シーン3 お祭り騒ぎの中にある日常

「14世紀にそんな眼鏡はないんじゃないかな」

 文化祭公演の演劇部楽屋となっている生物実験室で、倫堂学園高等部の演劇部員が一人、ぼそっとつぶやいたこの一言で、全てが始まった。

 そんな眼鏡、というのは、1時間後に迫った文化祭公演を前に、主役の菅藤冬彦がかけている黒縁の四角い眼鏡のことである。

 女子が着替える前に準備を超特急で進めようと、男子部員がキャスト・スタッフを問わず集まったのだが、そこは冬彦のこと。

 着替えのためにブラインドを下ろした特別棟の1階で、衣装を着ける前のメーキャップに最後までもたついていた。

 なぜなら、冬彦は近眼がひどい。

 黒縁の眼鏡は度が強く、これを外されるとほとんど何も見えないのだった。

 その場で小道具を運搬用の段ボールから出して点検している1年生の一人がアドバイスする。

「コンタクトにすればいいのに」

 確かに、コンタクトレンズという手もある。

 見かけは容貌の整った美少年であるから、眼鏡を外しても見栄えがすることだろう。

 だが、女子の衣装をそこいらの棚にハンガーでかけている2年生男子が冷ややかに言った。

「落としたら、探すの俺たちだぜ」

 その指摘は当たっている。

 平日の朝は義理の妹が全力疾走で弁当を届けなければならないような粗忽者である。

 落としたり割ったりなくしたり、その度に(物理的にも精神的にも)周囲が見えなくなる。

 探したり、探してもらったり、周りが見えないのに無理に歩き回ってあちこちに頭をぶつけたり。

 問題となっている張本人が自虐的につぶやく。

「トラブルの種を自ら撒くようなもんですから」

「お前が言うな」

 少年たちの一人が悪態をつく。

 その通り。

 そんな自己管理が強いられるものを与えておくことはないのだ。

 だから、冬彦本人も家族も、コンタクトレンズが必要だとは口にしない。

 かくして、近視が進んだ中学生時代から、ごつい黒縁の眼鏡が愛用されることとなったわけである。

 冬彦は淡々と反論する。

「だって、眼鏡外せって指示もありませんし」

「だけどな」

 誰かが言ったところで「おい」という別の誰かの囁きが続きを遮った。

 ひそひそと良からぬ相談が始まるのを、冬彦は聞いてもいないようだった。

 手提げのついた化粧道具入れから出したクレンジングクリームの瓶を掴んで、固い蓋を開けようと踏ん張っている。

 

 さて、冬彦が主演する『走れ! ジョン』はシェイクスピア『ロミオとジュリエット』を下敷きにしている。

 どちらも、作品の舞台は14世紀のヴェローナである。

 14世紀というのがどういう時代であったのかといえば。

 それまでの時代はというと、神の教えを信じていれば万事丸く収まった。

 学校に校則が生まれるのと同じ理由である。

 校則があれば違反も生まれるのは当然のことで……。

 この楽屋でもそれが起こった。

 一人の部員が咎めると、たちまち部内の抗争が始まる。

「あ、お前スマホ触んなよ」

「メール入ったんだよ」

「電源も入れるなって」

 何事も起こらぬように、生徒にさせたくないことを予め罰則付きで決めておくわけである。

 だが、「それじゃあ納得いかないことがたくさんある」という情熱と衝動にかられた人々が現れた。

 ルネサンスの時代である。

 ヴェローナ(ベネチア)はその中心地の一つだった。

 まさにその地で相争う家の少年と少女が「お互いをもっと深く知りたい」という気持ちが高じて分別ある大人を散々に振り回し、真っ赤に燃える若い命を露と散らしたわけであるが……。

 冬彦が演ずるのは、その振り回された大人の一人である。

 もっとも。

 振り回されていた方が万事丸く収まったかもしれない。

 

