第9話 思うところ

  9  思うところ


「さすがに疲れたなあ」


 ジャスパーはベッドに転がり、手足を思いきり伸ばした。

 エルムに治療術をかけなおしてもらい、肉体的な疲労や痛みはおおむね治っている。しかし短時間で教えを叩き込まれた頭の疲れは、魔法をもってしても取り払えなかった。


「だいぶしごかれたものね」


 エルムがくすくすと笑う。


「それにしても、バートラムさんまで教えてくれたのはびっくりだったね」


「よほどへっぴり腰に見えたんだろうな」


 ジャスパーは小さくため息をついた。




 夕食後、ジャスパーは宿の中庭で素振りを続けていた。

 背後ではエルムがランタンを灯し、分厚い本を読み上げている。教典と呼ばれる書物だ。


「いつも同じ本ばかり読んでよく飽きないな。とっくに暗記してるんじゃないのか?」


 ジャスパーは基本の動作を繰り返しながら問いかけた。


「うん、だいたいは覚えてるよ。でも言葉を一つ間違えるだけで、祝福が呪いに変わっちゃうこともあるからね。一度暗記したくらいじゃ安心できないんだよ」


「治療術も間違えるとおかしくなるのか」


「わざと効果を反転させて、傷つける術もあるよ。よほどのことがなければ使いたくないけどね」


「まあそうだろうな」


 ジャスパーは剣を振りながら、再び聖句を読み上げ始めたエルムの声に耳を傾けた。


 エルムが教典を読むようになって二年も経つだろうか。彼が聖句を読み上げる声と独特の音韻を、ジャスパーはすっかり聞き慣れていた。


 聞こえてくる言葉は平易な標準語であり、聞いたその場ではジャスパーにも問題なく理解できる。しかしエルムが先へ読み進めるたび、直前まで聞いていた内容がまったく思い出せなくなるのは不思議でならない。


 もっとも、ジャスパーはその疑問の追究をとうの昔に放棄している。過去に何回か教典を見せてもらったことがあるが、びっしりと並んだ文字は見るだけで辟易させられたし、実際に読んでみても最初の数行すら暗記できなかったからだ。そんな書物を丸ごと暗記しているというのだから、エルムと自分とでは頭の出来が違うのだと納得するよりない。


 バートラムが通りかかったのはそんな時だった。


 冒険者の宿は止まり木亭とほぼ隣接しており、宿の中庭と止まり木亭の裏口は簡単に行き来できる。


 たまたま外の空気を吸いに来たのか、裏口から姿を現したバートラムは、素振りを続けるジャスパーにゆっくりと歩み寄った。その顔にはかすかに渋面が浮かんでいる。


「動きが雑だ」


 バートラムはジャスパーを止め、身体の各所を軽く叩きながら構えを直させた。

  膝を曲げて腰を落とす。脇を締め、肘が横にぶれないまっすぐな軌道を腕に覚えさせる。


「やってみろ」


 ジャスパーは指摘された点を意識しつつつ剣を振った。

 風切音が唐突に鋭くなった。足腰にもずしりと反動を感じる。わずかな構えの違いでこれほどの差が出るのかと、ジャスパーは目を丸くした。


「その感覚を覚えておけ」


 静かに歩み去るバートラムの背中に、ジャスパーは思わず頭を下げた。止まり木亭のベテラン冒険者たちが、バートラムに敬意を抱く理由が分かった気がした。




「ねえ、ジャスパーは怖くない?」


「ん?」


 質問の意図が分からず目をやると、エルムは不安そうに眉根を寄せていた。


 ジャスパーはベッドに横たわったまま思案した。


 持久力に優れる自分でも準備段階で消耗した。体力で劣るエルムが不安に思うのも無理はない。

 しかし聞くかぎりではエルフ族の冒険者も多い。彼らは総じてエルムよりはるかに華奢だ。耐久力や持久力でエルムが遅れを取るとは思えない。


「ルピニアやアトリでも気をつければなんとかなるんだろ。だったらお前は大丈夫じゃないか?」


「体力のこともあるけど、アルディラさんにはキノコ刈りって言っただけであんなに怒られたでしょ。先輩もダンジョンを甘く見たら死ぬって言ってたよね。気楽すぎたのかな、ボクたち」


