シーン2 幸せの「ぬるい方程式」
冬彦が帰宅すると、一葉はまだ帰っていなかった。
いちど脱いだ私服を再び着た瑞希は、カウチに寝そべったまま口も利かない。
ふて腐れる妹の機嫌が直るのを待たず、食卓用のテーブルに着いた冬彦は、その日の顛末を語って聞かせた。
「つまるところ、方程式なんだ」
「方程式?」
けだるそうに瑞希は聞き返す。
「劇中人物の行動は、目的と、それに反する状況の関数だってことさ」
「よく分かんない」
そう言いながらも、瑞希は身体を起こしてカウチの背もたれの向こうから顔を覗かせた。
冬彦は眼を閉じて微かに唸っていたが、やがて自分の膝をぴしゃりと打つなり、講釈師のように滑らかに語り始める。
「まず、ジョン修道士はロレンス神父の手紙をロミオに届けたい。これが目的」
目的、とおうむ返しにつぶやいて、瑞希は眉根を寄せる。
だが、妹の反応など放っておいて、冬彦は話を続けた。
「だけど、兄弟子は見つからない。だから探す。これが行動」
瑞希は再び最後の一言を繰り返すが、目の焦点は合っていない。
「一軒家に閉じ込められる。だから脱出しようとする。これも行動」
いかにも分かったかのように大仰にうなずく瑞希。
ほぼ100%理解できない話であることは、焦点の定まらない目を見ればたいてい誰でもわかる。
もっとも、その目をまっすぐに見つめて話し続ける冬彦は別だが。
「そう考えると、何をしたらいいか、すぐに分かるようになった」
昨日はありがと、と微笑む兄から、瑞希はそそくさと顔をそむけた。
「別に、お礼言われるようなこと」
そう言いながらも、横目で兄を見るその表情は「もっとほめて」と言っている。
「あの練習、そういうことだったんだね」
冬彦の言うのは「
恐るべし、
「それで?」
瑞希はさいぜんのけだるそうな態度とは打って変わって、背もたれから身を乗り出さんばかりにして尋ねた。
自分が教えたのが何かは言えないが、その効果は忍術使いの一人としては是が非でも知りたいところであろう。
だが、冬彦は一言で答えただけだった。
「それだけ」
肩すかしを食らってきょとんとする妹に、淡々と話す。
「いや、理屈じゃわかるんだけどさ、身体がね」
瑞希は再びカウチに沈む。
「思ったようには動かなかったわけね」
不機嫌なことは、声の低さで分かる。
冬彦は弾かれたように立ち上がって、寝そべる瑞希の前に屈みこんだ。
「それで良かったんだよ」
な~んで~、と語尾を下げて問い返す瑞希は再び、兄から顔を背ける。
冬彦はすっくりと立ち上がって妹を見下ろした。
「大爆笑だった」
兄を見つめ返して、瑞希はからかうように言った。
「笑わせることと、笑われることは違うんじゃなかったの?」
それは、兄を絶望のどん底に叩き落した亜矢の一言であった。
だが、冬彦はけろりとしたものである。
「笑わせたんだ、今日は」
瑞希はくすくす笑いながら跳ね起きた。
「何で分かるのよ」
その隣に座って、冬彦は妹の笑顔を間近に見つめた。
「僕が楽しかった」
その視線から逃れるように「そう」とだけ答えて立ち上がった瑞希の声は明るい。
冬彦は、その小さく細い背中に向かって満面の笑顔を向けて、とっておきの報告をした。
「それでさ、葛城先輩が好きだって言ってくれたんだ」
「え?」
振り向いた瑞希がぽかんと開けた口は、声にこそ出さないが、「展開速すぎでしょ」と言っている。
その顔を見て、冬彦は口ごもった。誤解を招く発言だと気付いたらしい。
目を閉じて深呼吸したのち、ゆっくりと言葉を選びながら説明を始めた。
「ええと、先輩が、駆け寄ってきたんだ。あ、稽古の後だよ、それで……」
「前置きいいから結論」
上から目線で冷たく言い放つ瑞希に、兄の答えはますますまどろっこしいものになった。
「凄いわ、土日だけでそんな、って」
「発言そのままコピーしなくていいから要約」
冬彦はますます言葉に詰まる。
「私、好きよって」
「それだけ?」
肝心なところを低い声で問いただす瑞希に、兄の最後の一言はぼそぼそとして聞こえづらいものになった。
「……私、好きよ! そういう努力……!」
瑞希は深い溜息をついた。
それで分かったという、安堵とも落胆ともつかない意味合いが伴っていた。
そこで、冬彦には可愛らしいインストラクターからの最後の質問が投げかけれれる。
「ねえ、どうしてそこまでムキになれるの?」
そこまで不器用なのに、とまでは言わない。
呆れかえったその顔を見れば分かるのだが、生憎と冬彦は遠い目をしていた。
葛城亜矢のためだということはハナから分かっていたことだが、義理の兄の口からは、かつて瑞希も聞いたことがある一言が聞こえた。
「お客さんのためさ」
瑞希の目が見開かれる。
きょとんとして、冬彦が見つめ返す。
しばしの沈黙が、向かいあった血のつながらない兄妹の間に流れる。
やがて、瑞希はぷいとそっぽを向いた。
最終ラウンドを終えたボクサーの如くカウチに浅く腰かけ、最後のジャッジを待つ冬彦に、力ない声で冷ややかな皮肉が向けられる。
「努力が好きっていうのと、お兄ちゃんが好きっていうのは違うと思うけどな」
そう言い捨てたところで、玄関から一葉が、少女のような声で「ただいま」というのが聞こえてきた。
年下のインストラクターは仁王立ちになってきっぱりと宣言する。
「ご飯食べてから特訓だからね、覚悟しといてよ!」
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