第4話 クララ、地震に遭遇するのこと

 登場人物も増えてきたことで、今回からようやく「ラノベ風に」というか会話文風にしていけそうです。

 来日しておよそ二ヶ月。ようやく日本での暮らしにも慣れてきたクララですが、東京はアメリカの東海岸出身のクララにとっては驚天動地の「審判の日」に等しい「自然災害」の坩堝でありまして。。。


明治8年10月6日 水曜日

 突然我が身に「審判の日」が降りかかった訪れたのは、午後六時半過ぎのことだった。

 夕食を終えたわたしたちはそれぞれくつろぎながら、祈祷会が始まるのを待っていた。

 私は居間のソファで読書をしていて、富田夫人もすぐ傍に立って、祈祷会に出るために来たばかりの若い日本人に話しかけていた。

 客間では小野氏が賛美歌集の中の古い曲を、兄のウイリイがオルガンを練習していた。

 富田夫人の従兄弟で、杉田玄瑞先生の四男である盛は台所のテーブルのところでお喋りをしていて、その奥では使用人のシズ、ヒロ、セイキチ、そして有祐が食後の皿洗いを手伝っていた。

 姿の見えない父と妹のアディは二階にいるらしく、丁度母も二階に行こうと階段の方に歩いていこうとした瞬間だった。

 大地が突然咆吼を始めた。家全体が土台から揺さぶられ、垂木は軋み、みんな揺り籠のように揺れる。

「!」

 私はあまりに吃驚して、身体を流れる血は凍り、心臓が止まるかと思った。

「今宵汝の命とらるべし」

 もし“天からの声”が荘厳な調子でこう告げたとしても、とてもこれほどには恐ろしく厳粛なものではなかっただろう。

 神様に助けを請う事も忘れ、ただ突っ立っているだけしかできない私の手が突然引っ張られた。「大丈夫、この家はとても頑丈なのよ」

 私を玄関の方に引っ張って行って下さったのは富田夫人だった。気が付くと、家の中にいた日本人は皆玄関に走っていった。一家中が玄関のそばに集まって、次の揺れを待った。地震はたっぷり一分間続き、その間に私は今まで経験したことがないほど色々のことを感じた。

 私が落ち着いて最初に考えたことは「神様が守って下さるだろう」ということだった。すると私の心臓の狂った鼓動は止まった。

 それから二階にいる人のことを思い出して、行ってみようとしたら二階の人たちが出てきた。可哀想に、アディは半ば死ぬほど驚き、心臓は激しく鼓動し、手は恐怖で氷のように冷たかった。父は今までになく素早く行動したようだった。本当に珍しいこともあるものだ。

 しばらく次の揺れを待ったが来なかったので、ようやく私たちは食堂へ戻った。こんなことに慣れている日本人は、日本では一年中殆どいつもこういった天変地異に見舞われているのだけれど、このような激しい地震はあまりなく、大抵は一年に六度くらい、それも非常に小さなものだけと云っていた。

 二十年前大きな地震が東京にあって、沢山の人が死に、多数の家が倒れたという。

 外国の家が倒れたことは聞いたいないけれど、日本の家は一般に華奢に建てられているからだろう。激しい地震の時は、落ちてくる材木や壁を避けるため、すぐ戸口から外に逃げ出すのが一番だそうだ。


明治8年10月9日 土曜日

 今日は富田夫人と芝に住む夫人の叔父様を訪問することになった。夫人の元の名前は杉田阿縫というそうだ。

 杉田玄瑞先生の家は日本風の造りで、芝の美しい高台にあり、前と後ろに見える江戸湾と東京の眺めが素晴らしい。蕃書調所という江戸幕府の蘭学を学ぶ学校の教授を務めていた先生は杉田家の養子で、この国で初めて西洋の医学書を翻訳した杉田玄白という人物とは直接の血の繋がりはないそうだけど、同じ一門であり系譜的には直系に当たるのだという。日本人の家系の繋がりの複雑さは我々アメリカ人の理解の及ぶ範疇ではない。