 そんなキーマンなんだか脇役なんだかよく分からない主役を演ずるために、冬彦は楽屋の鏡に向かっている。

 といっても、正確には高等部の実習棟にある生物実験室の大きな長机に、スタンド付きの小さな鏡をいくつも据え付けただけのものだ。

 それぞれの鏡の下には、各キャスト用にメーキャップ用の似顔絵が置いてある。

 鼻やら頬やら額やらに書かれた番号とアルファベットは、メーキャップに使うグリースペイント(いわゆるドーラン)の色を示すものだ。

 このドーランを塗り伸ばすのに使った手や、メイク落としのクレンジングクリームがついた顔を洗うのに、目の目に蛇口と流しのある生物実験室は便利であった。

 円い回転椅子に掛けた下半身は僧衣とおぼしきものをまとっているが、上半身はフレンチスリーブのシャツ一枚である。

 これは、ドーランで衣装を汚さないためである。

 僧衣っぽく見せるためのポンチョみたいなものは、実はマジックテープで留められるようになっていた。

 冬彦は眼鏡を外した。

 別に「時代考証に合わない」との指摘を受けたからではない。

 メーキャップの邪魔だからである。

 その手順の最初として、両掌で包めるくらい大きいクレンジングクリームの容器に手を伸ばす。

 先に顔に塗っておくと、終演後にドーランを落としやすいからである。

 もっとも、デメリットはある。

 汗でドーランが流れ落ちやすくなり、目に入って痛い思いをすることがあるのだ。

 これはべっとりと顔に塗ったところで、ティッシュで拭き取らねばならない。

 だが、そこは近眼の冬彦のこと、目の前にあるティッシュ箱を取るのさえも難儀する。

 冬彦の手が机の上を二度、三度さまよったところで、部員の一人が手渡してやった。

「お前ホントに眼鏡外すと何も見えないのな」

 呆れたようにぼやく声に、冬彦は泣いているようにも見える情けない笑顔を見せて頼んだ。

「そうなんです、人の顔も分かんないんです。なんとか、装置の位置は分かるんですが」

 あっぶねえな、という非難に、冬彦は困り果てる。

「困りました、眼鏡がダメだなんて指示、部長の演出では無かったもので」

 おまえが忘れてるだけだろ、と別の声が突っ込んだ。

「すみません、そこは確認しますんで……21P塗ってください」

 色の識別はおろかドーランのある場所さえ分からない冬彦が頼んだのは、地塗り(肌色のメーキャップ)用のドーランだった。

 だが、渡された薄いパッケージの色は4(ホワイト)だった。

 塗りたくられた色は、冬彦の顔を納涼オバケ屋敷の幽霊かと思うほどに真っ白にする。

「24Pお願いします」

 両頬に塗られたのは5B(赤)だった。

 紅白のめでたい頭をした巨大なコケシが、神妙な顔をして鏡に向かっている。

 声を殺しながらメーキャップ用のスポンジで冬彦の顔を撫でていた男子部員が、こらえきれずに大笑いを始めた。

 周囲にいた作業中の部員たちも、わざわざ手を止めて冬彦の周りを取り囲み、どっと笑った。

 ほとんど前が見えない近眼の目をしょぼつかせながら、冬彦はあたりをきょろきょろ見まわす。

 やがて事態が呑み込めたのか、周囲に合わせて笑い出したが、その声は力なく乾いていた。

 抵抗できない相手をからかうのに各々が飽きて辺りが静まり返ったところで、ようやく冬彦は頼むことができた。

「あの、すみません、時間がないのでメーキャップをすぐ……」

 急いでクレンジングクリームを顔に塗りたくり、ティッシュで拭き取る。

 机伝いに流しへとひょこひょこ歩いて、顔を洗う。

 押し殺した笑い声と共に、その場にいる全員がこっそり部屋を出て行こうとする。

 冬彦は、椅子に戻って顔をタオルで拭きながら、情けなく力の抜けた声で言った。

「ひとりでやりますけど、開演遅れますよ」

 舞台を大事にしましょうよ、と似顔絵の色指定を指で叩いて示す。

「悪かったよ」 

 一人が戻ってきて丁寧にメーキャップを施し、やがてその場をいそいそと去った。

 部屋の引き戸がカラカラと鳴って閉ざされる。

 そこに残されたのは、白地に赤や青で目鼻を派手に隈取った、サーカスのピエロが座っていた。

 確かにジョン修道士は道化役だが、いくらなんでも目立ちすぎる。

