第55話 峠

 御殿場を出た小熊は、左手首のデジタル時計を見た。

 昼前に北杜の自宅を出てからここまで走り、途中で他人のカブのパンク修理などをしたけど、まだ三時にもなっていない。

 地図を見た限りここから箱根を越えて県境に達し小田原に出れば、あとは海沿いの直線道路を走るだけ。

 一冊の全国地図と高速道路で貰える観光マップを頼りにカブであちこちを走り回ったおかげで、地図を見るだけで大体の走行時間を予測できるようになった。

 余裕を見越しても二時間ほどで修学旅行の宿泊先に到着すると予想した小熊は、現地に着いてからのことを少し考えた。

 修学旅行の生徒を受け入れる予定の旅館は、それより数時間早く原付に乗って来た生徒を受け入れてくれるんだろうか。

 一足早く部屋に入れてもらい、旅館の茶菓子で一休みした後に風呂にでも入れればいいが、まだチェックイン時間の前ということで、すげなく門前払いされるかもしれない。

 そうなったらどこかで時間を潰すことになる。せっかくカブで遠出したのに目的も楽しみも無い時間を無駄に過ごすのは、あまり愉快では無い。

 北杜の自宅最寄のガソリンスタンドからここまでの走行距離は100km少々。鎌倉までの道中で使い切ると思っていたガソリンはまだ半分以上残っている。

 元々このカブツーリングは、修学旅行のバスを追いかけて途中参加することが目的。同級生が修学旅行初日の予定である鎌倉の寺巡りをしている間に、小熊は自分なりの一人修学旅行を楽しみたいと思った。

 この辺でどこか行きたい所、興味を惹く面白そうな場所は無いものかと思いながら走っていると、箱根近辺に幾つかある美術館の看板が目に入る。

 美術品を見て楽しむような気分じゃないし、お金のかかるところは勘弁願いたいと思った小熊は、赤信号で停まったカブのエンジンを切って道端に寄せ、手で押して横断歩道を渡り、そのまま対向車線にカブを乗り入れた。

 小熊はついさっき走ってた道を逆方向に引き返した。目的地は視線の先に見える大きな山。

 

 直線的で勾配も無く走りやすいが、車の混雑がひどい国道一三八号を北上して、30分ほどで目的地に達した。

 富士山須走登山口。この道をまっすぐ走れば五合目まで達する。

 この夏に礼子が挑み、頂上を目前にしながら力尽きた道。小熊もカブなら登れると言った手前、ついでの寄り道ながら礼子が登った山の一端くらいは知っておきたい。

 富士宮の新五合目のほうが標高は高いが、富士スバルラインの終点にあるため有料で、原付は入ることが出来ないが、こっちはタダ。

 須走の小さな市街地を経由して、小熊は登山道に挑み始めた。

 陸上自衛隊の富士学校を右手に見ながら、勾配のある坂を登っていく。

 さすかに平地では70km近く出るカブも失速し始め、40km少々しか出ないが、舗装は綺麗で他車もあまり見かけない道路を順調に走ることが出来た。

 これくらいカブなら楽勝、と思っていた小熊は、だんだん速度が低下していることに気付いた。

 街中の急坂と違って、周囲全てが傾斜していて比較する物が無い山道では、走っている道路の勾配に気付かないが、かなりの急坂らしい。カブの速度が30km少々になったあたりで三速のギアをトップから二速に落とした。

 道路標示が三合目に達したことを告げ、道がほぼ直線の無いカーブだけの道路になってきたあたりで、二速のままうるさい音をたてていたカブのエンジンが悲鳴を上げ始める。


 四合目の手前で、小熊は変速ギアを発進時にしか使わない一速に落とした。カブは人間が小走りになる程度の速度でやっと前に進む。

 いつのまにか小熊は、カブのエンジンに同調するように息を切らしていた。冷涼な高地でアクセルを捻るだけなのに汗が流れてくる。

 いよいよ一速でも限界か、途中で尻尾を巻いて逃げるのかと思った。小熊がカブを買った中古バイク屋の言葉を思い出した。カブの一速は日本中のあらゆる坂を登るためにある、と

 オフロードバイクで過酷な山道を踏破したところ、現地の山菜取りのお爺ちゃんがカブで来ていたという話を聞いたことがある。尾道や長崎のような坂の街で、車に登れぬ坂の先にある家まで、配達カブは毎日やってくると聞いた。

 小熊はカブのエンジンと車体、一速のギアを信じながら這うような速度で走った。ようやく終わりが見えてくる。

 左右の森林が開けて明るくなり、カブは須走登山道路の終点に達する。

 駐車場にカブを停めた小熊は、ヘルメットを外して深呼吸した。

 富士山五合目。小熊はカブを降りて周囲を散歩した。眼下の風景を見下ろそうにも雲でよく見えない、それより地面が暗灰色の細かい石で覆われているのを見た時に、関東甲信越の赤土を見慣れてる小熊は高地に来たという実感を得た気がする。

 お茶を飲んで一休みした小熊は、カブのエンジンをかけて来た道を引き返す。

 小熊は駐車場を出る前に後ろを振り返った。徒歩登山道の入り口と、隣に見えるブルドーザ登山道。富士山の頂上まで達している道。

 礼子が走った道を見ながら、小熊は次にここに来る時は、もっと高く登ってやろうと思った。

 「今日はこれくらいで勘弁してやる」

 自分の口から出た強がりの独り言に自分で笑ってしまった。

 往路とは打って変わって快適な下り坂を、気圧差でツンとする耳の痛みを何度もツバを飲み込んで抑えながら下山する。

 国道に戻った小熊は、もう一度御殿場市街を経由して箱根の山に向かう。

 さっきまで緊張していた峠道の踏破も、今はもう怖くない。 


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