に突っ込まれた。


「……さあ、戦線が伸びたぞ。次は何をする?」


 やりにくさをごまかすように、父は咳払いをした。少年は無線を手に取り、機械のような感情のない声で部隊に指示を出す。


「デバイス機動部隊、第三班・四班聞こえるか」

『三班、聞こえます』

『四班、同じく』


 無線から、老いてはいないが、明らかに少年よりも年かさの男たちの声が聞こえてきた。彼らの声に反発の色はない。本当に素直に、少年を指揮官として認めている様子だ。


「わが軍の右翼は押されている。中央は崩れかけている。撤退は不可能だ」


 少年はおもむろに話し始めた。横で聞いていた父が「お、二番煎じ」と言ったが聞こえないふりをする。有名な演説の引用だということはわかっている。小学校最後の指揮なのだから、少しは格好つけてくれさせたっていいではないかと葵は内心で思った。


。全員配置につけ」

『了解』

『了解』


 無線から、凛とした声が返ってくる。少年はさらに、中央に詰めている部隊に向かって指示を飛ばした。


「デバイス使いが横を抜けるぞ。迫撃砲・歩兵砲ともに発砲を控えろ」

『了解いたしました』


 無線が無事にいきわたった。さっきまでひっきりなしに地面を揺らしていた砲の響きが小さくなる。その次の瞬間、前方にぼうと赤い炎が上がった。きちんと並んでいた鬼たちが、火勢に負けて隊列を乱す。


 そこへとどめとばかりに、漆黒の鷹たちが上空から襲い掛かった。鬼の皮すら食いちぎる頑丈なくちばしと爪の猛攻に耐えきれず、鬼たちはばらばらと斧を捨てて後ろへ走り出した。


 味方の優勢を見てとった少年は、顔色ひとつ変えずに別部隊に指示を出す。


「崩れたな。戦車部隊、回りこめ。止まらず動き続けて、敵にありったけの砲弾をくれてやれ」


 その声をきいて、目立たぬよう丘の影沿いに進行していた戦車部隊が、一斉に鬼たちの目の前に現れる。逃げ惑う鬼たちをあざ笑うように、一斉に戦車の主砲が火を吹き、平原は黒煙に包まれた。



 わずかに残っていた鬼たちがほうほうの体で逃げ出したのを確認してから、少年は涼しい顔で顔についた泥をぬぐった。隣にいる男が汗びっしょりになっているのとは対照的に、涼しい顔で戦場を見下ろしている。


「いや、一緒に戦うのは久しぶりだが、強くなったなあ」

「兵站部隊の責任者から見てどうだ。親父と息子だからと言って遠慮はせんでいい」

「いや、もう一人前だ」


 男は手を伸ばして、少年の肩をたたく。嬉しそうな顔もせず、少年は黙ったまま父の祝福を受けていた。


「一人前か。では、次の任務をくれ」


 ねぎらいが一通り済んだところで、少年が手を伸ばす。父はその華奢な手に、紺色のボストンバッグを押しつけた。


「なんだこれは」

「制服と教科書」

「は?」

「時々お前と話していると忘れそうになるが、この四月からお前は中学生だ。入学式くらい出なさい」


 父は嬉しそうに言ったが、少年は逆に「てっきり親父は忘れていると思ったのに」と恨みがましくつぶやいた。やけにすんなりと戦場への同行を許してくれたのはこんな裏があったか、と今更気付いても遅かった。



☆☆☆



 大きな入り江に、ゆったりと船が出入りする。その海を見下ろすように、新緑生い茂る山々が背後にそびえたつ。港として理想的な湾を持ったこの地は、昔から海運の町として栄えてきた。戦争がはじまるまでその営みは絶えず、外から多くの人や物資がこの地を訪れ、また余所へと旅立っていった。


 日本を揺るがした内戦終結、それから五十年を迎える今、市内東半分の地域には完全に開戦前の活気が戻り、隣県との交流も盛んである。戦時中は自粛により絶えていた学校行事や行楽も毎年開催され、皆高揚した気分で春の訪れを満喫している。


 季節は四月。市内の学校では公立、私立問わず入学式がさかんに行われている。小高い丘の上にある私立球磨宮高等学校しりつくまみやこうとうがっこう、通称クマ高でも今日は新入生を迎え入れる寿ことほぐべき日だった。


 クマ高は中高一貫校のため、敷地は大学なみに広い。芝生の中にレンガ造りの小道が伸び、それぞれが独立した校舎に続いている。学費はバカ高い分、校内施設は非常に充実していた。