 背後で動くロミオやジュリエット(すなわち亜矢)たちの芝居が霞んでしまう。

 それでは、三年生引退公演の意味がない。

 メーキャップのいたずらに気づいていないのか、冬彦はクレンジングクリームを再び手に取ることもしない。

 手を膝に置き、背筋をまっすぐ伸ばして椅子に座ったまま、ぴくりとも動かない。

 だが、彼一人しかいない部屋の引き戸が再びカラカラと音を立てて開いたとき、冬彦は情けない声を出した。「勘弁してくださいよ、もう」

 返事はなかった。

 無言で入ってきた長身の若者は、逞しい手で手早くクレンジングクリームの蓋を開けた。

 冬彦の顔にべっとりと塗りながら、ひとり吐き捨てる。

「あいつら悪ふざけが過ぎる」

 立ったりしゃがんだり、出て行った部員とは比べ物にならない速さで、指定された色が顔の上に置かれていく。

 顔全体の24P(薄い肌色)、頬や鼻筋の21P(こげ茶に近い肌色)、目の周りの1番(黒)……。

 色の生白い、頬のこけた彫りの深い修道士の顔に眼鏡をかかる。

 だが、それは役者自らの手で外された。

 きょとんとして目を見開いた若者は、くぐもった声で言う。

「それないと見えないだろ」

「時代考証に合わないので」

 冬彦がそう断ると、メーキャップに手慣れた若者はきっぱりと言い切った。

「それは演出が決めることだ」

 眼鏡をかけようとしたては振り払われた。

「もういいんです」 

 頑なにうつむく冬彦を若者はなだめる。

「眼鏡なしじゃ舞台装置も上がり框(舞台の客席側の端)も見えないだろ」

「そのときはフォローしてもらえるって、信じてますから」

「危険だって言ってるんだよ!」

 意地を張る冬彦を怒鳴りつける若者の顔を見もしないで(どのみち見えはしないのだが)、冬彦は冷ややかに反論した。

「僕に何かあったら、舞台どころか部活もおしまいじゃないんですか」

 若者は天を仰ぐ。

「性格悪いな、君」

「脅してるんじゃありません。信じてますから」

 深く息をつく冬彦に、若者は呆れたように言った。

「あいつらの何を」

 冬彦は、ふっと笑った。

「信じてないんですか」

「いや……」

 言葉に詰まる若者を、急にハイトーンになった声が追い詰める。

「でしょう? みんな、なんだかんだ言って舞台が好きなんです」

 だが、若者はまじめな顔で逆襲した。

「君は?」

「もちろん」

 しれっと受け流す冬彦の前に、若者は傍らの椅子を引き寄せて座った。

 説教を始める。

「だったら舞台を大事にしろ。一つのことにこだわるのはいい。でも、こんなことは」

「性分ですから」

 目を合わせずに(合わせても相手の顔は分からないのだが)口答えをする冬彦に、若者はぼやく。

「友達、いないんじゃないか」

「ほとんど」

 こたえるなり、冬彦は明らかに場違いな笑顔を見せた。

 若者はいささかムキになる。

「じゃあ、数少ない友達を大事にしろ」

 そこで初めて、冬彦は力なく言った。

「こっち来てから、疎遠になっちゃって」

 こっちというのは「高等部」という意味であるが、これは倫堂学園の生徒なら暗黙の了解となっている。

「……分かるよ」

 皮肉のこもったコメントに、冬彦も皮肉っぽく返した。

「やっぱり」

 だが、そこで若者が抑えていた怒りは頂点に達したようだった。

「いい加減にしろ! 君を見てるといらいらする。バカにされてるっての分かるだろ? 」

「あなたも?」

 再び冷ややかに返した冬彦に、若者はバネで弾かれたように立ち上がって、頭からどなりつけた。

「ああ、バカにしてるよ!」

「やっぱり」

 暖簾に腕押しというか糠に釘というのか、冬彦は全く応えない。

 若者もさすがに疲れたようだった。

「分かってたんだろ」

「ええ、バカですから」

 その自虐が許せなかったのか、若者は冬彦の肩を掴んで揺さぶった。

「バカじゃないよ! 何ヘラヘラヘラヘラ笑ってんだ! 闘えよ!」

「嫌いなんです、喧嘩するの」

 首をガクガクやられながら、そう言う冬彦は抵抗もしない。

 若者は手を止めて顔を寄せた。

「喧嘩しないと守れないものもあるんだ!」

「僕は人を守れるほど強くありませんから」

 顔を背ける冬彦を、若者は突き放した。

