第8話

 魔王ゴルマデスは、聖堂の天井をいともたやすく体当たりでぶち破り、地下空洞を形成する岩盤をも、角の一突きで貫いた。


 もうもうと土煙を上げて飛び出した場所は、陽光が燦々と降り注ぐ、帝城内の広大な庭園だった。───地下から現れた悪魔ならば、光に弱いというのが定説かとも思ったが、関係ないらしい。ゴルマデスは花畑を踏みにじり、大地に立った。


 世界の異変を何も知らぬまま逍遙していた貴婦人たちが、悲鳴を挙げて腰を抜かした。城内を警邏していた兵隊は、いったん武器を構え、しかしあまりの威容に、抵抗など無意味と悟って取り落とした。


 無駄に抗う者もむろんいた───いしゆみを持った兵隊が駆けつけ、庭園を囲む城壁の歩廊にずらりと並んで、号令一下、いっせいに矢を放った。だが、魔王の金属質の鱗には傷ひとつつかなかった。


 紙つぶてに対する魔王からの返礼は、無慈悲なものだった。飛鳥さんの顔が、ひひひ、と歪んでいた。


 彼女が手をふわっと水平に上げると、魔王の腕が前に突き出された。同時に、腕に絡まる触手の先端のしゃれこうべがいっせいに口をくわっと開き、それぞれが青白く光る炎の球を───いや、人魂、と表すべきだろう、ゆらゆら揺れる燐光の中にしゃれこうべが浮かび上がって見える、おぞましい何かを、大量に吐き出した。


 人魂は、逃げ惑う貴婦人に、駆けつけた警邏兵に、そして歩廊の兵隊たちに襲いかかり、次々と噛みついた。すると、生気を吸い取られるのか体液を失うのか、噛まれた人間はたちまち骨皮だけのしわしわの姿になって、地にバタリバタリと倒れるのだった。


 さらに加勢の兵が現れた。城の守備兵総出といった体だった。「ひるむなァ、撃て撃て!」と、隊長格らしき男が叫び、弓がだめならとばかりに、大砲の弾を、あるいは魔法の火の球を浴びせかけた。が、どれも同じことだった。魔王自身はむろん人魂にすら何のダメージも与えられず、死体を増やす結果にしかならなかった。


 歪んだ笑みのまま、飛鳥さんが軽くその場で一回転すると、こざかしい反抗は無に帰した。魔王の尾が風を切って振り回され、花畑の草花を、逃げ始めた守備兵を、そして帝城の城壁を、まとめて薙ぎ払った。


 花びらは無惨に舞い散り、兵は吹き飛ばされて血煙が立ちこめ、そして銅牆鉄壁どうしょうてっぺきを謳われた城壁も、ぐわらぐわらと音を立ててあっけなく崩れ落ちた。


 城壁が崩れゆくさなか、尖塔の掲揚台のポールが折れて、帝国旗が城外に舞い落ちていくのが僕の目に留まった。もはや誰にも顧みられず、逃げ惑う人々に踏みにじられ、やがて折しも発生した火災の中に飛び込んで燃え尽きるまでを、僕は見続けた。


 ───旗の意匠が気になって、どうしても目が離せなかったのだ。大きく描かれた盾の紋章に、一輪の花が描き込まれていた。それはアルガレイムでは一般的な、フェナリアの花だった───その花弁のかたちは、桜とよく似ていた。


 今の季節が何なのか、わからない。春かもしれないし、秋かもしれない。そもそも現実世界と同じような四季があるのかも、いま見えている範囲からははっきりとはわからない、が───僕が「春の桜」を疑問に思ったのは、もしかしてこうした光景をこれまでにも見たことがあったから、なのか?




