君、魔法少女の救いとならん

senbetsu

第1話 君、蹴り飛ばされん

 夕焼けの住宅街を歩いていると、少女が降って来た。

 降って来た、というのは正しくない。もっと的確に現すのなら、少女が降りて来た。落下ではなく降下だ。その行動には彼女の意思があって、もはや地面に激突するしかない転落ではなかった。同じ二階から飛び降りるにしても、自分から思ったように飛び出すのと、そうでないのとでは意味合いが違ってくるだろう。少女は前者だった。

 どれほどの高さから降りて来たのかは分からない。学校帰りの彼が最初に彼女を見つけたのは、それよりも前に猫を見つけたからだった。どこの誰とも知れぬ家の塀に、我が物顔で重箱座りをした黒猫。黒猫は彼が近づいても身じろぎせず、ただ何かを見上げていた。視線の先にあるものが気になって、彼は普通に歩いていればまずしないだろう、空を仰ぐという行為に及んだ。冬の空気の中で立ち止まって、彼の足音さえ消えて、世界は慎とした。

 それは燃えるような天に浮かぶ、黒い点でしかなかった。鳥か飛行機か、いや、それにしては張り付いたように留まって動かない。目にゴミでも入ってそれが見えているのか、とも思ったが、もしそうなら猫に同じ黒点が見えているはずはない。点は段々と大きくなっていく。だから目の中のゴミではないようだった。大きくなるに従って左腕の痛みが増すので、段々と点にばかり集中してはいられなくなった。

 ……左腕の痛みは一か月前からある。

 外傷はなく、内側にそれはあった。骨か、筋肉か、神経そのものか、医者でなければ経験もない彼には原因の判断がつかなかった。ならば医者にかかれば良いものを、しかし彼は良しとしなかった。病院に行ったところで解決はしないだろうと、根拠もなく直感していたからだ。常ならざる存在こそ痛みの原因だと、彼は錯覚のように確信していたのだ。確信のような錯覚を抱き続けて、今や一か月も経ってしまった。

 左腕が張り裂けそうに痛い。こんなに痛いのは初めてだ。彼は一か月も続いた自身の気の迷い、もうろくを呪った。こんなことなら素直に医者に診てもらえば良かったのに。ああ、あまりに痛くて意識が飛びそうだ。全神経が左腕に集中して、擦れ合って熱を持ち、風船めいて膨張し、ぱんと破裂する時を待っているかのようだ。

「……あ」

 気づけば、少女は目の前にいた。まるで歩いてきたみたいに柔らかく、黒い色のパンプスを履いた右足、左足と着地する。シルエットは少女趣味、年の頃も十四、五歳でまさしく少女。けれどやけに渋いこげ茶色のドレスに、おしゃれとしては度し難い野菜のアクセサリーをたくさんぶら下げた彼女は、微笑をたたえながら、左腕を抱えた彼を真っ直ぐに見据えて言った。

「前柄累。間違いございませんわね」

「え? ……ああ」

「結構」

 明らかに具合の悪そうな相手を前に、少女は微笑みを崩さなかった。

 頷き、自身の口の前に形作った手を持って来る。人差し指と親指で何かをつまむような、そんな形。実際に何かをつまんでいるわけではなく、その隙間に通すように少女の放った言葉は、聞き取ることはできたものの、到底人の口から出る音ではなかった。バイノーラル。前から後ろから右から左から下から上から。聞こえるというよりは、鼓膜をすり抜けて頭の中に刻み込まれるような、不思議な声だった。

遠い日の風景ロック・ザ・ヘブン

 ぱりん、と少女の後ろに流れる空にひびが入った。いや、ひびは夕焼けから一戸建て、石の塀、コンクリートの道路へと渡っていたから、もっと手前にひびはあるようだった。彼女のすぐ後ろにガラスがあって、それが割れたのか。もしそうなら、どんなに巨大で透明なガラスだと言うのか。いや、住宅街にそれほどのガラスを突然用意などできるものか? そんな大掛かりなもの、昨日はこの道になど欠片も落ちていなかったぞ?

 彼の戸惑いをよそに事態は進行していく。亀裂はやがて孔になり、孔からは光が漏れ出した。ばりんばりんばりん。ひびを辿って穴は大きくなり、光は従って強さを増していった。ばりんばりんばりん。光は少女を飲み込んで、彼、名前を前柄累という高校生までもが巻き込まれていくのに、時間にすれば十秒とかかっていなかった。

 少し、光に塗り潰されて。

 ぱあ、と晴れる。累は気づけば、住宅街に立っていなかった。地平線まで続く青空と平原。一面には色とりどりの草花が絨毯のように広がっている。歩いていたはずの住宅街の姿など、――二車線の道路に並木の歩道、連なって空を切り取る一戸建ての列など――欠片も見当たらなかった。できあがっていた絵画を上から塗り潰して新しい絵を画いたように、きれいさっぱりとすり替わっている。

「捕えましたわ。グッドチャイルド」

 はっとして、彼は少女に視線を戻した。住宅街からこちらの平原に変わらず、言わば引き継がれたのはたったの二人。制服姿の前柄累と、こげ茶色のドレスを着た少女だけだった。

『おーけーダブルセイバー。こっちも始めるよ』

 彼のでも、ダブルセイバーと呼ばれた少女のものでもない、三人目の声が彼女から聞こえた。いや、それはダブルセイバーの口からではなく、出所はどうやら彼女が首にしているチョーカーのようだった。フリルで縁を象った可愛らしいチョーカーが無線機のような役割を果たして、ここにはいない誰か……グッドチャイルドの声を運んで来ていたらしい。無線機だと思えば、その声がノイズ交じりであるのも納得がいく。いや、逆だろうか。

 何にせよ。

 おっとりと丁寧に話すダブルセイバーに比べ、グッドチャイルドの返答は軽快で、声色こそ少女らしかったが、その向こうには少年のような姿を想像させた。耳一つで判断しても、二人の印象はまるで正反対だ。

 ダブルセイバーは、こげ茶色のチョーカーに当てていた指を離して、改めて累に向き直った。

「何が起こったのか、理解していませんわね」

「ああ、何が何だか……」

「結構ですわ。実に。理解されては困りますの。あなたはこれから、死ぬのですから」

 わたくしに、殺されるのですから。

「は?」

 言葉の意味が分からなくて、累は間抜けな声を返した。意味が分からなかったのだから、意味の分からない言葉が口をついて出てくるのは仕方がない。

 その時にはもう少女の姿はなく。

 ぐしゃ。

 と、右耳から嫌な音がしたと思ったら、彼は吹き飛んでいた。声を出すこともできず、その衝撃を痛いと感じる余裕さえなかった。何しろ、ぐしゃ、の辺りで既に彼の意識は断絶していたのだ。

 たっぷり五秒近くも地面と平行に滑空し、意識なく力も抜けた身体は地面に落ちた後も数秒、どたばたと良い様に跳ね転がった。まるで粘土でできていたかのように凹んだ累の頭から、スプリンクラーめいてあちらこちらに血液が飛び散って、草原に赤い斑点をつけていく。即座に意識を失った累には何が起きたか理解もできなかっただろう。最後の光景は、ただ急速に視界が揺さぶられた、それだけのものだった。

 彼は、飛び上がったダブルセイバーに蹴り飛ばされたのだ。顔を右から容赦なく、横一文字に一閃されて。

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