「勝手にしろ!」

 冬彦は、何事もなかったかのように尋ねた。

「ところで、誰ですか? もう、みんな袖に行っちゃったんじゃ……」 

 若者は答えず、部屋の戸をカラカラと閉めて出て行った。

 座ったまま、ふたたび一人で取り残された冬彦は肩を落とし、じっと動かないでいる。

 うつむいたその目からは、とめどなく涙がこぼれていた。

「母さん……」

 手提げつきの化粧道具入れがいつの間にかなくなっていたが、眼鏡を外したままでは気づくこともできなかったのであろう。

 その手提げは、しばらく経ってから戻ってきた。

 持ってきたのは、すらりとした少年である。

 模擬店で買ったのであろう、オペラ座の怪人「ファントム」とおぼしきマスクをしている。

 音もなく開けた扉の傍にそっと化粧道具入れを置いて立ち去ろうとしたが、机に顔を伏せて肩を震わせている冬彦を見て立ち止まった。

 音もなく扉を閉めて、その場でなにやら小細工を始める。

 ポケットの中から出したのは、模擬店の駄菓子屋かなんかで買ったらしい風船である。

 これを二つ膨らませて胸の辺りに入れると、静かに冬彦の背後に歩み寄った。

 震える肩にかけた手は、鋭い拒絶の言葉で引っ込められる。

「触るな!」

「ごめん……お邪魔していいかな?」

 その声は、あろうことか冬彦が恋い焦がれる葛城亜矢センパイのものであった。

 冬彦は、ティッシュで顔を拭いて向き直る。

「どうぞ」

 せっかくのメーキャップが、また乱されている。

 勧められた椅子に座った少年は、亜矢の声でためらいがちに尋ねた。

「泣いてるの?」

「いいえ」

 だが、涙声はごまかしようがなかった。

「嘘」

 亜矢の声が、からかうようにたしなめる。

 冬彦は、正直に認めた。

「泣いてます」

「……つらかったでしょうね」

 言葉が省かれたのは、少年も事情を察しているからか。

 だが、冬彦はこの日までの思いを笑顔で口にした。

「楽しかった」

 それは、パリスの剣を浴びて、机の上から真っ逆さまに転落しそうになったことも含む。

 少年は、亜矢の声で叱った。

「大怪我するところだったのよ」

 それでも冬彦は明るく礼を言った。

「助けてくださってありがとうございます」

「やられっぱなしでいいの?」

 亜矢の声は、いささか腹立たしげである。

 だが、冬彦は気に留める様子もない。

「そういうキャラですから」

「それは、人から与えられたあなたでしょう?」

 先輩面して上からものを言う口調に、拗ねたような答えが返ってきた。

「本当の僕なんかもう、いません」

「じゃあ、いつまでならいたの?」

 売り言葉に買い言葉とはこのことで、間髪入れずに詰問される。

 だが、冬彦は一拍の間も置かずに切り返した。

「母がガンで逝くまで」

 しばし言葉もなかったのであろう、亜矢の声は深い溜息の後、穏やかに問うた。

「……あなた、どんな子だったの?」

 そこには、同情と憐みと、いささかの疲れがあった。

 一方、答える冬彦の声には、ある種の諦めがあった。

「今とおんなじです。でも、もっと怒ったり泣いたり、忙しかった」

 冬彦が力なく笑う。

 ふふ、と亜矢の声も力なく笑った。

「叱られたでしょう」

 ええ、と答えた冬彦は、子どものように目を輝かせて答えた。

「母も一緒に騒いでましたから」

 無論、目の前にいるのが誰かは分かりはしなかっただろうが、いろんな意味でここまで近づくと、さすがに目を細めてじっと見つめないではいられないだろう。

 当然、不審な点に気づくことはある。

「あれ……あなた」

 そう尋ねる冬彦を、亜矢の声をしたオペラ座の怪人は、いきなり抱きしめた。

 膨らんだ胸が、押さえつけられて歪む。

 ごほっとむせた冬彦がもがくと、互いの胸にかかる圧力も限界に達する。

 高らかな破裂音が、生物実験室の冷たく光る床に響き渡った。

 呆然とする冬彦を残して、オペラ座の怪人はぺしゃんこになった胸を抱えて、その場から消えた。

 化粧道具入れが置かれた辺りにある引き戸が音もなく閉まる。

 やがて、部屋の中には乾いた笑いがこだました。

「やられたあ……」