 最初に茶の間に通され、家族の方々に挨拶をして、アルバムを見せて頂き、御菓子をご馳走になった。

「いらっしゃい」

 足音に振り返ると丁度ご長男の武氏が帰ってこられたところだった。ここに来るように誘って下さった感じの良い方だ。お辞儀をし、挨拶を交わしてから「とても気持ちの良いおうちですね」「いえいえ、狭くて汚い家でお恥ずかしい限りです」と日本人にとっては「お約束」の会話をかわす。我ながら素晴らしい順応性。日本人は他人のものは褒めそやすのに、自分の持ち物はこのように貶すのだ。

 ともあれ、ここで英語が話せるのはこの青年だけなので、とても親切に私の面倒を見て下さった。奥様を紹介して下さったが、なんと日本人としてはこの上もなく綺麗な十六歳の可愛い少女だった!

「ところでクララさんのお母様はキリスト教の伝道に熱心だとか」

「母を御存知なのですか?」

 玄瑞先生の言葉を武さんに通訳して貰う。

「なに、私の蕃書調所時代の弟子に、新島七五三太という若い者がおったのだが、ある日突然、函館から消えたというので心配しておったのだ。それが突然先年欧米に派遣された岩倉使節団と一緒に帰国してな。なんでもアメリカに密航しておったとか。

 私の所にも挨拶に来たのだが、学問だけでなく、随分キリスト教についても学んできたようだ。伝道に熱心な母上なら、さぞ話が合うとおもってな」

「分かりました。機会があれば会ってお話しするように母に伝えておきます。新島七五三太さんですね?」

「いや、それは幼名でな。米国でJoeと呼ばれていたのに漢字を充てて名前を変えたそうだ。新島襄、と」

 それから叔母様は私のために琴をお弾きになり、お婆さまは日本の三味線を聞かせて下さった。その楽器は象牙のばちで弾いて弾くもので、それに合わせて歌を歌うのだった。私はお二人に、ご長男を通じて「お上手ですね」と褒めた。……内心で巻き起こる「音楽」に関する欧米とこの国の価値観の絶望的な断絶をひた隠しながら。

 この欺瞞に満ちたお世辞というものの厄介なこと! 日本人の家を訪問するときは、お世辞の本を小脇に抱えていくだけの価値がある!

 お二人は同じくご長男を通じて「下手ですいません」とお謝りになった。

 床に座っていたので足が痺れて苦しかったけれど、出来る限り上品に微笑んで見せた。それからお庭を見せていただき、先生のお友達の薩摩の殿様の茶畑に案内されて、私がお茶の木の柔らかい艶やかな葉に感嘆すると、木を一本分けて下さった。

 家に入って日本の夕食をご馳走になった。ナイフとフォークを遣い、洋式ではあったけれど、周囲の東洋的雰囲気のお陰でまったくロマンチックで夢のようだった。

 六時半に武さんが私を家まで送って下さった。この国でもアメリカと同様、夫人が一人で夜出歩くのは外聞が悪いからである。


明治8年10月13日 水曜日

 日本人と知り合いになってから随分楽しい思いをし、日本人がますます好きになってきて、気持ちの良い毎日を送っている。だけど、言葉の壁は厳然として私たちの前に立ち塞がっているのだと実感させる、でも滑稽な出来事が今日あった。

