第2章 荒ぶる風(1)

 この世界の東の大陸エス・レシャではかつて、オズ・クルと呼ばれる闇の一族が権勢を振るっていた歴史がある。

 死と破壊の魔神エグ・リシを信奉する彼らは、神から賜ったという黒い雷を操る力で、一族以外の人間を恐怖させた。

 魔神の力を持たぬ者はすべからくオズ・クルの奴隷となり、朝陽が昇る度に一人、夕陽が沈む度に一人、エグ・リシへの生贄として、生きたまま心臓を抉り出され炎へと投げ込まれた。

『オズ・クルでなき者は生命たる価値も無し』とまで言われ、人としての尊厳も生き死にを選ぶ自由も奪われ、人々の嘆きと断末魔の叫びはエス・レシャの大地に満ち満ちた。

 だが、最早希望は無いと思われた時、望みが芽吹く。

 大陸南方の辺境地域ミナ・トリアに住む一部族の長の子、イルザ・フォードという若者が、部族があがめる風の精霊トル・メダと心を通わせ、その力を自在に行使する資格を得て、オズ・クルから大陸を解放すべく立ち上がったのだ。

 それはまさに奇跡だった、と史書は語っている。

 イルザが右手を掲げれば風は鋭き刃となってオズ・クルの軍勢をなぎ倒し、左手をかざせば優しき息吹となって傷つき病める者をたちどころに癒した。

 蒼く長い髪を風になびかせ、金緑の瞳でひたと前を見据えたイルザは、その美しい容貌と身に帯びるトル・メダの力、そして持ち前の求心力で、人々を強烈に惹きつけた。

 いつしか彼の者の元には多くの勇士が集い、イルザを盟主としてオズ・クルに立ち向かう一軍を成すまでに至り、遂にオズ・クルの時の首魁リガ・ゲルニカを討ち果たした。

 イルザ一人ではオズ・クル打倒は成しえなかっただろう。だが、人々がイルザ抜きでリガ・ゲルニカの強大な魔力を打ち破る事もまた不可能だった。

 救世主イルザは熱烈な期待を受け、エス・レシャの統治者となる事を望まれた。しかしイルザはそれを辞退し故郷ミナ・トリアへと帰る。

 だが、イルザ自身が王となる事を拒んでも、ミナ・トリアの人々はイルザを唯一の王と崇める事を諦めなかった。

 ミナ・トリアは大陸の一地方からイルザを王とする王国に成り、その血を引く者は『風詠士』の子孫として、代々、蒼の髪と猫目石の瞳、フォードの姓を受け継ぎ、穏やかに国を治めた。

 トル・メダは風詠士と語り合い、優しい風を吹かせる。雲は絶え間なく流れ、時に恵みの雨を降らせ、川は滔々と往き、草木はぐんぐん背を伸ばして花をつけ、実が生り、種は風に乗って渡る鳥によって運ばれ、また新たな命を芽吹かせる。

 風詠士は生命の流転を守り、ミナ・トリアは小国ながら繁栄を誇り続けて来た。


 ところが、婿入りの現王ベルギウスの治世に国は変わった。

 王妃ニネミアが死産のショックで亡くなると、直系の風詠士を失ったミナ・トリアの大地は急速に衰えた。

 空気はひとつどころにとどまり、水は澱み、大地は枯れ、作物は貧弱になる一方。人々の心は荒み、法は効力を失い、盗みや殺しの犯罪が横行してもそれを捕らえる騎士団もまともに機能しない。

 愚鈍なるベルギウス王は新しい妃に溺れて施政を顧みる事が無く、しかし己に苦言を呈する者、己の意に沿わぬ者は片端から首をはねた。

 王族を守るべき騎士団は彼の愚行に失望し、士気と栄光は見る間に地に落ちた。

 今やミナ・トリア王家は、王の機嫌を損ねて首を落とされないように顔色をうかがう卑屈で狡猾な家臣達と、名誉も誇りも忘れて時には自ら犯罪を重ね、通る道を塞いだとの理由で守るべき民を斬り捨てるような名ばかりの騎士団を抱える、腐敗の代名詞となっている。

 ミナ・トリアという大樹は緩やかに朽ち、死の河メーテ・リオの淵へと堕ちてゆくただ中にあった。


 人心が乱れ苦しみに喘ぐ時、人はそこから自分達を救ってくれる理想の偶像を求める。

 だからだろうか。ある時から、ミナ・トリアの民の間にひとつの噂が立った。

 曰く、我らが正統なるイルザの血を引きし亡きニネミア妃は、死産ではなく王子を一人産み落としていたのだと。

 彼女は、歴代の風詠士の中でも強大すぎる力を継いだ子と命を引き換えにし、それを不吉と疎んじた愚かなベルギウス王は、その子を捨てた。

 しかし、トル・メダの加護を受けし御子は獣の群の中で育てられ、いつか悪王の喉笛を切り裂く日を待ち構えているのだと。


 どこまで本当かはともかく、火のない所に煙は立たぬ。まず初めに真実があって、それはひた隠しにされていたが、いずこからか一般市民の中へと漏れ出したのだろう。

 レジーナは食堂の壁に背を預けてそう考えながら、家の子供達と共にテーブルについて黙々と夕食のシチューをすする蒼髪の少年を観察していた。

 獣に育てられた云々は誇張に決まっている。服は着ていたし、ぶっきらぼうながらも人語はきちんと喋ったし、人並みにスプーンを使って食事をするし、パンも一口大に千切って口に運ぶ。礼節がどこまで備わっているかは差し置いても、ひとまずは人間に教育を受けた証だ。