 図書館や理系実験棟、運動場や温水プールはもちろん、芸術系の設備がそろう美術・演習棟、完全防音の音楽棟もある。交換留学生とともに日本文化を学ぶため、まるまる日本家屋に改造された特別校舎など、金が余っているゆえに作られたあまり登場頻度の高くない校舎もあった。


 校舎の乱立により、普段は複数の校舎に散らばることが多い生徒たちだったが、今日は新入生を迎え入れるべく全員体育館に集合し、きちんと学年ごとに椅子に腰かけている。


 式はちょうど新入生代表のスピーチにさしかかっていた。


「新緑の葉が茂るこの季節、暖かい春の日差しに見守られ、僕たちはこの私立球磨宮高等学校に入学しました」


 お決まりの季節のあいさつから始まる、ありふれたスピーチ。両親への感謝、これからの学校活動への期待などの鉄板ネタを数多く含み、学校側としては文句のつけようのない内容であった。


 ……あくまで、内容は。


「あ、また来賓らいひんが寝ましたね」

「うん、こっちもPTA会長が脱落したよ。副会長が困ってる」

「父兄も生徒も船漕いでますよ。いいかげん止めた方が良くないですか」

「しかし、内容は間違ってるわけではないからなあ。新入生代表、首席入学者のスピーチを勝手に止めちゃまずいだろう」


 何かしていないと自分たちも睡眠の海にのみこまれそうになるので、平の教師たちはひそひそと話をして気を紛らわせている。とがめるはずの校長はもうとっくに寝ているので彼らの中でいないものとみなされた。


 とにかく、スピーチしている生徒の声がまずい。声が低く人を心地よく眠りに誘う機能を持っている上、まったく感情の起伏なく淡々と話すため退屈さが複利付きで大きくなっていく。彼は真面目にやるつもりだと言っていたが、これでは嫌がらせに近い。


「……本来なら教師が起こして回るところなんですけど、これではね。寝てる人間の数が多すぎますよ」


 壇上の本人は白い肌に切れ長の目をした、中性的な美少年である。だが、スピーチ同様、彼の顔も仏頂面のままで固定されているので、呪われた像が壇上で訓示を垂れているような不気味さがある。


 彼の漆黒の髪は乱れなく綺麗に整えられていた。服にも一分の隙もなく、上まできっちりボタンを閉めたシャツをまとい、紺のブレザーにも埃ひとつ見られない。なんだか、全体的に人間味の感じられない男であった。思考機械のようなさまを見て、入学試験、全教科満点という伝聞は嘘ではないと教師たちは実感する。


 頼む、早く終わってくれ。君が優秀なのはもうわかったから。


 教師たちが三十回ほど心の中でこう唱えた時、ようやく声が途切れた。壇上の生徒は一礼して音もなく、横の階段を下りて行く。歩く姿も隙がなく、背中に針金が入っていそうなほど背筋が伸びていた。


 かろうじて眠らず生き残っていた者たちから、彼に対しぱちぱちとまばらな拍手が贈られる。その音で眠っていた者たちが起き出し、慌てて手を叩いた。


「……あとで一言だけ、彼に助言しときますか。とりあえず、この状態は望ましいとは言えませんから」


 一番年かさの教師が、心配そうに告げる。一同は深く頷いた。


「そうですね」

「名前、何ていいましたっけ」


 急に振られた質問に、年かさの教師はええと、と手元の用紙に目を落とす。


あおいですよ。三千院葵さんぜんいん あおい



☆☆☆



「納得がいきません」


 式を終え、最初の実力テストが終わってから、葵は職員室に呼ばれた。他の生徒はとっくに帰路についているにも関わらず、自分だけ呼び出されたのが気に喰わない。わざと、経でも詠むように一本調子でそう言った。ただでさえ表情のない自分の顔はまるで能面のようにのっぺりしていることだろう。


「うん、まあ、内容は良かったよ? でも、声の調子とかね、表情とか。もうちょっと工夫してくれると嬉しいかなって」


 教師が泣きそうな顔で懇願してくるので、哀れになって葵は素直に頷いた。どんな風に出てくるか、と相手の様子をうかがっていた教師がほっと胸をなで下ろしているのがわかる。


「もう帰っていいですか」

「ああ、構わないよ」


 もともと悪いことをしたわけではない。一通り通達が済むと、あっさり葵は解放された。やれやれ面倒だった、と思いながら首を振って出口に向かう。


 その途中で、職員室の一角を通る。そこで数人の教師が難しい顔をして額をくっつけあっているのを見て、葵は興味をそそられてじっと耳をすませた。教師たちはよほど盛り上がっているらしく、葵の気配には気付いていないようだ。


