第7章 名前を呼ぶ(3)

 デュルケンの足音を聞いて、どっしりとした体躯を情けないほどにがくがくと震わせている男がいた。

 ミナ・トリア王ベルギウスは、恐怖に濁った目をきょろきょろ動かし、かちかちと爪を噛んで、近づいて来る脅威に怯えていた。

 妻の命を奪い、己の治世を終わらせる存在として生まれた、忌むべき息子。捨てたはずだ。ゾラ・イグに命じて殺したはずだ。それが何故生きているのか。何故今、自分の地位を脅かしに帰って来たのか。

 ゾラは狼の群に投げ込んで来たと報告した。それ自体が嘘だったのか。十七年間、あの毒蛇は自分をたばかって、陰でちろちろ舌を出して笑っていたのか。

 恐怖は怒りへと転化する。あの爬虫類、戻って来たら相応の報いを与えねばならない。毒蛇の長の地位を剥奪するだけでは物足りない。処刑方法を考えておかねば。

 うろうろと室内を歩き回りながら、思いつく限りの凄惨な処断の仕方を挙げ始めたベルギウスの思考は、部屋に入って来た新たな足音で中断させられる事となった。びくりと目に見える程飛び上がって、足音の主を見遣った王は、それが蒼髪の少年ではない事にほっと胸を撫で下ろした。

「おお、メティラ。メティラ、助けてくれ」

 情けない声を出して、すがりつくように相手にすり寄る。

「お前ならできるだろう、あの呪わしい子を排除する事が」

 メティラは答えなかった。いつもの媚を売るような潤んだ瞳ではなく、やけに冷たく乾いた視線を王に向けている。

「メティ、ラ?」

 違和感を覚えて首を傾げ、いつに無く優しく寵妃の名を呼び手を伸ばす。だが、その手が相手の髪をすく事は無く、中途半端な位置で止まった。

 胸に熱を感じて、ベルギウスはのろのろと視線を下ろす。そこに突き立てられた剣呑な刃に気づいた途端、喉の奥から血の塊がせり出して来た。

「触るんじゃないわよ、脂ぎった汚い手で」

 メティラが言った。酷く突き放した、蔑みのこもった声で。

「オズ・クルの為とはいえ、あんたみたいな爺と十何年も寝所を共にするなんて、どれだけの屈辱だったか」

 何だこれは。衝撃が王を襲う。

「やってくれると、言ったでは、ないか」

 あの呪わしき子を。満足する結果をもたらすと。その口が言ったではないか。

「ええ、やりますとも。あんたの為じゃなくて、オズ・クルの為に、あの忌々しいイルザの末裔は始末するわ」

 女が笑った。引きつるような嫌な笑いだった。

「あなたが満足する結果は、あの世で夢をご覧なさいませ、陛下」

 どいつもこいつも裏切っていたのか。嘲りに満ちた声を聞きながら、絶望に包まれたベルギウスの意識は永遠の闇に閉ざされ、その身体はどさりと床に倒れる。

 彼の息子が部屋に乗り込んで来たのはその直後で、王は遂に、成長した我が子の姿を目にする事は無かった。


 王の部屋に飛び込んだデュルケンが目にしたのは、予想とは異なる光景だった。

 毛足の長い絨毯を真っ赤に染めて倒れている壮年の男。その傍らに立っているオズ・クルの女。

「あら、やっと来たのね」

 何が起きたのか状況を理解しかねている間に、女が振り返る。彼女が見下すような嘲笑を見せた瞬間、デュルケンの中で答えが弾き出され、感情を繋ぎ止めていた糸が切れた。

 どっ、と。

 怒りが風の刃となって吹き荒れた。予告無しの攻撃に対して驚愕に黒目を見開いたメティラの身体があっけなく吹き飛び、壁に叩きつけられる。自慢の白い肌が切り裂かれ、噴き出した血が壁に紅の花を描いた。

 部屋の中をひっくり返し、窓を叩き割って、デュルケンの激昂に反応したトル・メダは去る。

 破壊の痕が残る中、デュルケンはしばらくの間一人立ち尽くす。しばらくの後ようよう足を踏み出して、倒れ伏す男の元へ歩み寄った。

 既に事切れている。名を問わなくても、苦悶に歪んだ表情をしていても、自分と似た面差しを持つ事で、この男がベルギウス王その人であるとデュルケンは確信を得た。

 面と向かい合ったら訊きたい事は沢山あった。何故、オズ・クルの蔓延を許したのか。何故、多くの人を苦しめる政治を漫然と続けたのか。何故、自分を捨てたのか。

 いや、そんな事はどうでも良い、と首を横に振る。

 自分の事など憎んでいても構わない。ただ、母の事だけはきちんと愛していてくれたのだろうか。それを訊きたかった。

 感傷的な思考はしかし、ひきつれた笑い声によって打ち切る事を余儀無くされた。

「これで、これで終わったと思わない事ね」

 メティラだった。全身を切り裂かれ痛々しい姿になっても、目ばかりが爛々と憎悪の炎を燃やしている。

「我らの敵、風詠士。オズ・クルの真の脅威をその身に刻んで、死ぬがいいさ!」

 途端。

 ぱん、と、弾けるような音と同時、衝撃が全身を襲い、デュルケンは声もあげられずに崩れ落ちる。膝を折った所で何とか両手を床につき、先日のように無様に倒れる事だけは防いだ。

 だが、攻撃はそれで止む事を知らなかった。ぱん、ぱん、と、破裂音が耳を叩く度、激しい痛みが身を貫く。両腕だけで身体を支えきれなくなって、結局肩から床に倒れ込んだ。

 音が鳴る直前に黒い稲妻が視界を横切ったのが、この衝撃の原因がオズ・クルの操る雷である事をデュルケンに教える。

 一体誰が。メティラが、追いつめられた鼠が猫を噛むごとく反撃しているのか。そう考えたデュルケンの予想は当たってはいなかった。

 メティラとは別の、大人の女よりは軽い靴音が近づいて来て、至近距離で止まる。痺れる全身を叱咤して顔を上げ、デュルケンは愕然とした。

 ふわりと揺れる赤毛。

 だが、見覚えがある姿はそれだけだ。いつもの素朴なワンピースではなく、レースを用いたごてごてしい真っ黒な衣装に身を包み、リボンも黒、編み上げ靴まで黒で統一している。

 花の香の代わりに漂って来るのは、雷撃が発せられる時に鼻を突く焦げ臭さ。

 そして、まっすぐにデュルケンを見つめて嬉しそうに細められていた藍色の瞳も今、光は宿っておらず、ただただ深い漆黒の闇に彩られている。

 言葉を失って愕然とするデュルケンの眼前で、少女――パルテナが微笑む。親愛の情など欠片も無い、抜けるようにうそ寒い、冷えた笑みで。

「リガ・ゲルニカ」

 メティラが勝ち誇ったように、かつてのオズ・クル首魁の名を宣誓する。

「ミ・ルラに宿って蘇った古の王の力、その身でとくと味わいなさい」

 その宣言を合図にしたかのように、パルテナの成長しきっていない掌の上で、水晶髑髏の両眼が黄色の光を放つ。

 ひときわ強烈な雷が叩き落とされる。デュルケンは今度こそ、肺中の空気を全て吐き出しそうな程に絶叫した。

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