第1話(2)


 もちろん初対面で正体不明の怪しいジジイの言葉に盲従してノコノコ待ち合わせ場所に向かうほど俺は阿呆ではなく、指定された裏門の様子を観察できる校舎二階の渡り廊下から、どこの誰がやってくるのかを窺った。しかし五時になっても誰も来なかった。五時半になっても来なかった。あのジジイ殺す、と思った頃に見慣れた後姿が現われた。

 話くらいは聞いてみてもいいか。変な罠にハメられる可能性は低そうだ。

腕時計で時刻を確認しながら周囲を見回し、鏡公彦の姿を探しているその人物を見て、俺はそう思った。

「遅れちゃってすみません。職員会議が長引いてしまって。君が鏡きみひ……ん? かがみ? かがみ……いや違いますよね名前。たしか田中、田中……えーと、んん……あれ、田中なんでしたっけ?」

 向こうは俺の顔と苗字は覚えていたが名前は覚えていなかった。若干カチンときたがそこは教師と生徒の立場の違いというやつだ。

 飯海アンナ。ウミメシ先生という、苗字の漢字をひっくり返して音読みした愛称で南高生徒に親しまれている女性教諭。

「そうそう倖一郎君! 田中倖一郎君!」

 俺の告げたフルネームを親しげに呼びながら、ウミメシ先生は手を叩いた。肩のあたりで切り揃えられた髪が薄暮の余光に重なって、稲穂みたいに揺れてきらきら光った。南高でウミメシ先生を知らない生徒はいない。その理由がこのブロンズヘアーだ。どこかの国のハーフらしいが日本で生まれ育っているため、むしろ英語は不得意らしく、教えているのは現代国語である。

「あ、倖一郎君は自転車通学なんですか? じゃーゆっくり運転するから、まあダラダラついてきてください。どこに行くって? ついてくればわかりますよ。レッツゴ!」

 ウミメシ先生の運転する軽自動車は十五分ほどトロトロ走り、市の外れの葡萄畑のド真ん中で止まった。

 目前に迫る冬に備えて実と葉を落とし、裸になった木々。収穫シーズンが終わって人気のない葡萄畑の空白地点に、その建物はあった。小汚い平屋の屋根の上では『テアトル三津由園』という文字がビカビカと下品な輝きを発していた。

 こんなところに映画館?

 入り口をくぐるとすぐ横に入場口兼売店のカウンター。そこに仏頂面で座っていたのが久郎だ。

「アンナさん誰そいつ?」

 訝しげに細めた目を向けられる。このときは不審者に対する視線だと思ったが、俺に限らずあらゆるものをそういう目で視るのが笠井久郎だということを、俺はじっくり理解してゆくことになる。

「私の教え子です。おじいさんいます?」

「どっか行った。いつものことだから、今上映してるのが終わる頃には帰ってくると思いますけどね」

「何時から何を」

「六時からスタンドバイミー」

「あらま、またベタ珍しい」

「オーナーの要望で、そういうベッタベタな名画を流すって企画なんだ。正直俺は気が進まなかったんだが、これがいつもより集客がいいんだ。悲しくなるわ」

「ウェンザナイ、ハズカム、アンザランディズダーク……ってそれ一時間以上待つってことじゃないですか。じゃあもう勝手に始めましょう。ヘイ、ダーリンダーリン、ステェンドゥバイミー!」

 ウミメシ先生の手招きに従い、映画館に足を踏み入れる。

 こぢんまりとしたロビーの端っこの、黒く艶光りした硬そうなソファーにウミメシ先生が座る。俺も座る。状況を飲み込めない。

 俺はカウンターに目をやる。スマートフォンをいじる久郎。棚に並べられたパンフ。奥にはドリンクサーバーと冷凍ケース。曇ったガラスケースにポップコーンが満ちている。やや手狭ながらも映画館らしい空間だ。