「あら、お帰り、兄さん」

 夕食の少し前。居間の扉が荒々しく開かれたかと思ったら、買い物に行っていた兄のウイリィだった。思い切り肩を怒らせている。

 ウイリイは普段は優しいのだけれど、同時に癇癪持ちでもある。これまでも些細な事で母と言い争いになって、何度か家を飛び出してしまったことがある。

「一体何なんだ、この国は!?」

 憤懣やるかたないとばかりに叫ぶ。私に叫んでも仕方ないのに。

「俺は母さんのために、ペパミント・キャンディを買いに行ったんだ! ちゃんとお前に聞いた言葉通りにだぞ!!」

「ええ。だから私、教えたわよね? ペパミント・キャンディの日本語は『ハッカ』だから『ハッカを下さい』って店の人に云えばいいって」

「そうだ。だから、俺はちゃんと『ハカを1ポンド下さい』と伝えたんだ! なのにヤツらときたら、俺のことを笑うばかりで」

 私は同席していた中原氏と高木氏と顔を見合わせる。……確かに外国人は一般的にアクセントの位置には無頓着だ。日本語の「ハッカ(薄荷)」のアクセントは後の音節にある、なんて云っても首を傾げるだけだろう。

「そもそも教えられた場所の近くで『ハカを売っている場所を教えて欲しい』と茶屋の主人に聞いたら、石の並んだ店を紹介された時から変だ変だと思ったんだ。『本当にハカがここで売っているのか?』と繰り返したにもかかわらず『ここで間違いない』ってな」

「…………プっ」

 最初に堪えきれなくなったのは私だった。私の笑いはあっという間に中原氏と高木氏に感染した。呆気にとられてただ私たちの爆笑の渦から置いてきぼりにされるばかりのウイリイに、中原氏が丁寧に同音異義語とアクセントの違いを説明する。

 これで一件落着。

 そう思いきや兄は「もう二度とペパミント・キャンディなんて買わない」と宣言した上で、突然矛先を変えて日本のサムライたちへの批判を始めた。

「噂に聞いたぞ。何百人ものサムライと貴族が大阪や東京で会合し、外国人を追放して古い習慣を復活させようとする方策を練っている、ってな。日本人は俺たち外国人を本当は疎ましく思っているんだろう!? もし我々に危害が加えられれば、白人種全部が決起して立ち向かい、そのような愚か者の名を血で拭い去るからな。そして海外列強の報復を招いた挙げ句、文明化とキリスト教精神を取り入れる希望も全て失ってしまうだろう!」

「兄さん、そんなことを中原さんと高木さんに云っても仕方ないでしょう!」

 だけどその噂は確かに私も耳にしていた。あと同じように、少し前から「日本と朝鮮との間に戦端が開かれる」という話もまことしやかに流れていて、現にうちの近所でも兵隊の大行列が行進し、射撃訓練を行っている。

「いま戦争を起こすなど愚の骨頂ですよ」

 報知新聞の記者でもある中原氏が冷静に指摘する。「いま日本の借金は千四百万ドル。しかも朝鮮と事を構えても実際に出てくるのは清国です。それだけの戦費を調達する余裕などありませんよ」

 中原氏のように冷静に判断出来る人たちばかりなら、私たち外国人を追放しようなんて考えないだろう。だけど、私たちアメリカ人が善人ばかりでないのと同様、日本人がすべからく聡明なわけではない。

「神様、どうぞ私たちを恐ろしいことからお守り下さい。そしてこの国に無事に滞在して帰国できるようにしてください」私は心の中で呟いた。

 そんな人たちは極めて不実な友であり、残酷な敵なのだ。もしそのようなことが起こったら、ただではすまないだろう。私たちの友達であるこの国のサムライ階級出身の人たち全員が、私たちを守ってくれるだろうとはとても思えない。

「少なくともホイットニー先生とご家族は私が命を賭けてお守りしますよ」

 私の心の中を見透かしたように、高木氏が静かに云う。勢い込んででも、気負ってでもない。ただ淡々と、為すべきことを為すだけの職人のような静かな姿勢で。

「私がサムライとして仰いだ最後の旗の名にかけて」



【クララの明治日記 超訳版第4回解説】

「本日も解説はわたくし勝逸子と、キム・ユウメイでお送りします……って、ユウメイ! スマイル、スマイル!」

「……はぁ~。まだ“ラノベ風”とはとても云えませんけれど、仕方ありませんわね。実のところ、日記をそのまま文章化する以前の裏取り作業の方が時間掛かっていますもの。誰もそんな事求めていませんのに」

「グーグル先生って怖いよね。ちょっとマニアックなネタだと、超訳者が以前書いたブログの記述が、学術的な頁よりも上位に来ちゃうんだもの」

「今回の分だと、どうしても杉田玄白と杉田玄瑞の繋がりが分からなかったようですわね。以前超訳者のブログで『玄白の裔』と確信もなく書いた事が余程気に懸かっていたそうですわ。なんて肝っ玉の小さい!

