いまどきの悪魔と私と

 うちには一匹の喋る犬が居候している。

 喋る犬というか、アレは一応悪魔であるらしい。かの有名なゲーテの戯曲にその名を刻む、とっても有名な悪魔であるらしい。ちなみに私はゲーテの『ファウスト』については手塚治虫の漫画でしか知らない。原典は……こいつにつつかれてちょっとだけ目を通そうとしたが、十ページで断念した。私に戯曲は合わなかった。

 さて、その有名な悪魔さんは、ことあるごとに神さんとちょっとしたゲームをしていて、その結果私の元にやってきた。そのゲームの内容がまた振るっていて、私という人間を堕落させてその魂を手に入れることができれば、悪魔の勝ち。それが成し遂げられなければ、神さんの勝ち……というものだ。

 まさしく、頭でっかちのファウスト博士が標的になった、例のゲームと全く同じ構図である。

 だが、唯一大きく異なるのは……その標的が、私である、ということ。

 知的好奇心の権化であり、精力的に世界を回ることを望んだファウスト博士とは似ても似つかない、堕落も堕落を極めた、大学生という肩書きだけを抱えた自宅警備員である、この私であるということだ。

 さて、そんな、私に相対した悪魔がどうしたのかというと。

 律儀なこの悪魔さん、神さんとのゲームに勝つべく、既に堕落しきった私を一旦更生させ、それから再び堕落させなければならない、という何とも素っ頓狂な結論に至り、現在も私の家にいついている。

 だが、そんなこと、私が知ったことないわけで。

「おーい、メフィストフェレスー」

 今日も私は、迷惑そうに尻尾を振る犬の背中に、だらりと体重をかける。

「飯ー。飯はまだかー」

「だああああっ、黙れこの人型スライム! 冷奴でも食ってろ!」

「冷奴は美味いが、毎日では流石に飽きるのだよ。何か手早くちゃちゃっと作ってくれなさい」

 くうっ、と悪魔は悔しそうな声を立て、そしてすらりとした人型になって台所に立つ。悪魔という生き物(?)は、人の魂を手に入れるためには、正式な作法にのっとり、人と契約を交わさなければならないそうだ。当然、私もこの悪魔と契約を結んでいる。

 その内容は、こうだ。

『私が健康で文化的な最低限度の生活を営めるように家事を全てお任せする』

 ……何とも甘美な響き。一人暮らしで自宅警備をしている身としては、やはり警備に加えて家事という仕事を行うのはいささか重労働にすぎる。まあ、要するに、面倒くさいだけなのだが。

 かくして、悪魔は私がこの契約に満足するその日まで、私に家事をもって奉仕することを義務付けられたわけである。ご愁傷様です。

 さて、今日のご飯は何だろう。この悪魔、何だかんだで料理は上手い。人を堕落させるために、食欲を刺激するのは悪魔として大事な才能なのかもしれない。

 だが、最近の悪魔はどうやら手を抜くことを覚えたらしい。確かに、最低限度の生活を求めている以上、その内容に贅沢は言えまい。

 というわけで、今日のメニューはどうやらインスタントラーメンらしい。ごうごうと燃える炎、ぐつぐつと煮えたぎる鍋。そこに無造作に放り込まれる、固まった麺。まあ、インスタントラーメンも近頃は美味なものも多く、そのチョイスに文句は言うまい。

 悪魔は、菜箸でラーメンをほぐしながら、ぶつぶつと呟く。

「あー、便利だなー、インスタントラーメン。人間が生み出す技術も、案外馬鹿になんねーよなー」

「だろう? ほら、我を敬いたまえ」

「貴様はせめて人間らしく生産的な行動を行え。頼むから」

 それは堕落を促す悪魔の科白じゃないと思うんだよ、私。

 抱き心地のよい犬の姿が見えなくなってしまったので、とりあえずお気に入りの抱き枕を抱きしめて、床の上に転がって。その床の冷たさを感じながら、黒い服を着た男の後姿をぼうっと眺める。

 こいつは、いつもいつも、私に「人間らしさ」を求めるが、一体何が人間らしさなのだろう。インスタントラーメンを生み出すのが人間だとすれば、堕落するのだって、人間だ。というか、インスタントラーメンは、「楽をしたい」という堕落した人間のために生み出された食べ物だと信じて疑わない。

 それなら、この悪魔が私に求めているものは、何なのだろうか。難しいことは、私にはさっぱりわからない。わからない、ってことにしておきたい。そう思うと、自然と、頬から力が抜ける。

「何、笑ってんだよ」

「いーや、何でもないさ」

「気色悪い。ほら、できたぞ」

 ちゃぶ台の上に置かれる、湯気を立てる二つの器に二膳の箸。私はがばりと起き上がり、片方の器の前に正座する。

「わーい、ラーメン、ラーメン!」

「ったく……食ったら器よこせよ。洗っとくから」

 その言葉に、思わずふっと笑いをこぼしてしまい、「あんだよ」と悪魔に睨まれる。

「まあまあ、いいじゃないか。ほら、冷める前に頂いちゃおう」

 だって、何かおかしかったのさ。神と並び立つ大悪魔メフィストフェレス様が、当たり前のように、そこにいて。こんなどうしようもない私のために、手を差し伸べてくれることが。

 ……だから、私はこの時間が、ずっと続けばいいって今日も願いながら、

「いただきます」

 と、両手を合わせるんだ。

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