 魔王が放った人魂どもは、崩れた城壁から、帝都の市街地へとあふれ出した───帝都はたちまち阿鼻叫喚のちまたと化した。


 人魂に食らわれる者はむろん大勢いたが、それ以上に、崩れた城壁の下敷きとなる者、取り乱して逃げ惑う者に踏みつけにされる子供、騒ぎに乗じて起きる略奪、それを防ごうと武器を振るう店主───帝都全土へ広がった、そんなパニックに巻き込まれて命を落とす者の方が、多いように見受けられた。


 ───飛鳥さんの足が地を蹴った。


 魔王ゴルマデスの姿もまた、コウモリの羽をはばたかせ、上空高くへ舞い上がる。人々が恐怖し、怯え、醜く争いいがみ合い、火の手と悲鳴で渦巻く市街を、遥か天へと立ち上る幾筋もの煙の間から、そして突き抜けるほど青く澄み切った空から、魔王ゴルマデスと飛鳥さんは醒めた目で見下ろした───いや、見下したというべきか。


 「こんなものか。……他愛もない。これじゃ、月並みなにしかならないな。無駄骨だったかなぁ」


 つまらなそうに。今起きていることが、まるでたいしたことのない、ごくありふれたできごとであるかのように。


 僕は呆然として尋ねた。


 「……これは、いったい」


 「あたしは魔王で、これが魔王の仕事だ、って言ったろ。そういうことさ」


 「なんで───? こんな、皆殺しみたいな、ひどいこと───。そりゃ、この世界はまるでゲームみたいだけど、この世界も現実なんだって、さっき言ってたじゃないか。だったら、みんな生きているんだろ? 名もなき人々の人生とか人権は無視? 殺して、いいわけが───」


 「殺していいわけないじゃん。悪事を働いてるんだよ、魔王なんだから」飛鳥さんはあっさりと言ってのけた。「でもね。現実世界にとっては、こうやって異世界で人が死ぬことが必要なんだ」


 彼女はこちらに向き直った。すると、同期してこちらを向いた魔王の竜の眼にぎろりとにらまれて、僕の体はすくみ上がりそうになった。


 「そうしなければ、いけないんだよ。それが世界のしくみってヤツさ」




 飛鳥さんは静かに語った───そうしている間も、外殻の魔王の巨体は、コウモリの翼をはためかせ、その揚力ではとうてい不可能な空中浮遊を続けながら、大地を睥睨し続けていた。


 「友納。魂の存在を、信じるかい? 魂は、一人に一つだと思っているだろう。違うんだ。生まれ落ちた瞬間は確かに一つの魂しか持っていないが、複数の魂が混ざり合ってはじめて、人間の精神は成り立つ。


 たとえるなら───ほら、物事は何でも多面的に見られるだろう。自分の立場、相手の立場、第三者の立場。自分の立場ばかり訴えて相手を慮れない人間は、劣っていると見なされる。違うかい。それと似た意味で、魂も複数持たなければ、まっとうに生きているとはいえないんだ。


 混ざり合う新たな魂の供給源が、異世界、なんだよ。ありとあらゆる異世界は、現実世界に魂を供給するためにあるんだ。


 異世界で人が死ぬと、肉体を抜け出た魂は現実世界にやってきて、人間の精神に入り込み、混ざり合う。そういうしくみなんだ。どうしてそうなっているのかは、あたしも知らない。昔からずっとそうなんだ。


 覚えているかい、。あんた、違和感を感じたろう。別の魂が混ざったんだ。そして、比喩でもなんでもなく、人が変わってしまった。不思議なことにね、そうなると、現実世界もまた矛盾が生じないように作り変えられてしまうんだよ。すべての人からそれ以前の記憶が消え、変わってしまった結果に基づく新たな記憶が植え付けられる。あの店員が以前どんな人だったのかは、もう誰にもわからないんだ。


 そして大事なのは、ただ安楽に死んだ魂には意味がないってことだ。そんな魂が新たに混ざったところで、人間も世界も変わらない。喜怒哀楽、希望と絶望、衝動と深慮、善でも悪でもいいから、情動を強く、激しく励起された魂こそが、人間を変える。人間が変われば、世界が変わる。変わる人間の数が多いほど、一面的でないカオスな思考があふれて、現実世界は進歩していく。


 その変化を導くために、邪悪に振る舞って感情をかき乱し波立たせながら、異世界の人間を殺していく存在。それが魔王だ。あたしの役目なんだ。


 ……あたしの他に、誰もそうとは知らない。なぜあたしに、魔王の役割が託されたのか、それもわからない。でも、あたしはこれが必要なことだと信じてるし、誇り高い仕事だと思ってる。どうやれば現実世界によりカオスがもたらされるか、いつだって考えながら破壊と殺戮にいそしんでいるんだよ」

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