 天井を仰ぐ冬彦の目から流れた涙で、シャツには幾筋もの汚れが茶色い線を残した。

  その数分後、各クラスの模擬店が軒を並べる学園敷地の一画。

 休憩スペースとして開放された職員駐車場で、先ほど楽屋すなわち生物実験室から大挙して出て行った演劇部員たちが談笑していた。

 制服のエンブレムの色からすると、2年生が2人、1年生が3人である。

「フユヒコどうすると思う?」

 模擬店で買ったリンゴ飴を食べ切って、それを文化祭用に設置された臨時ゴミ箱の「燃えないゴミ」にちゃんと分別して放り込んだ2年生が、にやにや笑いながら後輩に聞いた。

「さあ……あれまずいっすよ先輩」

 そういう1年生の顔も笑っている。

 だが、もう1人の後輩は気まずそうだった。

「見に行ってやった方がいいんじゃないですか?」

 そこへ、他の2年生が同意する。

「あいつはともかく、亜矢センパイの最後の舞台なんだからさ」

 だが、最初に口を開いた2年生は言い返す。

「部長が何とかするだろ」

 それを聞いていた1年生のひとりが「さっき放送で呼ばれてましたよ」と報告したが、「開演が押すようなことはしないさ」と再び言い返された。

 なあ、と同意を求められたもう1人の2年生は「ああ」とあいまいに答えて聞き返した。

「集合まであと何分?」

「30分ぐらい」

 そろそろ、と一同が重い腰を上げたところで、1人の中等部生徒が、手提げ袋を持ってやってきた。

 いくつもあるうちの1つを取り出して、演劇部員たちに差し出した。

「先輩がた、どうぞ」

 そのセンパイがたは、互いに顔を見合わせる。

 誰一人としてこの中等部生徒と面識がないらしい。

 さっきリンゴ飴を食べていた2年生が尋ねた。

「なにこれ?」

「シナモンドーナツです」

 1年生たちは単純に喜んだが、もう1人の2年生が怪訝そうに尋ねた。

「見たらわかるよ。なんで俺たちに?」

 もっともな答えがあっさり返ってきた。

「OBからの差し入れです」

 袋から出された箱の蓋が開けられると、歓声と共に高等部生徒たちの手が伸ばされた。

 誰一人、きっかり人数分あるドーナツを不審に思う様子はない。

 箱の底には、戦場ジオラマでもつくるのかというほど敷き詰められた茶色い粉が積もっている。

 5つの手が1つずつドーナツを掴んだとき、突然、中等部の生徒が叫んだ。

「失礼します」

 その瞬間。

 大きなくしゃみと共に、高等部の生徒たちの掴んだドーナツが次々に破裂した。

 辺り一面、大量のシナモンパウダーが舞い散り、茶色の霧となって漂った。

 熱帯にあるクスノキ科の常緑樹その樹皮から作られる甘みのあるスパイスだが、当然辛みもある。

 確かに「シナモン」と横文字で言えば洒落た感じがするが、漢字で書けば「肉桂」である。

 漢方でも薬として使われるものだ。

 薬は多用すれば毒にもなるのだから、これが至近距離で目や鼻に入ったのではたまらない。

 ドーナツを手に、各々が顔をしかめてむせかえった。

 シナモンの煙の中、その顔面に、クリームパイが次々に叩きつけられた。

 モンティ・パイソンのコントばりに、ぶるしゅるという音を立てて泡が飛び散る。

 その泡がかかった制服の表にはストリングスプレーがたっぷりとかけられた。

 まるで、人間の大きさをした出来損ないのケーキがずらりと並んでいるかのようである。

 その背中はと見れば、「私はサル」「たっぷりなめて」といったステッカーが貼りつけられていた。

 倫堂学園文化祭サプライズ・パーティは最後の仕上げに入る。

 茶色の霧が晴れると、目を固くつむった高等部の生徒5人は、一人残らず蹴たぐり倒された。

 音だけで煙の出ないクラッカーが高らかに鳴り渡る。

 それを聞いて、模擬店の客がなんだなんだと大挙してやってきた。

 彼らが駐車場で見たのは、、げほげほやりながらアスファルトの上に立ち上がった少年たちである。

 余りにもみっともない姿に、どっと哄笑が上がった。

 5人はしばし呆然としていたが、そこは伝統ある倫堂学園高等部の演劇部員である。

 既に1年生とも2年生ともつかない姿で、大騒ぎを始めた。


「兄上!」

「おお、そこにいるのはパイ之介ではないか!」

「お懐かしゅうございます!」