 奇妙なのは今、俺がいるこちら側だ。まずデスクトップパソコンが置いてあって、ご自由にお使いくださいの張り紙。その横には「猫がいます(肥満気味なので餌をあげないでください)」の張り紙。スチールラックには乱雑に積み上がった、色褪せた映画雑誌。リサイクルショップにも買い取りを拒否されそうなCDコンポ。赤と黒のチェックのクロスが敷かれたテーブルには新聞と黒茶色の液体が入ったマグカップが置いてある。

 ロビーというよりは田舎のおっちゃんの家の居間という風情である。なんだここは。本当に映画館か。しかし視界の左斜め先にはドアが半開きになった映写室があり、映写機らしいマシーンが光を発し、フィルムが回っているのが丸見えになっていた。

 身体を硬直させたまま眼球だけを動かして周囲を窺う俺に、ウミメシ先生は言った。

「少年はここで働くのです」

「えっ」

「時給は六百五十円」

 安っ。

「安いと思ったでしょう。でも聞いた話だと、あなたがほしいのはお金じゃなくて睡眠なんでしょ?」

「できれば安眠快眠惰眠とレベルアップさせていきたい。夢は爆眠ですね」

 引っこ抜かれて集まって飛ばされてそれでも私たち果てしない眠りに落ちてゆく。

「ここではその夢が買えます。賃金は爆安ですが、オプションとして当館のフリーパス権がついてきます。仕事中でなければ映画は見放題だし、もちろん閉館後の使用もオッケー。貸し出し用の毛布もあるし館内のシートで寝るもよし、裏の事務所にもソファーや横になるスペースはあるからそこで寝るなり好きにすればよろしい。あ、それとあのポップコーンはゲロマズだから、食べない方がいいですよ」

 というわけで俺はアマチュア墓守からうさんくさい映画館のバイト君にクラスチェンジした。ポップコーンがゲロマズなのはウミメシ先生の言うとおりだったが、時給はさらに安く六百二十円だった。県の最低賃金については触れないでほしい。しかし「人が多い場所では眠れない」という俺の言葉を聞いたうえで紹介されただけのことはあって、テアトル三津由園は俺が眠るのにうってつけの場所だった。

 レイトショーは遅くとも午前一時半には終了して、軽く館内を清掃した後、ジジイと久郎はそれぞれの家に帰る。そのあいだ映画館は翌日の開館一時間前(午前九時)まで無人となる。周囲二百メートル四方には葡萄畑以外、なにもない。シーズンオフなので農家のおっさんおばさんたちも現れない。こんな場所に映画館を建てた意図は謎だがその酔狂な人物に感謝するしかない。最初は裏の事務所で寝ていたがしばらくすると劇場内の最前列の席……の前の床に転がって寝るのが習慣になった。

 寝る前はバイトだ。午後五時から九時、もしくは十時からの翌日二時が俺の主なシフトになった。

 神出鬼没のジジイの代わりに映画館の実務を俺に教育したのは久郎だった。俺が夜のシフトに入るようになったことでジジイはますます映画館に来なくなったらしく、大抵は久郎と一緒だった。

 久郎は常連客の口ぶりからどうも大学生らしい、ということ以外は謎の男だった。どこに住んでんの? ジジイやウミメシ先生との関係は? 訊けば隠さずに教えてくれそうな雰囲気はあるが、久郎は俺について何も訊かないし、こちらもあえて訊く理由はない。ゆえに俺が久郎について知っている情報は直に触れたものがほとんどである。

 鋭さのある双眸にボーダーシャツが良く似合う長身痩躯。性格はぶっきらぼうで、人が傷付くような言葉を平気で吐く。和やかな人間関係を維持するためにコミュニケーションのネジを調節しようという意欲が極めて希薄である。

 しかし俺がレジ打ちを間違えて会計が千円以上合わないミスをやらかしたときの言葉は「初心者がミスをするのは当然」だった。年上なので最初は敬語&さんづけで接していたらタメ&呼び捨てでいいと言われた。テアトル三津由園のアイドル、斑猫のソロンズさん(肥満気味)には自腹で購入した低カロリー&栄養バランスのいい猫メシを与えている。目つきも愛想も口も悪いが、根は悪い奴ではないのだ。