「どうしましょう」

「スポーツ推薦なんてやるから悪いんですよ。だからあんなに私は反対したのに」

「そんなこと言ったって、入っちゃったものに今から辞めろとは言えませんよ」

「しかし、太陽が西から上るなんて書くレベルで、うちの授業についていけるんでしょうか」

「こっちには、カンガルーは卵を産むって書いてますよ」

「補習だ」

「補習ですね」


 どうやら、よほどドン底の成績の生徒がいて、その対応に追われているらしい。延々と教師の嘆きと、補習を求める声は続く。新学期早々大変なことだ、と葵は同情した。しかしそれ以上は、教師である彼らが考えていくことである。聞き耳を立てているのを悟られぬよう、葵はある程度まで聞いたところで職員室を後にした。


 職員室を出ると、廊下には人影はもうまばらだった。少し離れた壁には掲示板がしつらえられており、その前に細身の少女が立っている。癖の全くない腰まである黒髪が、窓から吹く風に揺れていた。


 彼女は掲示板にじっと見入っている。葵も背後からのぞいてみた。新入生獲得のため、各部活が死力を尽くして製作したどぎついポスターが所狭しと張られている。しかし、派手すぎるが故にかえってお互い殺し合っており、一番シンプルな白黒デザインの囲碁部が最も目立つという皮肉な結果になっていた。


 葵はポスターから目を離し、立っていた少女に声をかける。


「すまん。終わったぞ、怜香れいか

「早かったわね」


 呼ばれた女生徒が振り向く。目の上でぱっつんと切られた前髪が、さらりと揺れた。二重瞼の下で、大きな瞳がくりくりと動く。誰が見ても美少女と言うであろう容姿だが、職員室に呼び出された葵を心配しているらしく、彼女の表情は暗かった。


「で、何したのよ」

「話が退屈すぎると文句を言われた」

「ああ、それはそうね。クラスの半分は寝てたわ」


 葵びいきの怜香の目から見てもあれはつまらなかったらしい。あっさり切り捨てられて葵は肩をすくめた。


「ま、その程度の事でよかったじゃない。次から気をつければいいの。なんなら一緒にスピーチの練習する?」

「いやそれはやめとく。適性のないこどに費やす努力ほど、無駄なものはないからな」

「えー、いいじゃないの」


 子供のように拒絶する葵を見て、ころころと怜香が笑う。高くよく通る笑い声が廊下に響き、くさくさしていた葵の気分を晴らした。今日はこれから行くところがあるのだ、暗い気分を引きずってはいられない。意識はいつも平坦に保つのが基本だ。


「……そろそろ時間だろう」

「あ、そっか。下駄箱こっちよ」


 怜香が差し出した手を葵は握ろうとした。が、横から見たこともない男の手がにゅうと生えてきて、葵は思わず差し出した自分の手をひっこめた。


「やあやあやあ」


 廊下に、調子のいい男の声がこだまする。今まで談笑していた見ず知らずの生徒たちが、一斉にこちらを向くほどの大きさだった。


 生えてきた手には真っ赤なハンカチが握られている。彼がそれをぐっと拳の中に握りこみ、再び開くとそれは一輪の赤薔薇に変わっていた。もちろんそれは造花だが、大した早変わりである。


 葵はその手の持ち主である男をじっと見つめた。身長は葵より高く、少し見上げる形になる。明るい茶色の髪は短く切りそろえられており、ワックスでもつけているのか端っこがつんつんと宙に浮いている。


 顔立ちは幼い。少なくとも葵と同い年であるはずなのだが、くりくりと良く動く猫のような大きな目と、横に大きく広げられた口のせいで年下にしか見えなかった。


 顔のパーツは整っており、普通に話しかけられたのであれば、決して女子に嫌がられる男ではない。人によっては、自分から声をかけたいと思うものもいるだろう。しかし、いきなり横から雲霞のごとく湧いて出てこられては、不審者以外の何者でもない。


「なんですか」


 ゴキブリの親戚に話しかけるような口調で怜香が言った。しかし男はその冷たい態度に戸惑った様子もなく、しれっと口を開く。


「一目惚れや。頼む、俺の彼女になってくれへんか」

「嫌です」


 怜香はマッハで断った。振られるまで二秒。なんて儚い恋愛だ。


「……わかった、しゃあないなあ」


 立ち直るまでにも二秒。今度はせわしない恋愛である。しかしこいつ、告白のためだけに薔薇を仕込んできたとしたら大したタマだと葵は思った。

 

