第1章 蒼髪の少年(1)


1 蒼髪の少年(1)


「パリィ、パリィ!」

 自分の名を呼ぶ声がカサの方から聞こえる。

「パリィ、どこ行ったの!?」

 レジーナがそうやって自分を探して怒鳴るのは、日常茶飯事だ。

 知っている。彼女は本当には怒らない。しばらくしてきちんと姿を現せば、腰に両手を当て憤慨している態度を見せても、その紫の目は「仕方ないわね」とばかりに細められているのだ。

 赤色を基調にするギンガムチェックの布で作られたくまのぬいぐるみを抱いて、少女は、古い木製の壁に開いた穴へと身を滑らせた。

 裏庭の草陰にできたこの穴は、大人では首を通した時点でつかえしまう。しかし、小柄な少女一人が通るのに不足はない。外へと抜け出すには最適だ。

 ところが生憎今日は、一昨日に通り過ぎた雨のせいで地面がまだ湿り気を帯びていた。まともにはいつくばれば、白いワンピースに泥が不恰好な絵を描く。そうすれば今度こそレジーナにこっぴどく叱られる。

 いつもより気を払い、頭と腹の位置を持ち上げて通ろうとする。が、赤に近い茶髪が壁の破れ目に引っかかった。

「あん」

 不服の声をあげ、まだ成長しきっていない小さな手を伸ばして無理矢理引っ張る。髪をふたつに結わいていた、ぬいぐるみと同じ生地を使ったリボンの片割れがほどけた。

 それが不意に吹きつけて来た春の風にさらわれる。慌ててつかみとめようとした少女の手をすり抜けて、リボンはひらひらと宙を舞っていった。

「ま、待って。待って」

 泥が裾を汚すのも忘れて少女は壁の穴をくぐりきり、片方がほどけた赤毛を揺らしながら、裏庭を抜けた先の木立の中を走る。

 風の中、上へ下へと落ち着き無く踊るリボンは、ここまでおいでと言わんばかり。だがそれも、不意に風が止むと同時にはたと地面へ落ちた。

 やっと追いついたいたずら好きなリボンを拾い上げ、安堵の吐息をついたその時。少女の藍色の瞳に、日常にはない異端の景色が映り込んだ。

 はじめは倒木かと思った。先日の雨はやや強めの風も伴って過ぎていった。根を張り切れていなかった弱い木がそれで倒される事はままある。

 だが、近寄って見るとそれが予想違いである事がわかった。倒れているそれの表面を覆うのは茶色い樹皮などではなく、肌色の人間の皮膚。この国ではごく一般的な綿製の服をまとっている。

 異質に見えたのは、服にべったりと染みを作る血の跡があったからだろう。

 少女は更に一歩近づき、倒れているその人物の顔をのぞき込む。

 自分より幾らか年かさの男――少年と呼ぶべきか――に見えた。少女はもう十一歳だが、他人、特に異性の年齢を推し量るという技量は残念ながら持ち合わせていない。少女としては「もう十一歳」なのだが、レジーナに言わせれば「まだ十一歳よ」と一蹴されてしまう。

 ただ、そんな少女でも、目の前に倒れているのが街で見る大人の男とは違う事はわかる。気を失っていても色褪せない美しい顔と、その顔にかかる髪が深い深い蒼である、ふたつの印象は強く心に刻み込まれた。

「もしもーし」

 身を屈め、ぬいぐるみの鼻先を少年の頬に押しつけて、こちょこちょとくすぐってやる。

「だいじょうぶ?」

 少年ははじめ無反応だったが、ややしつこいくらいにくすぐると顔をしかめ、鬱陶しそうに低い呻きを洩らした。

 まぶたがのろのろと持ち上がる。その下から現れた瞳の色を見た時、少女は思わず息をするのも忘れるくらいに惹き込まれた。

 果てしなく金色に近い緑。

 猫目石キャッツアイという名の宝石の存在を図鑑で見た事があるが、まさにその石のような鮮やかな色。

 それが、己の居場所を探すようにさまよい、ある瞬間にひたと少女に焦点を合わせる。

 金緑と藍色が絡み合った。

 急に胸がどきどきして、頬が赤くなる。これは一体何事か。

 だが、少女が動悸の正体を知るより先、猫目石の瞳孔がまさしく猫のごとく細まったかと思うと、少年が跳ねるように身を起こした。


 外から聞こえた小さな短い驚きの声を、レジーナ・ヴァーレイは聞き逃さなかった。

 パリィがちょくちょく家を抜け出し裏の木立を自分一人の秘密の場所とばかりに遊んでいた事は、知っている。

 この家はミナ・トリア王都ベレタの一部に属するといえど、そのはずれに位置している。ひとたび人気の無い場所へ踏み込めば、どんな野生の獣が襲って来るかもしれない。ましてや、悪意を持つ人間が一人二人潜んでいてもおかしくない危険性をも孕んでいるのだ。