 で、今回改めて調べてみて、玄白の跡を継いだのが養子の伯元ということは知っていたのだけれど、その後がどうしても繋がらずに。で、日本最大級の人名辞典を複合して調べた限り、なんとか判明したらしいですわ。

『杉田玄白→伯元(養子)→恭卿(伯元実子。若年で死亡)・白元(伯元実子)』

『杉田立卿(玄白実子)→成卿(立卿実子)→玄瑞(立卿養子)』

 で、弘化三年(1846年)に、白元に請われて、玄瑞が杉田本家を継いだ、と」

「……なに、これ? 養子が本家を継いで、実子が別家を興して、別家に入った養子を、本家がもう一度養子にした???」

「玄白以来とはいえ、幕府の中ではまだ成り上がりの学者の系譜ですもの。実力本位制を取っていた、ということでしょう。現に上に挙げた杉田家の人物のうち、白元以外は全員、歴史事典に一項を設けられていますわ」

「それは確かに凄いとは思うけど……これ、調べて何か本筋と関係があるの?」

「これっぽっちもありませんわ! まったく、こんなことに時間を費やして、馬鹿としか云いようがありませんわね!」

「……可哀想だから少しだけフォローをすると、新島襄と杉田夫人はこの先なんども登場してくる伏線ってことで。あ、でもこの日の日記本文には新島襄に関する記述はなくって、あくまでその後の展開からの“想像”だって」

「それは日記という性質上、仕方ありませんわね。実際、福沢氏や大鳥圭介氏についてもいつの間にか知り合いになっていて、しかもそれは本人にとっては当たり前の事で、日記でわざわざ書き記したりしないでしょうし」

「あと10月6日の地震のことだけど、クララは大袈裟に書いてるけど、あれくらいの規模の地震は東京ではそれほど珍しいわけじゃないわよ」

「わたくしは北京出身ですからよく分かりませんけれど、そのようですわね。超訳主の手持ちの文献に、明治の各年ごとの文化的流行や自然災害が載っている本を見ましても、この日の地震については記述がありませんもの」

「で、更に問題は10月13日の“戦争の噂”に関する記述なんだけれど」

「これも事実なんでしょうけれど、一般に知られている“歴史的事実”からは不思議な話ですわね。西郷隆盛らの征韓論が破れ下野する事になったのは、この二年前の10月。清国との間でトラブルが起こった台湾出兵もこの前年ですし」

「お父様はこの台湾出兵に反対して参議を止めてしまいましたし。元々辞める気でいらっしゃったようだけど」

「台湾問題は一部の欧米諸国も介入して、結局日清戦争終結まで最終的な決着が付かなかったようですし、直接的な脅威の清と横からちょっかいを出す欧米諸国への反発が、こんな噂を生んだ、と云うことなのでしょうね。……血統的には清国人であるわたくしとしては複雑な気持ちですけれど」

「で、最後の高木氏の台詞だけど、これは創作だって。もっともクララは大鳥圭介氏とも友達だったから、日記の記述にはないけれど、高木氏も大鳥氏と一緒に函館戦争に参加していたのを知っていてもおかしくないけどね。もっとも高木氏の上官は大鳥氏ではなく、同じ陣営にありながら対立していたとして有名な!」

「はい、お逸。そこでストップ! それは今後のお楽しみという事にということにさせて頂きますわ。もう少しオリジナル展開を入れられるようになったら存分に活躍して頂きましょう。

 それでは本日はこの辺で。ではまた次回」

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