 2人が久闊を叙すると、それを妨げる悪党が現れた。

「残念だったなパイ之丞、兄弟の再会もそこまでだ」

 パイ之介が誰何の声を上げる。

「何者だ!」 

「貴様等に名乗る名などない!」

 どこかのロボットアニメで聞いたセリフを吐いて振り向いた背中には、「私はサル」と貼ってある。

「サルだそうです兄上」

「ウッキー! って違うわ!」

 ノリツッコミと共に振り向いた悪党を、パイ之丞は知っているようだった。

「久しぶりだなパイ太郎」

「うるさい! その名で呼ぶな!」

 パイ太郎は名前にコンプレックスがあったらしい。

 そこへパイまみれになった他の1人が駆け付けた。

「パイ太郎様!」

「その名で呼ぶなというに、おパイ」

 いきなり情けない声を出した悪党パイ太郎、恋人がいたようである。

 崩れた表情を繕うや、キッと兄妹に向き直る

「わが父を殺したパイ之進が一族、あ、皆殺しにしてくれるわ!」

 大見得を切った目の前に、パイ之丞が立ちはだかる。

「父の名を汚す不届き者、この場で成敗いたす!」

「兄上!」

「手を出すなパイ之介、こ奴は私が片づける」

 パイまみれの2人の決闘が始まった。

 といっても丸腰のパイ男たち、どうやって戦う気か。

 だが、そこへおパイが立ちはだかった。

「いけませんわパイ太郎様」

「だからその名前で」

「この方たちはお父様の敵ではありません!」

「何! おパイよ、それでは真の仇はどこに……」

 そこへ高らかなイヤし笑いが響き渡った。

「オーッホホホ、オーッホホホ、バレちゃあ仕方がないわ」

 腰を振って現れたパイまみれは、片手の甲を顔の反対側に押し当てる。 

 ステレオタイプのオカマポーズだ。

 パイ之介が再び誰何する。

「何者だ!」

 オカマは腰を振り振り名乗りを上げる。

「アタクシこそは暗黒パイ魔神パイドロリン女王ですことよオーッホホホ」

 パイ之介は怒りに震えて襲い掛かる。

「名前長いから略させてもらうぞパイ女王!」

「ああら、あなたとっても可愛いわ」

 パイ之介は美形だったらしい。

 何をどうしたのか、パイ女王の手招きでくるくる回って引き寄せられる。

「ちょっとなめてもいいかしら」

「やめてください」

「だって背中に」

 たっぷりなめて、と書いてある。

「兄上!」

「パイ之介えええ!」

「やめんか貴様らあああ!」

 ストーリーの流れを完全に無視して乗り込んできたのは、真っ赤なジャージ姿を着て校内を巡回していた、生徒指導部の女性教員だった。

 手に持った競馬新聞を丸めて、5人の頭を続けざまにしばき上げる。

 パイ太郎が弁解する。

「すみません先生、まだパイ太郎の決め台詞が」

「まだ言うか!」

 一喝されて、パイまみれで騒いでいた問題児たちが5つの頭を一斉に下げる。

 小芝居の中断で文化祭の客たちがぞろぞろ帰る中、生徒指導部に連行された演劇部員たちは、顧問が頭を下げ続ける前で、悪ふざけにもほどがあるとたっぷり説教を食らった。

 中等部の生徒がどうのこうの言っても、信じてはもらえない。

 そもそも、ドーナツが破裂するなどということ自体があり得ない。

 言い分が通らなくても、倫堂学園の先生方が頑固なわけでは決してない。

 仮に事情を詳しく調べたとしても、かえってこの「小芝居」は事前に仕組まれものであると疑われただろう。

 なぜなら、使われたものは全て、文化祭で揃うものだった。

 シナモンドーナツは模擬店の屋台で売っていた。

 クリームパイはストリングプレー同様のパーティグッズで、教室内のイベントに準備されていたもの。

 ステッカーは模擬店の射的屋台で取れる残念賞だった。

 煙の出ないクラッカーは、ステージのクラス発表で大量に持ち込まれたもの……。

 さて、生物実験室から演劇部員たちが出てきてから、中等部の生徒が現れるでまで十数分しか経っていない。

 その間にこれらをかき集め、なおかつドーナツを買って怪我をしない程度の仕掛けをしたのは何者か。

 倫堂学園内に、冬彦のためにそんな復讐を実行できる者は一人しかいない。

 結果として彼を傷つけてしまったことに気が咎めたのであろう。

 その名は、白堂玉三郎(自称:獣志郎)という。

 