 告白された怜香は、あっけにとられた表情で目の前の男を見つめている。ストーカーになるのではないかと危惧を抱いていたようだが、男の邪念のなさに毒気を抜かれた様子だ。


「……意外とあっさり諦めてくれるんですね」

「あかんもんはあかんのやろ。無理強いしたってしゃあないわ」


 男はそういいながら、薔薇を無理矢理ズボンのポケットにねじ込んだ。びりっと布が破ける音がしたが、気にした様子もなく話し続ける。制服をあんなに雑に扱うなんて、どういう神経をしているのだろうと葵はいぶかった。


「しかし、君ほんま可愛ええから、名前だけでも教えてや。俺の人生が豊かになるわ」

「変な人ね。怜香。久世怜香≪くぜ れいか≫よ」


 下手に絡め手で言われるより、ここまでストレートに言われたほうがかえって気持ちがいい。苦笑いしながらも、芯から悪い相手ではなかろうと思ったのか、怜香が名前を教えてやった。


「よーし覚えたで。これからよろしゅうな」

「よろしく」


 怜香の顔も明るくなった。もとから友達が少ない彼女にとっては、無遠慮であっても同級生の知り合いはありがたいのだろう。


「いやー、ええなあこの学校。入学早々テストやなんていけずやなあと思っとったけど、俺の未来は明るいわあ」

「良かったね」

「あ、俺は大和やまと御神楽大和みかぐら やまとや。やまちゃんでもやまぴーでも好きに呼んでや」

「やまぴー」


 さっそく葵が呼びかけた。


「それはあかん」


 大和は盛大に顔をしかめる。何故だ。


「お前がそう呼べって言ったんじゃないか」

「あかんもんはあかん!」


 大和は顔を真っ赤にして叫び、地団太を踏む。野郎に言われるのは心外、ということだろう。ここまで分かりやすい反応をしてくる奴も珍しいな、と葵は感心した。


「こら、そこうるさいぞ」


 大和があまりに騒ぎすぎたため、職員室から顔を出した教師に三人まとめて注意された。大和が大仰に頭を下げる。


「すんませーん」

「元気があるのはいいことだがなあ、人に迷惑かけるのはいかんぞ」

「気をつけまーす」


 一同、ここは良い子になっておこうと無言のうちに同盟が成立した。その様子を見て、素直でよろしいと教師は満足そうにうなずいた。彼は頭を引っ込めたが、何かを思い出したようにまた顔をのぞかせる。


「あ、君たち御神楽くんって知らないかなあ」

「こいつです」


 不吉な気配を感じ取ってこっそり後ずさりを始めた大和を、葵はためらいもせずあっさり教師に売り払った。


「そうかそうか」


 頭を引っ込めていたさっきまでとはうってかわって、がらりと音を立てて職員室の扉が開き、揉み手をしながら教師が近づいてくる。彼の目は全く笑っていなかった。


 本能的に危機を察したらしい大和はくるりときびすを返すと、一切振り返らずに脱兎のごとく逃げ出した。


 速い。


 スポーツ推薦は伊達ではなく、あっという間に大和の後ろ姿が視界から消えて行く。スポーツシューズでもなく、ただの上履きでよくもあそこまで走れるものだ。


「あっ、待てっ、補習だ、補習を受けるんだ」

「逃がすかっ、追え、追えー」

「太陽は西から上らないんだぞー」


 しかし教師も負けていない。体育教師と見てとれる屈強な三人組が、大和を追ってばたばたと曲がり角の向こうへ消えて行く。平和な学園内にいるというのに、まるで捕り物でも見ているような騒がしさだった。


「……行くか」

「うん」


 あまりのことに、一切口をはさめなかった葵が、ようやく怜香に声をかける。二人連なって、今度こそ下駄箱を目指した。


 さようなら大和君。もう会うことはないだろうが、君のことは忘れない。



☆☆☆




 葵と怜香は並んで歩く。放っておくと、歩くのが異様に速い葵の方が怜香を置いて行ってしまう。二人の目的地は同じだったので、置いていかないでと怜香からクレームが入った。


「はい」


 怜香が手を差し出す。今度こそ邪魔が入らなかったため、葵は無事に怜香の手をとった。その途端、悪くなっていた怜香の機嫌はすっかり治っていた。


 手をつなぎながらしばらくそぞろ歩くと、前方にコンクリート造りの建物が見えてきた。三階建てで、周りの建物と比べてさして目立つ高さではないが、次々と制服姿の男女がその中に足を踏み入れて行く。葵たちもその流れに従い、入口の自動ドアをくぐった。


 ホールを直進し、階段を三階まで登って廊下を進んだ。建てられてから一度も張り替えられていない壁紙は黄ばみ、端がまくれあがっていた。蛍光灯も三本に一本は切れており、昼間だというのに薄暗い。


