それぞれの新しい「朝」原嶋明希の場合
~五月十七日、午前七時十五分~
窓から見える景色は昨日の朝までとは違う。今日からこの火星コロニーでの新しい生活が始まる……彼女は不安と期待の入り交じった感情を抱いた。
階段を下りていくと、まだ誰も起きていなかった。洗面所で顔を洗うと、彼女はリビングに山積みになった箱の中から朝御飯の支度が出来るだけの調理器具と食器を取り出し、冷蔵庫を開いた。
中を見ると、昨日の昼に買ってきたらしいベーコンと卵に、多少の野菜があった。これだけあれば十分だろうと、彼女は料理を始めた。
手始めに野菜を手に取って、まじまじと眺める。火星産の野菜は少し小ぶりだった。彼女が育ってきたコロニーは農業コロニーというか、近代的な工業よりも第一次産業の盛んな場所であったからだ。彼女はキッチンに置かれた箱の中に切ったばかりの野菜を入れた。スクリーンを二、三度撫でると、箱の中で加熱が始まった。
その間に新型のIHクッキングヒーターを起動し、慣れた手つきで卵とベーコンを炒める。
朝食の匂いに釣られて彼女の父が起きてきた。
「おはよう」明希がそう言うと、父は
「おはよう、昨日はあんなことがあったのに、もう料理をしているのかい? 」と、目を丸くした。
「だって……なんだか気分がいいんだもの」彼女の手の中で踊るフライパン、あっという間に朝食が完成した。
食器を並べ終わった頃、ドタドタと音を立てて彼女の母が降りてきた。
「また先を越されたわ、今日こそ私が朝ごはんを作ろうと思ってたのに! あらやだ、パパまで起きてる! 」そう早口で言うと、明希の弟を起こしに向かった。
数分後、寝ぼけて枕を持ったまま弟は階段を下ってきた。
「ごはん冷めちゃうよ」明希がそう声をかけると、目の色を変えて食卓についた。
「いただきます」口々にそう言うと朝食を食べ始める。
「そうだ、私今日買い物に行くから」明希が言うと、彼女の父は
「昨日はあんなことがあったんだから、父さんはあんまり出てほしく無いんだけどなぁ……」と、難しい顔をした。
「そうねぇ……」母も頷いた。
「私なら大丈夫だから……ダメかな……? 」彼女の父と母はう~んと唸っている。
「ねーちゃんどっか行くんだったらおみやげ買ってきてよ! おみやげ! 」弟は口の回りにケチャップをつけたままそう言った。
「考えておくわ」明希は微笑んだ。
「やったね! 」パジャマの袖で口を拭った弟が笑顔で言った。
「ところで、出かけていい? それともダメ? 」明希はもう一度許しを請おうとした。
「しょうがないなぁ……出かけてもいいよ。但し、絶対に気を付けるんだぞ」父は遂に折れた。
「ありがとうお父さん」明希はそう言うといそいそと食器を片付けて出かける支度を始めた。
~午前九時三十分~
「それじゃあ、行ってきます」身支度を整えた明希は家を出て、駅へ向かって歩きはじめた。
昨日は奏志がいたから平気だったものの、一人だと彼女は道に迷ってしまいそうになった。途中何度か違う小路に入ってしまったが、なんとか駅につくと、既に来ていた急行に乗り込んだ。
昨日の午前中までいた小さなコロニーのものとは全く違う、路線の複雑なレールウェイでコロニーの中心部へと向かっていく明希。彼女は思った。火星に来て二日目でこんなことを思うのはどうかと自分でも思うけれど、やっぱり、都会の雰囲気には慣れない、息が詰まりそうな程に人の多い車内、忙しそうにスクリーンに指を走らせる人、隣の人と肩をぶつけ、恨めしそうにお互いを見る大人、なんだか、せわしない。余裕がないと言うか……もっとゆっくり生きてもいいのに……彼女はそう感じていた。
誰も見ようとしない車窓からの景色には昨日の戦闘で壊れたビルや、建物に力なく倒れかかったAFが見られた。
朝のニュースで見たけれど、昨日の騒ぎでの死者は幸いなことにゼロだった。だから……と言ってはなんだけれど、この騒ぎはそれほど市民の気を引き付けるものではなかったようだ。ゴシップ誌は大変賑わっているらしいが、明希は溜め息をついた。
しばらくレールウェイに揺られた後、彼女は手元のスクリーンに目を落とした。今日買うべきものと次の乗り換え駅を確認する。正直なところ、買うものはほとんどないけれど……なんとなく自分の知らない街の中を歩いてみたくなったから、そんなことも彼女にとっては外出の理由としては十分だった。明希はスクリーンから顔を上げると、もう一度車窓の景色を眺め始めた。
車窓から見える景色は次々と流れては視界から消えていく、その中に彼女は海を見た。視線が海を追って流れる。そういえば……私は海を見たことがない──彼女はふとその事を思い出した。
昨日までいたコロニーには湖があったが、海を見たのははじめてのことだった。そうして彼女は視界からは消えた海に思いを馳せる。教科書やネット、本で見たよりもずっと素敵な色彩だった。絵に描こうと思っても、きっと色が足らないくらいに様々な色を見せていた。どんな匂いがするのだろう? 水の感じは? あたたかいのだろうか? それとも冷たいのだろうか? 彼女は、はじめて見た海についてひとしきり考えた後、それなら見に行けばいい、時間はこれからいつでもいいから、海に行こう、そう決めた。
車掌の間抜けな声が響く。
「次は、
乗り換えなきゃ、明希は急いで立ち上がると、怪訝そうな顔のおじさんに軽く会釈をして、申し訳なさそうに前を通りすぎた。レールウェイが止まると明希は人波に揉まれながらホームに降り立った。やはり私には都会のスピードは合わない、明希は肩を竦めた。
人波の中、一人の女性が気付かれないようにコッソリと明希の肩に触れた。
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