 そんなドタバタが文字通り「演じられていた」頃。

 1人の女子生徒が、生物実験室へやってきた。

 机に突っ伏した男子生徒を無視して制服を脱ぎ捨てる。

 紫色の下着一枚の曲線豊かな肢体が惜しげもなく晒された……かと思うと。

 そこには瞬く間に、布を縫い合わせただけの簡素なジュリエットの衣装をまとった黒髪の少女の姿があった。

 葛城亜矢である。

「菅藤君……」

 冬彦は机に伏したまま答えた。

「今度は何ですか?」

「今度?」

 亜矢は眉をひそめて問い返した。

 抑揚のない声は、それには応じなかった。

「その手には乗りませんよ」

 きょとんとして歩み寄った亜矢は、一方的な非難を加えてくる冬彦の隣に座り、曖昧な笑顔で釈明した。

「私、何も……」

「卑怯だとは思いませんか」

 突き放す口調は冷たい。

 いつもの亜矢に対する、おどおどと照れる冬彦のものではなかった。

 年上の美少女の顔から、笑顔が消えた。

 一瞬溜めた低い声で、非を認める。

「……そうね」

 冬彦は更に畳みかけた。

「僕が何にも知らないとでも思ってたんですか?」

「何を?」

 ゆっくりと問い返す声には、隙を見せるまいとする張りつめた響きがあった。

 冬彦の声は、震えながら抗議の言葉を続ける。

「いつも顔は笑っているくせに、本当は僕の不器用さを見下してたんでしょう? 知ってます、みんなそうだって」

 亜矢は豊かな胸の前で腕を組んだ。

 机に伏したままの冬彦を、文字通り「見下ろす」と、不敵に微笑した。

「……分かってるんじゃない」 

「でも、僕は負けません」

 強く言い切る冬彦に、ふうん、と相槌が返された。

 その興味深げな声の問いに、冬彦は間を置かずに答えを返した。

「勝つ自信はあるの?」

「勝ち負けだけが闘いじゃありません」

「勝ち負けのない闘いって、どんなの?」

「負けることを恐れない闘いです」

 亜矢はため息と共に感想を漏らした。

「私には分からない世界ね」

 そこで冬彦は顔を上げた。

 近眼でぼやけた視界でも、ジュリエットの衣装の輪郭くらいは分かるはずだが、さっきの風船の一件がある。

 容易には亜矢本人とは信じられまい。

 まっすぐに顔を向けて言い切ることができたのも、そのせいだろう。

「負けても、それがどうしたって、笑ってればいいんです」

 亜矢も、真剣なまなざしで見つめ返す。

「勝ったヤツはあなたを笑ってるでしょうね」

 冬彦の口元に、笑みが浮かんだ。

「本当の負けは、心が折れたときですから」

 亜矢は、窓のある方に目をやった。

 ブラインドの向こうを見ようとでもするかのように、遠い目をする。

 その唇から、皮肉が漏れた。

「幸せね」

「働くしか取柄のない父と、学ぶしか取柄のない僕を受け入れてくれた母と妹が、それを教えてくれました」

 いつになくはっきりと答える冬彦の方へ、亜矢は流し目と共に微かに首を傾げて言った。

「じゃあ、私も教えてあげる」

「何を?」

 そのまなざしを受けて細められた目には、不信の色が浮かんでいた。

 亜矢は天井を仰いで嘲笑った。

「あなたは、この世で最低の男」

 それを(たとえぼんやりとした視界ではあっても)唇を一文字に見つめる冬彦から目をそらしたまま、亜矢は中傷の言葉を放ち続けた。

 それが、まるで急な放物線を描いて天井から降ってくる刃であるかのように。

「意地も見栄もない、開き直ってるヤツに女が興味を持つかしら?」

 膝の上に置かれた冬彦の手が震える。

 しかし、その顔は無理に笑おうとして歪んでいた。

 亜矢はとどめの一言をまっすぐ上に向けて発する。

「憐みと愛を一緒にしないで」

 冬彦の満面が朱に染まる。

 だが、その瞬間、黒髪の少女は貧弱な身体をした長身の少年を抱きしめた。