 パリィの外出を暗黙の内に認めてしまっていた己の甘さを胸中で非難しながら、レジーナは身につけていたエプロンを一瞬ではずして外へと飛び出した。

 子供には高くて越えられない木の壁も大人ならば易々と越えられる。壁の上部に手をかけ、レジーナはひらりと壁を飛び越えた。

 乱れて頬にかかった髪を直すのもそのままにして、声の方角へと走る。

「パリィ!」

「あ、レジーナ」

 愛嬌のあるいたずらを見つかった幼子のごとき、悪びれないパリィの声。だが、レジーナの目に飛び込んで来た光景は、苦笑がこぼれ落ちるような呑気な事態ではなかった。

 くまのぬいぐるみを両腕で抱えるパリィを、更に後ろから抱え込むように右腕を回す、蒼髪の少年。

 整った顔立ちの中、金緑の瞳ばかりが敵意を宿してぎらぎら光っている。触れれば切り裂かれそうな刃のようだ。

「近づくな!」

 一歩踏み出そうとしたレジーナを、顔から想定するよりやや低い声が鋭く牽制した。

「下手に動いてみろ。へし折る」

 何を、と訊き返すまでもない。少年の手はパリィの喉元にかけられているのだから。

「お前らはあの男の手先か」

 少年が一段と低い声で凄んだ。心当たりが無く、レジーナは片眉をはね上げる。

「誰と勘違いしているのか知らないけれど、私はただの孤児院の世話役で、その子は孤児の一人。貴方が思っているような物騒な人間ではないわ」

「嘘が混じってる」

 金緑の双眸が鋭く細められて、レジーナはどきりとし、少年に見えないように背中へ伸ばしかけていた右手を止めた。その先には、亡き父からもらった守り刀という物騒な代物が隠されていたのだ。

 そんじょそこらのならず者が相手なら、不意を突いて一気に距離を詰め、これも亡き父直伝の強烈な蹴りをひとつお見舞いして、パリィを助け出す自信はある。だがレジーナは、この少年相手にその技が通じそうにない事を感じていた。

 彼がパリィにかけた手は、一瞬で子供の喉を潰し命を奪う正確な位置に添えられている。人を殺す術を叩き込まれた者の手だ。

 この少年は、やる。恐らく、レジーナを凌駕して立ち回り、彼女を叩き伏せる実力をも持っているだろう。

 それに、彼から発せられる――否、厳密には彼を取り巻くと言って良いだろう――威圧感。その正体が何なのか、レジーナには正確に言い当てる事ができなかった。だが、これだけの威圧感をただびとが持つとは思えない。一体この少年は何者なのか。

 お互いに睨み合ったまま動けず、膠着状態に陥る二人。

 だが、その場の空気を動かしたのは、きゅるるるう……という何とも間の抜けた音だった。

「あ」

 パリィは、自分が背後の少年に生殺与奪の権利を握られているなど微塵も感じていないあっけらかんとした口ぶりで声をあげ、

「レジーナ、おなかすいちゃった」

 少しだけ恥ずかしそうに頬を染める。

「このお兄ちゃんにも、おやつを出してあげて」

 それを聞いた途端、レジーナは形の良い唇を歪めて呆れた吐息を洩らしたのだが、少年の方にも変化があった。金緑の瞳が驚きに細められ、それから段々と殺気が抜けて呆れの色が宿る。

「何なんだ、お前……」

 そこまで言うと同時、少年の身体から力が失われた。右手がパリィの首から離れて金緑に紗がかかり、は、と、苦悶の息をひとつこぼして、糸の切れた人形のようにへなへなと地面に倒れ込む。

「パリィ、こっちにいらっしゃい!」

 こちらが油断し近づいた所に、再度跳ね起きてくびり殺す為の演技かもしれない。警戒心をあらわにレジーナは叫んだのだが。

 名を呼ばれた当の少女は、いきなり崩れ落ちた少年を、藍色の目をぱちくりさせて不思議そうに見つめていた。だが、身を屈めその顔をまじまじと眺めると、レジーナを振り返り、可愛らしく小首を傾げて一言。

「レジーナ、このお兄ちゃんを助けてあげて」

 レジーナは再度長い嘆息をこぼす。

 一体この子は自分がこの男にどんな目に遭わされそうになったのか、わかっているのだろうか。そう考えて思い直す。

 ああ、そうだ。

 わかっていないのだ。

 わからないのだ、この子には。

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