 テアトル三津由園にはいろんな人間が来る。

 仕事帰りのサラリーマン、風俗嬢、大学生っぽいカップル、老夫婦、ノッポのガリ、自営業っぽいだらしない服装のデブ、警官……客はリピーターが多く、一ヶ月も働いていると顔を覚え、客連中の趣味嗜好もわかってくる。頭頂部が薄いサラリーマンは古い時代劇を流すと来る。ノッポのガリはフランス映画を流すと来て、そして必ず毛布を借りる。風俗嬢はたまにトイレで泣いている。警官は酔っ払いが暴れたり、カップルが館内でエロいことしたときに電話をすると来る。

 そいつらに俺はモギリをし、コーラやビールやポテチやアイスを売る。ポップコーンはゲロマズなので売れない。売れないから長期間そのまま放置され、湿気を取り込み、さらにゲロマズさは加速してゆく。常連客はみんなそれをわかっているのだ。

 ポップコーンは一リットルほどの紙カップに入って二百円。さらにドリンクのMサイズ(百五十円)とポップコーンを一緒に買うと、セット価格で三百円になる。Lサイズ(二百円)とセットなら三百三十円だ。これはお得! なので初めて来館した客は皆、ポップコーンを買ってしまう。買わされてしまう。そして後悔する。映画を前にテンションがダダ下がる。それがこのテアトル三津由園の通過儀礼なのである。

 だからそいつが「コーラのMと、ポップコーンください」と言ったとき、バイト暦三週間の俺は(ふん、初心者が……)と内心嘲笑した。そいつの後ろ姿が劇場へと消えてゆくのを眺めながら、「なんだこのポップコーン……」と映画を観る前にテンションがダダ下がりになる光景を想像してニヤニヤしていた。

 しかしそいつは次に、二週間後に来たときもまたポップコーンを頼んだ。なんなのこいつバカジャネーノ。味覚障害なの。しかしさらに十日後にも、そのさらに二週間後にもポップコーンを注文したのを見て、これは逆に何かあるのではと思うようになった。

 そのポップコーンはテアトル三津由園の自家製で、事務所の隅に置かれた古臭いポップコーンメーカーで作られている。汚れと錆の目立つその機械は出来立てのポップコーンは美味いという思い込みを覆すポップコーンを容赦なく創造する。

 もしや俺が知らぬ間に味が改善されたのかと思い、ある日まだ温かい出来立てホヤホヤをつまみ食いしてみたが、やっぱりゲロマズのままだった。これに湿気のパワーが加われば向かうところ敵なしだ。

「コーラのMと、ポップコーンください」

 そして今日もそいつは俺の前でその言葉を出力する。薄く桃色がかった唇を動かして、抑揚のない声で、呪文を唱えるように。

 胸に咲く菊の花を象ったワッペンは、県内有数の進学校として名高い中高一貫の女子校のトレードマーク。人目を牽くその制服姿は、赤いハーフフレームの眼鏡が乗った整った顔立ちと、丁寧に編み込まれた長い黒髪も相俟って、客も店員も胡散臭い奴ばかりのこの映画館で、一際異彩を放っていた。

「なんだ惚れたのか? 言っとくが映画女なんてろくなもんじゃないぞ」久郎はスマホをいじりながら、劇場の扉を顎で指した。「女なんてシネコンで脳スカンなハリウッド映画を見て感動しました! と言ってるくらいが丁度いい。こんな場末の映画館にしょっちゅう来る女は面倒くさい可能性大だ」

 そのフェミニストに袋叩きに遭いそうなジェンダー差別丸出しの思想は久郎君の経験則によるもの? と言いかけてやめた。苦労話を装ったモテトークを拝聴したくて話を振ったわけじゃない。しかしその理屈なら俺はトム・ハンクスとトム・クルーズの違いもよくわからないくらいだから逆に相性がいいかもしれないな。