 その胸に冬彦の顔を埋めて、耳元で囁く。

「ついてきなさい。待ってるから」

 目を見開いてぽかんと口を開けたままの冬彦を椅子に残して、ジュリエット姿の亜矢は音もなく消えた。

 生物準備室の扉が動いたかどうかも分からない。

 ラベンダーの香りが漂う中で放心状態になっていた冬彦が我に返ったのは、部長が駆け込んできたときである。

「なんて顔してるんだ! 開演30分前集合って言ったろうが!」

 引き戸まで駆け戻って、「ちょっと待っててくれ」と叫ぶ。

 女子部員のブーイングが、外の廊下に反響した。

 部長は再び冬彦の傍まで戻ってきたかと思うと、何やらきょろきょろ探す。

 やがて、なぜか扉のそばにあった化粧道具箱を手に提げていそいそと戻ってきた

 ドーランとスポンジを出して手早くメーキャップを直し、まだ部屋の隅っこにかけてあったポンチョ持ってきて着せた。

 最後に、机の上に置かれたままだった黒縁の眼鏡をつきつける。

「ほら、かけろ!」

「14世紀にこんな眼鏡は……」

 顔をしかめて眠たそうに答える冬彦の髪をもう一方の手で掴んでワシワシやりながら叱りつける。

「だからお前は頭が固いんだ! そういう発想をほぐすのがこの芝居なんだよ!」

「でも、こんなのウソです」

 しつこい愚図りを、部長の強い声が断ち切る。

「ウソだって分かってて見るのが芝居だ」

 冬彦の肩を叩いて励ます。

「信じろ、お客様の想像力を!」

 ほら、と再び差し出された眼鏡を、冬彦は受け取った。

 明らかに時代考証に合っていないが、よく似合う眼鏡がジョン修道士の鼻の上に載せられる。

 

 なだれ込んでくる女子部員と入れ替わりに生物実験室を出た冬彦は、部長と共に体育館へ向かった。

 そろそろ模擬店の撤収が始まったらしく、コンロだの風船釣りのビニールプールだのを片づける生徒たちがお互いに掛け合う声が聞こえてくる。

 ステージに着くまで、部長も冬彦も何一つ話すことはなかった。

 体育館の中には、ちらほらと客が入り始めている。

 客席の向こうにある音響効果および照明席へ部長が走っていったところで、冬彦は舞台袖に入った。

 そこには、もう亜矢が待機している。

 冬彦はおずおずと話しかけようとしたが、スポットライトの振りを見つめている亜矢は振り向きもしなかった。

 やがて、衣装を着けた女子部員たちがやってきて、冬彦は二人きりで亜矢と話す機会を失った。

 冬彦が満員になった客席をそっと覗くと、その真ん中あたりには夏の白いセーラー服を着た瑞希が座っている。

 そこでようやく本番前の緊張感を覚えたのか、ごくりと喉を鳴らして唾を呑み込む。

 音響効果担当による着席のアナウンスの中、今更ながら亜矢ににじり寄った冬彦は、ぼそぼそと囁いた。

「あの……さっきは……」

 出番を待つジュリエットは、ステージを見たままジョン修道士を突っぱねる。

「私語厳禁。3年の最後の晴れ舞台よ」

「すみません……」

 小さくなる冬彦の横を、兄弟子役の部員がすり抜けて舞台の中に入る。

 亜矢は主役が縮み上がっているのがもどかしいとでも言うように、その背中を強く押した。

「部長に言いなさい、面倒見てもらったんだから」

 よろけながら振り向くと、亜矢が冷たいまなざしで見つめている。

 その唇が微かに動いて、こんな囁きが聞こえた。

「恩も義理もない男は、私、大っ嫌い」

 その衣装の胸の辺りには、24Pのメーキャップがうっすらとついている。

 まるで、自分でヨゴシをかけたかのように。

 冬彦は、舞台への一歩を大きく踏み出した。

 まだ、上演を予告するベル(1ベル)は鳴っていない。

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