 しばらく二人で辺りを見回し、ようやく探し当てた目当てのドアをノックしてから押しあけた。


 部屋の中は相当に広い。片側の壁はほぼ全面ガラス張りの窓になっており、日が入るうちは廊下よりよほど明るかった。室内には五人がけの横長テーブルが横に二つ並んでいる。それが合計五列あるため、五十人が座れる計算になる。


 すでに席は八割方埋まっていた。座っている面々は全員葵と同じ学生で、背筋をぴんと伸ばして緊張した面持ちで手元の資料に見入っている。学校はばらばらなようで、彼らの制服は詰襟の学ランあり、セーラー服あり、ブレザー姿ありとバラエティーに富んでいた。


 部屋の前方、並ぶ長机を見渡せる位置に白い教壇があり、マイクが二本無造作に置かれている。その教壇の傍らに、男が一人座っていた。年は五十くらい、少なくなった髪をあらんかぎりの情熱とポマードで固めてひと塊にしている姿は涙を誘う。


 彼は葵たちに気付くと、声をかけてきた。


「やあ、こんにちは。好きなところに座りなさい」


 そう言われても、すでにおおかた席は埋まっており、選択の自由はほとんどない。二人並んで座ろうと思うと、もう最前列しか空いていなかった。ポマードおじさんと見つめ合うのはごめんだったので、二人は暑いのを承知で窓際の席に腰を下ろす。


「ぎりぎり間に合ったな」


 葵は息をつく。壁の時計は二時五十五分を指している。事前に言われていた集合時刻は三時だった。余裕をもって到着するつもりだったのに、予定外の説教と大和の登場で遅くなってしまった。


「そうね、私たちで最後じゃないかな」


 怜香が言った。教壇のおじさんも同じことを考えているらしく、葵たちが着席した時点で指差して人数を数え始めた。が、納得のいく結果ではなかったらしく、顔をしかめたまま指を下ろす。


「皆さん。残念なことに一人遅れているようなので、ちょっと待ちます。すみませんね」


 彼は全員揃っているのが当たり前だと思っていたらしく、ぶっきらぼうにそう告げた。こんなことが許されるのは今日だけですからね、とさらに付け加え忌々しそうに入り口の扉をにらむ。


「最後の一人って誰かなあ」

「非常識な奴だよね」


 おじさんの苛立ちが感染したように室内がざわつく。一体どんな奴だろう、と呟く声があちこちから聞こえた。怜香がこっそりと葵の肩をたたき、耳元でささやく。


「心当たり、ある?」

「いいや。誰だか知らんが、初日から有名になったな」

「ちょっとかわいそうだよね」

「いや、これは自業自得だろ」


 葵はそう言って、窓の方を見る。まあ、せいぜい怒られるがいい。そいつが誰だろうが、自分には関係ないだろう。


 西日が入りだしていたので、少し鬱陶しい。葵が日よけのブラインドに手をかけたその瞬間、大きな黒い眼と、目が合った。


「ちわーす」


 さっき聞いたばかりの、能天気な声が響く。葵は反射的にブラインドを閉めた。



☆☆☆



「友達になれたと思っとったで!」

「そうか。残念ながら俺はそうじゃなかった」


 窓の外にいた、不審な目玉の主は御神楽大和だった。話を聞くと、脚力にまかせて教師三人をまいたはいいが、そのせいでこっちの集合時間に遅れそうになったという。


 持ち前の俊足を活かしてなんとか建物の前まで着いたはいいが、時計の針はすでに約束時間の二分前まで迫っていた。このままでは、開始時間に間に合わない。


 諦める? 否。


 迂回すれば間に合わぬ、ならば直線ならどうだ!


 そう天才的なひらめきというかバカの思いつきというかで悟った大和は、手近にあった樹によじ登った。運動神経抜群の彼は、あっという間にてっぺん付近までたどりつく。予想通り、樹の目の前に自分がいるべき部屋があった。


「あとはお前が窓さえ、窓さえ開けてくれれば華麗に間に合っとったのに」

「知るか」


 涙目になっている大和を葵は一喝した。教壇のおじさんもこの木登り男には怒り狂い、大和を立たせてさんざん油を絞った後、


「ほんんんっとうによく反省しなさいね。僕、君の名前もう覚えましたからね」


 と言ってようやく席に着かせた。教室に乾いた笑いが流れ、おじさんは派手な咳払いをする。


「えー、お待たせしました。これより、入隊に伴う説明を始めます」


 マイクからそうアナウンスが流れると、会場の空気がぴんと引きしまった。おじさんは注目が自分に集まったのを確認し、満足げに息をつく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る