「んなんじゃない」俺はレジに百円を入れ、冷凍ケースからバニラチョコ味の棒アイスを一本取り出した。「こいつはミステリーだ。日常の謎だ」

「みすてりぃ?」

 久郎が興味のなさそうな口調で俺の言葉を復唱する。

「なぜあの子は毎回ゲロマズなポップコーンを買うんだと思う?」

「ここは腐った豆が料理として市民権を得てる狂った国だからな。湿気たポップコーンを好んで食べる輩がいても別におかしくはない」

 納豆が嫌い。どうでもいい久郎トリビアが増えた。

 しかしせっかく言葉を選んでやったのにこの返答。久郎君は背表紙に黄色い犬が描かれたノベルス本や薄黄色の文庫本の登場人物になる素質がないな。

「毎回買ってるからといって、美味しいと思って食べてるとは限らんぜ」

「ああ?」

「たとえば」と前置きして、俺は適当な仮説をその場で考えて、述べた。「彼女にとって映画館とは、大事な人物との思い出に深く関わる場所なんだ。親兄弟か友達か彼氏かはわからんがとにかくそいつは映画が好きで、そして劇場で映画を見る際に好んでポップコーンを食べた。しかし現在そいつは彼女のそばにはいない。遠い場所に行ってしまった。つまり彼女にとって映画館に赴くことは追悼と追憶の儀式のようなものであり、それにポップコーンは欠かせないアイテムなのである」

「クッソつまんね。二十五点」

 採点の辛い久郎先輩。もちろん俺もこれが正解だと思っているわけじゃない。正解を知りたいとも思わない。バイトの暇に、解答用紙に落書きをしたいだけ。どうせ真実なんて陳腐で、つまらない、興が醒めるものに決まっているのだから。

 七時半。壁の向こうで久郎曰く「不条理と美学を履き違えた無駄に長いだけのホラー映画」が終わる。毎晩劇場のスクリーンの前で寝ている俺だが、未だにまともに映画を見ていない。

 一人、二人と客が劇場から出てくる。その中には噂のポップコーンちゃんの姿もあった。彼女は空になったカップをゴミ箱に入れると、カウンター内に並んで立っていた俺と久郎の前を横切って、奥の化粧室に向かい、そしてすぐに出てきた。上映後は決まってそう。おそらく指先についたポップコーンの油を洗い落としているのだろう。

 出口へと歩を進めながら眼鏡を外し、ケースにしまう少女の後ろ姿に、本日もご来場ありがとうございましたーと声を投げかける。


 客が全て捌け、久郎が帰宅し、深夜のテアトル三津由園に一人残った俺は、劇場の最前列の席とスクリーンの狭間の空間に、愛用の寝袋で眠る。

床に敷き詰められた小豆色のカーペットは厚みと柔らかさに欠け、お世辞にも就寝環境が良いとは言えない。朝起きると背中が痛いときもある。ロビーの硬いソファーのほうがまだマシだ。しかし俺はここがお気に入りだった。

 最初はその理由についてあまり深く考えていなかったが、季節外れの低気圧が三津由園市を直撃して豪雨が吹き荒れた夜、「あーそうか、この妙な寝心地のよさは防音性の高さによるものなんだな」と気付かされた。映画館は外界の光を、そして音を遮断して、観客を日常から切り離す。チャンネルを切り替えるようして、スクリーンの向こう側の世界へと誘う。俺はその境界線上で、両方のスイッチを切って眠る。

 暗闇の中、曖昧な静謐に沈んでいると、緞帳の向こうのスクリーンの中から、こちら側を覗かれているような気がしてくる。そういう意味でこの場所はあの墓地にも似ている。ユマちゃんの言うように彼らはそこにいて、けれど俺にシックスセンスがないから、チャンネルが違うから、みんな俺の夢には入ってこられない。だから余計に心が安らぐのかもしれない。なるほど夜の声ね。ジジイの言っていた言葉を思い出す。ここはいい。皆ただ静かにそこにいる。おやすみなさい。

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