 それに、己がイルザの血を引く王族であると、彼――デュルケンは自覚している。生まれた時から知っていたはずはあるまい。ミナ・トリアの歴史を知り、伝えた誰かがいるはずだ。そして、彼に教育を施した者とイルザの血脈を伝えた者は、同一人物である可能性が高い。

 歳月を振り返れば、十七年。よくもベルギウス王から隠しおおせたものだ。感心すると同時に、デュルケンが怪我を負って現れた事から、最早隠し立てがかなわなくなって、彼を育てた何者かが彼一人を逃がしたのだろうと察しがついた。その何者かが今はもう生きていないだろう事も。

「あーっ、ニンジンだ!」

 そんなレジーナの思考を打ち切らせたのは、子供特有の甲高い声だった。

 シチューの中に入っていたニンジンをフォークに突き刺して高々と掲げてみせたのは、子供達の中でも一際いたずら好きで小生意気なサム・ダミアンだ。

「パリィの頭が入ってるぜ」

 そばかす顔の悪ガキは、ニンジンが刺さったままのフォークを向かいに座るパリィに向けてずいと突き出した。

「パリィの髪はニンジンじゃないもん!」

 たちまちパリィは鼻白んで言い返す。だが、この手のからかいは反応すればするほど相手を図に乗せるのが関の山。サムはそばかすだらけの顔にへらへら笑いを張りつかせ、おちょくるようにパリィの目の前でフォークをぐるぐる振り回す。

「違うもんか、同じ色じゃねえか。パリィの頭はニンジンでできてるんだ」

「違うもん、違うもん!」

 パリィは小さな拳でテーブルを叩き、目にはうっすら涙を浮かべている。それがこの悪ガキには楽しくて仕方無いらしい。

「やーい、ニーンジン、ニーンジン」

 サムは抑揚をつけて鼻歌のように唱え出す。パリィの顔がくしゃっと歪んだので、いい加減いさめて止めるべきかと、レジーナが壁から背を離した、その時だった。

 たん、と、軽快な音と共にデュルケンが席を立ったかと思うと、椅子を蹴り倒して跳んだ。それはさながら身軽な猫のごとく、長身を縮めてテーブルを越え、低めの天井も気にせぬ一回転。子供達がぽかんと口を開けて見入っている間に、反対側へすとんと降り立つ。

 そして振り向きざまに、呆気に取られているサム目がけて右平手を繰り出した。

 サムは椅子ごとひっくり返り、フォークは手をすっぽ抜けてふたつ隣の子供の皿に突っ込んだ。

 少年ははじめ何が起こったのか理解できなかったらしく、床の上でぽかんと口と開いて呆然としていた。だがやがて、頬の痛みとぶたれたという衝撃がいちどきに襲って来たに違いない。見る間に目が潤み、大声をあげて号泣した。

 たちまち驚きが伝播して、他の子供達もわんわんと泣き出し、食事どころではなくなってしまう。

 ただパリィだけが、涙を引っ込め、不思議そうな顔で、金緑の瞳を怒りで細めるデュルケンの姿を見つめていた。


「どうしてあんな事をしたの」

 他の世話役と共に子供達をなだめすかして落ち着かせ、ようやく各々のベッドに潜りこませた後で、レジーナはデュルケンを詰問した。

 少年は憮然とした表情でまっすぐにこちらを見つめ返している。自分はちっとも悪い事をしていないとばかりに、反省の色は全く無い。

「自分より遙かに力の劣る子供にいきなりぶってかかるなんて、いい歳した人間のする事ではないでしょう」

 普通の人間なら少し考えればわかる常識論を、レジーナは口にする。だがデュルケンは明らかにむっとして、視線を横に滑らせ、吐き捨てるように言った。

「女を泣かせる男は最低だ。だから叩いた。大人も子供も関係ない」

 これにはレジーナも一瞬、返すべき言葉を失ってしまった。長息をついた後、気を取り直して訊ねる。

「誰、貴方にそんな事を教えたのは」

「カシダ」

「誰ですって?」

 短い固有名詞に眉をひそめると、少年は面倒臭そうに半眼になった後、もう少しだけ詳しく言い直す。

「育ての親」

 レジーナは再度、長々と溜息をつくしかなかった。

「貴方を育てた人というのは、随分と攻撃的な思考の持ち主だったのね」


「なんだろうね、サティ」

 二段ベッドの下段で毛布にくるまりながら、パルテナは赤いくまのぬいぐるみに語りかけた。

「パリィ、なんか言った?」

 ひとり言のつもりだったが、しんとした部屋にはよく響いてしまったらしい。上段で寝ている少女の眠たげな声が降って来たので、慌てて「なんでもない」と返し、毛布を肩まで引き上げる。

 男子と女子に分かれている子供部屋は、さっきまで少女達のすすり泣く声に満ちていたが、さすがに皆も気持ちが落ち着いたらしい。パルテナ以外の誰もが既に眠りに落ちている。上段の少女もすぐに夢の世界へと旅立ったようだ。

 明かりが消えた闇の中、先程のデュルケンの行動を思い返す。

 怒りに燃える金緑の瞳をしていた。

 彼の真意はパルテナにはわからない。

 だが、デュルケンがいじめっ子から自分を助けてくれた。その事実は、パルテナの胸のあたりをじんわりと温める。

 今までこんな事は無かった。サムにいじめられた時、他の男子は一緒になってはやしたてる事がほとんどだった。かばってくれる子もいない訳ではなかったが、こんなふうに温かい気持ちを抱く事は無かった。

 デュルケンだけが特別なのだろうか。それは何故だろうか。

 確信を得る事もその思いの正体に行き当たる事も、パルテナにはできない。そこまでの人生経験を積んでいない、ほんの子供なのだ。

 だから彼女は、疑問符を頭中に満たして再度サティに問う事しかできなかった。

「なんなのかな、サティ?」

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