「そうかもな。だけどなんか大丈夫な気がしてる。明日はエドも一緒だし」


 ジャスパーは一日の出来事を思い返した。


 たしかに今朝の自分たちは何も知らなかった。あのままダンジョンに挑んでいたら本当に死んでいたのかもしれない。


 しかし今朝と今とでは何かが違う。一足飛びに強くなったとは思わないが、半日かけて自分の無知を教えられ、危険を警戒し生き残る方法を叩き込まれた。今朝に比べれば少しだけ死から遠ざかったような感覚はあった。


「ジャスパーらしいね」


 エルムは頼もしげに旧友を見つめた。不安に曇っていた表情は少し和らいだようだった。


「……そういえばエドに聞き忘れたなあ」


「先輩に? 何を?」


 エルムが首をかしげる。


「エドが片手でオレの剣を受け止めただろ。つっかい棒とか言ってたけど、どういう技なんだろうなあれ」


 エルムはしばらく記憶をたどっている様子だったが、やがてぽんと手を叩いた。


「これのことじゃない?」


 エルムが右手を上げ、いたずらっぽく微笑む。


「何かすごいのか、それ?」


 ただ手を上げただけにしか見えず、ジャスパーは首をひねった。


「手じゃないよ。タネは脚だと思う」


 エルムは身体ごと横を向いた。見れば右足を後ろに引き、脚をぴんと伸ばしている。


「ほら。手のひらから足まで一直線になって、つっかい棒みたいでしょ。これならボクでも一回くらいはジャスパーの剣を受けられるよ」


「そういうことか。なんで分かったんだ?」


「前に伯父さんから聞いたんだよ。たしか槍の話だったかな。長い槍の石突を地面に着けて穂先を相手に向けておけば、突っ込んできた敵は勝手に串刺しになる。つっかい棒に自分から飛び込むみたいなものだ、とか言ってたと思う」


「そんなこと言ってたっけ? ぜんぜん覚えてないぞ」


「ジャスパーが模擬戦ばかりやりたがって、話を聞かないからだよ」


「仕方ないだろ。やるなら模擬戦のほうがいいって伯父さんが言ってたんだ。今考えると、基礎を教えるのが面倒だったのかもしれないけど」


「しつこく聞かないと教えてくれないものね。ボクもけっこう苦労したよ」


「そうだったな」


 ジャスパーは天井を見上げ、静かに息をついた。


「……なあ。エルム」


「うん?」


「お前だってエドを投げ飛ばすくらい強いんだ。お前はもう、二年前のお前じゃない」


 エルムは静かに微笑んでいる。ジャスパーは顔をそむけたまま続けた。


「まだ続けるのか、それ」


 エルムはベッドに背を向け、静かに歩き出した。

 その足が廊下へ続くドアの前で止まる。


「……ボクは忘れちゃったらいけないと思う。だから届かなくちゃいけないんだ」


 背中越しの声は平坦だった。

 ジャスパーは大きく息を吸い、もう一度伸びをした。


「治療ありがとな。助かった」


「うん」


 短い返事を残し、エルムがドアの向こうへ姿を消す。

 ドアの閉まる音は聞こえなかった。

 奇妙に思ったジャスパーがそちらを見ると、エルムが再び顔を覗かせていた。


「じゃあねジャスパー、お休み♪」


 無邪気な笑顔を浮かべ、エルムはドアを閉めた。

 遠ざかっていく足音を聞きながら、ジャスパーは再びため息をついた。


「……無理するなって言ってるのに」

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